2010年12月24日金曜日

散文詩誌『サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち』創刊号

小林坩堝(こばやしかんか)さんから届いた散文詩誌『サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち』(編集発行・榎本櫻湖,2010年12月刊)が面白い。

これは小林坩堝、榎本櫻湖(えのもとさくらこ)、望月遊馬(もちづきゆうま)の三氏による同人誌で、同人に課せられた義務は原稿用紙10枚以上の散文詩を提出すること(つまりそうでないと掲載しない)という恐るべきもの。今の自分の生活スタイルから想像すると、仮にそんな作品を期日までに仕上げようと思うと、当分娑婆には戻ってこられないな・・・とため息を吐き出すしかないようなすさまじさです。だから、当然、読者への負担もかなりなもので、読み始め、作品世界に入るには相当なエネルギーを要する作品ばかりですが、それぞれの作品には言葉を膂力でひりだしたというような作り込みの過度な緻密さから来るいやったらしさは微塵もなく、一旦作品のリズムに乗ることが出来ればすいすいとその世界に入り込めるのは魅力といえるでしょう。
それぞれがそれぞれに詩的実践の場をもつ三氏が集まることで形成された、小さな、だが潜勢力に満ちた新たな時空の出現は、イデオロギーですらなかった「ゼロ年代詩」のリセットがすでに始まっていることを窺わせてくれます。小笠原鳥類以後の現代詩が、特殊な表現主義が主流となったことに愛想をつかした人も、閉鎖的なループの中で病める詩壇を唾棄する人も、またその中で揚々とする人も、これまで現代詩に偏見を抱いていた人にとっても、この詩誌は福音になるかもしれません。

榎本櫻湖さんの云う「もはや散文詩を試みるよりほかに、詩的言語の獲得は難しいのではないか」という問題意識によるこのような冒険に対しては、詩誌を発行するという実践的な観点からすれば持続させるのが難しいという意見や、そうはいっても行分け詩を書くだろう、などという意見もあるかもしれません。あるいはこのような問題意識にはそもそも同意できないという人もいるでしょうが、そんなことはどうでもいいことで、これが一つの磁場となり、無数のモナドが吸い寄せられ、痙攣し、そしてあらたなる表現の絶えざる追究という無限運動の連鎖となること、その可能性への開かれが若い詩豪たちによって提示されたことの意義こそが重要なのです。


三氏には失礼ながら、試みに作品の数行をランダムに拾ってみましょう。

透けた身体をもった人々が、飛び出してくる。背景には、崩れた街の燃えるのが視える。人びとの走ってゆく足もとには、たくさんの白い紙片が散乱し、それがかれらの一投足に汚れ、舞い、破れて、燃える借景を覆い尽くした。声にならない歓声をあげ、かれらは何処までも駆けてゆく。沈黙が怒濤の如く、しかし沈黙として無音のまま、騒然と、狂ったように、出自もなく滅するところもない、流れのための流れに流れ、ただ在ること、踏みとどまること、そして燃えている風景、・・・・・・(中略)

舞踏だ。涙するより先に、脚が、腕が、ちぐはぐに踊り出す。踊れない踊りを、踊り続ける。床下にくすぶっている・・・・・・・・

(小林坩堝「叙景――黒く塗りつぶされた「われわれ」のための」より)




瀟洒な変質に凭れて寛ぐ密やかな未明に、そう、一つの雲母のなかで蠢く奇妙な墳墓、その絶えざる沈黙から伸びる卑猥な擬態について、改めて薄暮のうつろいとともに訊ねながら、うらぶれた私淑にもはや臨終を告げ、その上雲海と呼び馴された薄明の淡い光源にに、かえって背ける顔すら剥がれ落ちた今となっては、萎縮する竪琴の弦を模倣する意義もなく・・・・・・・・

(榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」より)




(ヒト)の絶たれた雨のない葉の表層で、剥離した心理が夥しくうつろい、「折り紙」の線の痕跡にむけて指をおろしていく、深みにすら折りたためない「何か」を実像とはせずに(画)とは思えない紙片をまた畳みかけるような新種の紙でないことを、誰も知らない。沈着しないまま、山折りにならず谷の方へと了解しては(おりていく)という参照的な谷折りの遠慮ですら紙はすでに全体として線のない部分をおりていく。

(望月遊馬「五行目で終えるための」より)


2 件のコメント:

  1. えー、これええなー。ほしいなー。送ってもらえへんやろかなー。紹介文もなかなかええやないか~。
    師走の駄々村より

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  2. 近日、届くことでしょう!

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