2013年1月27日日曜日

詩人・藤井貞和の髪型変遷史 


竹村正人氏(詩人・映像作家)による考察
「ここに選び出したのは一九七〇年代から現在までの藤井貞和氏の写真であるが、そのほとんどは『現代詩手帖』、『国文学 解釈と鑑賞』、および『国文学 解釈と教材の研究』から頂戴したのであるが、網羅したわけではないにしても、過去に行われた対談・鼎談・座談の類の多いことは御覧頂けると思うし、全体の七〇パーセントほどはここに集められたと思うので、以下、その流れを見てみようと思うのだが、まず①~⑦、つまり一九七五年六月から一九八四年五月の間は眼鏡を掛けていないことが分かり、髪の流れる方向についてはほぼ、左から右(われわれから見て右から左)であって、例外的に⑤と⑲があるものの、基本的には定まっているものと考えてよいかと思われ、コピーの精度もあるが23と24を除いて黒髪であり、かつ眼鏡については⑧⑨⑩⑪、つまり八十年代のある時期は上が黒ぶちであったものの、一九八七年以降はパンダ風の銀ぶち眼鏡であると見られ、29が例外的に裸眼であるものの、これはおそらく河原の石を拾うために一時的に外したのだろうと考えられ、全体として、八四年五月を例外とするものの、八〇年以降はノーネクタイで通していることが分かり、八四年五月は現代詩手帖賞発表というフォーマルな場であることが鑑みられてよく、以上のことから一言この変遷史について付言するならば、「不変に変成を続けている」となるだろうし、もし仮にこの中からベスト1を選ぶとしたら、残念ながら私は、今回見つけることのできなかった幻の写真、すなわち『地名は地面へ帰れ』について、藤井さん自らが書いている小文に付されたそれを挙げたいのだが、どこに掲載されていたか思い出せずここにはないが、しかしあえて好きな一枚をと言われれば、⑫のそれを選ぶが、あなたはどうですか?」





※写真は末次智さん(京都精華大人文学部教員)が撮影したものを借用。

2013年1月24日木曜日

「胎内巡りと画賊たち ~新春 真っ暗闇の大物産展」の様子 於、京都伝統工芸館

胎内巡りとは寺院本尊の周囲の暗い通路や仏像の胎内、あるいは自然洞窟を仏の胎内に見立てて手探りでくぐり抜けるという、輪廻転生の信仰による民間習俗である。神道における禊祓(みそぎはらい)に由来する行法ともいわれるが、のちにある種のアトラクション的なものになった。胎内くぐり、とも。
 入り口。「窮地」と書かれた表札(木内さんのことか?)。ガラス戸の向こうにはオレンジ色の透ける影像がみえる(天野萌さんの作品)。この奥の暗闇の中を、灯火を手に巡回する。
 最初にみつけたのは木村了子さんの描く色男。
 ・・・
 ・・・
 ・・・! 
 !!
 !?!?!? 「私の男体盛り料理」と! これも木村了子さん。
これは漁網か? はたまた緊縛用の縄か・・・

暗闇をぬけると「新しい物産展」が目の前にさっとひろがる。
ここは伝統的な民芸品をモチーフにしたオリジナル民芸品と絵画やオブジェの見本市。しかし、キャプションはおろか、どれが誰の何という作品なのか、ほとんどなにも明示されていない。
この雑然とした雰囲気は、不思議と落ち着くものである。得も言われぬ不安(みたいなもの)を一瞬催した気もするが、たぶん気のせいであろう。

松ぼっくりで作ったカメ。誰の作品なのかわからないが、そんなことはどうでもいいと言われればどうでもいいような気分になる。

集団「画賊」の首領、玉野大介さん制作のオブジェ。「本来無一物」と書いてある。これはなにやらのゲーム盤らしいが、遊びかたを説明してもらうのを失念してしまった。脇にはネズミ男に扮する木内貴志さんの肖像が描かれた名刺が置かれているが、木内さん曰く、「無断でつくられた」とのこと。

 
以上、二枚は中田いくみさんの作品。この顔、この目・・・。

旧約聖書『創世記』、ノアの方舟とバベルの塔を思わせる、吉田和夏さん「名前のない塚 ~原始的な動力」。語られないままに亡くなってゆく命への想いが込められている。

おなじく吉田和夏さん「名前のない塚 ~トリケラ草群生地」。廃棄物の盛り土の上に築かれた塚。文明の廃物で汚染された土からは、白亜紀の末期、地球上に生息していた草食恐竜・トリケラトプスの頭部を象った花が咲く。

木内貴志さん「KUMIKOと貝殻と私」。「KUMIKO(久美子)」というのはもちろん、あの武田さんのことである。後光が石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェルのマークというのはいかにもマヌケではあるが、世界中で資源収奪をめぐる争いが過酷化している昨今の情勢を思うと不気味としかいいようがない。


