2010年3月7日日曜日

幸徳秋水『平民主義』を紹介するつもりが政治と芸術との本質的関係についての話に飛躍(ボヤキ)。そういえば今年は大逆事件から100年だ!

我等平民が其主張要求を貫徹せしむる所以の武器は何物ぞ(中略)

何ぞ夫れ然らん、民は実に有力なる武器を有す、何ぞや曰く、「多数」! 五指の、交々弾かんよりは一拳の撲つに如かざる也、一人の罷工は侮辱を以て目送せらる、多数の同盟罷工は恐怖を以て敬憚せらる
多数は勢力也、多数の要求する所古来聴かれざるなし、我等唯だ多数の勢力を要して要求すべし、(以下略)
 
 
幸徳秋水『平民主義』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション第1巻 幸徳秋水』所収,2002,論創社[原書初版1907年])より。(『平民主義』は文庫化されてない(涙)。この本、高すぎて人に勧められん!中公バックス『日本の名著・幸徳秋水』には口語訳が入っているけど、これも今や入手困難)
 
 
幸徳秋水、実は長年愛読していまして、その中でも彼の思想の核心をなす『平民主義』が一番好きですね。七年前、菊池菊之助さんらと『〈帝国〉』の読書会をやってた時に『現代思想』編集長のイケガミさんがご臨席されたことがあり、ネグリさんやハートくんが云うところの〈マルチチュード〉に近いことを考えた人はかつての日本にいたか?ということが話題になりました。その場では思い出せなかったのですが、その後、幸徳は案外近いんじゃないの?とか思って探して見つけたのがこのくだりです。
(※マルチチュードとは、多数性、多数的なもの、複数的なものをという意味で、国家や資本による政治的決定の独占に身を任せることなく自律的に行動する人々の群れ、その総称、とひとまずは言っておいて差し支えないと思います。ですが、定義しようとするといつもすり抜けてしまうような流動的なものです。)
 
最近、『現代詩手帖』などの詩壇誌では人が群れてなにかすることを冷笑してこき下ろす文章を、批評の名において平気で書く人が多くて腹が立つのですが、そんな文章に惹きつけられる人がいるのだから始末に負えません。
 
そこでは政治と芸術は截然と区別できる、区別すべきものである、ということが無邪気に信じられているようです。しかし、芸術であれなんであれ、人が他者に差し向けてなにかを発表するとき、共感であったり反感であったり、なんらかの感性的な反応があるわけですが、そのような巻き込まれの中において不可避的に発生するのが政治です。なぜなら、そこでは実践へと動機づけられるにせよ、考えるだけですますにせよ、なにもしないにせよ、他者との関係において必ず何らかの機制が働くからです。
要するにだれもが政治的であるということからは免れないということです(「政治と芸術は区別すべきだ」という命題が、すでに政治的)。すると政治と芸術との関係は本質的なものである、というランシエールの思想がある真理を開いているのは間違いありません(『不和あるいは了解なき了解』『感性的なもののパルタージュ』 など)。
政治と芸術を区別できる、と無邪気に考える論者たちが、詩人の純粋な感性を結晶化した詩集をえらそうな態度で裁断するとき、そのような態度を可能にする体制(ランシエールなら美学的体制という)を自明の前提としているわけですが、その自覚があるのかないのか、それすら怪しく思えます(たぶんないでしょうねぇ)。彼らの主体の形而上学は何によって基礎付けられているのか、当人たちにお聞きしてみたいところですね。
 政治と芸術との関係において、真に問題にすべきなのはその芸術がイデオロギーなりなんなりといった予定調和的なもの、超越的なものに回収されていないかどうか、ということでしょう。ですが、それであっても、創作の動機としての純粋な情動の発露、までをも否定することなどできません(せいぜいのところ、それは芸術の評価に関わるだけの話)。
僕らがやっている詩誌『紫陽』では16号で湾岸戦争詩論争での藤井貞和の立場を肯定する特集を組んだり、編集後記でこれまで何度もこのテーマについて書いてきたりしたのですが、『現代詩手帖』では評者が『紫陽』に掲載した作品を紹介することはあっても、このテーマが正面から取り上げられたことはただの一度もありません。これだと向き合えないなにかがあるのだろう、と勘ぐらざるを得ませんね。
因みに『紫陽』16号の藤井貞和特集と真摯に向かい合ってくれたのは、あれほど駄目だダメだ、ダサイださいと詩人たちからコケにされた『びーぐる』(詩誌時評の細見和之氏、詩論時評の阿毛久芳氏)だけで、『現代詩手帖』は『紫陽』がこんな特集やってますという紹介のみで内容に言及せず(評者は久谷雉氏→しかし久谷氏は『紫陽』を2008年の詩誌ベスト5のうち3位にランキングしてくれた。彼はおくゆかしい男である)。『詩と思想』は完全無視しただけでなく、藤井貞和さんが湾岸戦争詩論争で受けた傷跡がまだ癒えていないこと窺わせる痛ましい著書『言葉と戦争』(大月書店)を持ち上げる特集まで組んでしまう始末。
 
しかし、その程度の批評レベルでまかりとおってしまうところにも、一般の人文書読者から現代詩や『現代詩手帖』が軽視される理由があるのでしょう。現代美術の世界ですら再び政治と芸術の関係が重要な課題として浮上する気配が漂っているのに・・・。
 
群れの話に戻します(すいません)。群れになるのが苦手(現代詩人、とかね)だったり個人的に嫌いだったりするのは仕方ないとしても、それに居直って「マルチチュードという言葉はすごく嫌いです。マルチチュードよりソリチュードだよ(笑)」(『詩手帖』09年11月号における佐々木敦氏の言葉)などと批評の場でダジャレ未満をかましながら乙にすまされると、こりゃもうげんなりするしかありません。こうなると、自我の超越性という新しくも何ともない問題に阻まれて話がそこで終わってしまいますからね。マルチチュードって言葉を発明した人の問題でも、それを道具にして活動する人の問題でも何でもなくって、そりゃああんたの心の問題だよ!佐々木さん、ってつっこみたいのですが・・・。

そうやってげんなりしたときは古今の思想家・活動家たちの顔(肖像画・肖像写真)を思い出したり、名著をひもといたり、同志に電話してだべるに限ります。
究極Q太郎さんもドゥルーズ=ガタリをひきながら「群れになるべし」(『現代思想』97年5月号「ストリート・カルチャー」)と言ってましたね。

幸徳の話から随分飛躍してしまいました。

政治と芸術との関係については、いつでもどこでも何度でも、機会あるごとにしつこく発言する必要があるので、改めてちゃんとしたものを書きます。

なのでこの記事に対するクレームはご遠慮ください。
どうしてもいいたいことがある人は、このブログのプロフィールページにリンクされているメルアドにメールをどうぞ。直接やりとりしましょう。

3 件のコメント:

  1. 「むしろ耳に心地いいことば、穏やかでやさしいことばのなかに、慄然とするような悪が居座っている。ことば自体、ほとんど資本の世界、商品広告の世界にうばいとられている。やさしさや愛のことばも。ことばということばには、資本の鬆(す)が立っています。有名な詩人が大手生命保険会社のテレビコマーシャルのためにもっともらしい文章を寄せる。べつにそれはcrime(犯罪)ではない。ですが、これほど恥ずべきsin(原罪)はない。ぼくはあれほどひどい罪はないとおもう。あれは正真正銘の“クソ”なのです。堪えがたい詩人のクソ。そうおもいませんか?そうおもわないという人はしょうがないけど、ぼくはおもわないということが怖いのです。おもわなくなったということに戦慄を感じます。」
    (辺見庸『しのびよる破局』09年、大月書店、113頁)

    ※ここで辺見庸が谷川俊太郎の愚劣な行為を指して使っている「クソ」という名詞は、反時代的な詩性を纏う「糞(うんこ)」とは何の関係もないし、藤井定和がボロボロになりながら書いた「クソ詩」とも全く別のものだ。むしろそれは、<人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる>、資本主義のヴァーチャルな「クソ」であるだろう。臭くないことは言うまでもないが、だからこそ極めて恐ろしい。

    返信削除
  2. ほしのむらびと2010年4月8日 12:41

    「詩人も受勲し褒章を受ける。シンボリックにいうと〈幸せな詩人たち〉、私はこの人たちがもっとも罪深いと思っています。〈幸せな詩人たち〉ほどひどい人間はいない。〈幸せな詩人たち〉はどこに人を殺すと書くこともなく、なにを悪辣な言葉で汚すこともなく、きいたふうな言葉で世界をきれいなものに装わせてしまう。まったく手を汚すことなく世間に同調し、あるいは安全なところで世間を支えさえするでしょう。これほど偽善的なことがあるでしょうか。」
    (辺見庸『愛と痛み』2008年、毎日新聞社、74頁)


    以前、敬愛する詩人から教えてもらったこの本、ものすごく大切なことが書かれています。詩の窟が再会したらぜひ取り上げたいと思います。

    返信削除
  3. コメントありがとうございました。
    ほんとうにおっしゃるとおりですね。
    このような議論が通じる場所がどんどん狭まっている気がするので、機会あるごとにしつこく粘り強く発言せねばと思います。

    返信削除

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。