◆グループ展「胎内巡りと画賊たち ~新春 真っ暗闇の大物産展~」 1/10~1/20 
参加作家: 玉野大介、中田いくみ、橋口優、前田ビバリー、maggie、吉田和香 〔以上、集団「画賊」メンバー〕
天野萌、木内貴志、木村了子(ゲスト作家)、momo(岡山泰士+森田修平)、〔以上、胎内巡り制作〕




2013年1月23日水曜日

アンドレ・ブルトン『秘法十七』(1947年)より

古い池はもはやない。池全体が月の笏杖の下で、そのたっぷりとした呼吸をとりもどし、その波のくぼみくぼみは、熱い海のあらゆる魚で、色とりどりに飾られる。その魚たちの間に、たがいに顔を見交わすことにたえられず、自分といきうつしの相手といまにも死をかけてたたかおうとする、緋色と青鴉色の《闘魚》たちがいるのが見てとれる。奴らの剣さばきはじつに活発なもので、微光が奴らの後へのこり、透明で液状の貝殻を、もっともしなやかなものからもっともきららかで細身のものまで、あらゆる方角へはせめぐるのだ。けれども波はしずまり、風変わりな闘いも終りになる、というより、曙の光の中に消え失せる。二つの流れは音もなく流れ、そして大地からは、感覚の全域をひとりじめにしようと、一本の薔薇の香がたちのぼって来る。今、辛うじてかいまみられたばかりの薔薇は、不意に、ふるえる夜の中で、聖なるエジプトのすべてを告げる。薔薇は、めまいを起こさせるほどくるくると旋回して、あがめられたる鳥、鴇(とき)の衿飾りとなり、そこからとりだされて来るのは、人間の夢が、荒縄で自分の建て直しを実行し、葉脈の方向にひびわれた自分の白い靴底を星々の間にはりわたされた糸にそって、あらためてすべらせようとするために、必要となるかもしれないすべての艤装用品だ。薔薇は、再生能力に限度はないと告げ、そして主張する、いかに過酷であり汚れにみちていようと、冬は、過渡的なものとしかけっしてみなされないと。それどころか、冬の鞭は、エネルギーをよびもどすために、鞭の先端で数千匹のエネルギーの蜜蜂を集めるために定期的に道々を打たなければならぬ、さもないと蜂どもはしまいには太陽のあまりに酔心地をさそいすぎる柘榴の実の中で、ねむりこけるだろう、と。

(ブルトン『秘法十七』入沢康夫訳,1993年,人文書院,118頁)


「秘法十七」とはタロットカードの17番、〈星〉のこと。
星空の下、女性が両手にもつ水瓶から大地にそそがれる水が池になる図像である。
この美しいくだりに登場する闘う魚のイメージが、二匹の魚が逆並行に描かれる魚座の絵図と対応していることは明らかだ。
このイメージは「溶ける魚」とどのように呼応しあうのだろうか。


アンドレ・ブルトン『溶ける魚』(1924年)を転読してみる

公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。意味のない城がひとつ、地表をうろついていた。神のそば近く、その城のノートは、影法師と羽毛とアイリスをえがくデッサンのところでひらかれていた。〈若後家接吻荘〉というのが、自動車のスピードと水平の草のサスペンションとに愛撫されているその宿の屋号だった。そんなわけで前の年にはえた枝々は、光りが女たちをバルコニーにいそがせるとき、ブラインドに近づいて身じろぎひとつしなかった。若いアイルランド娘は東の風の泣きごとに心みだされながら、乳房のなかで海の鳥たちが笑うのをきいていた。・・・
(1) 
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けがれた夜、花々の夜、喘ぎの夜、酔わせる夜、音のない夜よ、おまえの手は四方八方の糸、黒い糸、恥ずべき糸にひきとめられている卑しい凧だ! 白と赤の骨の野原よ、いったいどうしたのだ、おまえのけがらわしい樹々を、おまえの高木性の無邪気さを、そして、びっしりならぶ真珠や花々にかざられ、まあまあの銘句やどうとでもとれる意味のはいっているひとつの財布にひとしいおまえの誠実さを? そしておまえ、盗賊よ、盗賊よ、ああ、私を殺すのだな、私の目のなかのおまえのナイフをむしりとる水の盗賊よ、おまえにはこれっぽちの憐れみもないのか、光かがやく水よ、いとしい清めの水よ! 私の呪いは、おまえたちのほうに金雀児(えにしだ)のほうきをゆすっているこわいほど美しいひとりの少女のように、長いあいだおまえたちにつきまとうだろう。ひとつひとつの枝先には星がひとつずつあるが・・・
(9) 
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雨だけが神聖であり、だからこそ、嵐が頭上で大きな袖かざりをふるって財布を投げおとしてくるときに、私たちは森の木の葉のおののきにしか釣りあわないちょっとした反発の身ぶりをする。雨のフリルを胸につけた大貴族たちがある日のこと馬で通りかかるのを見かけ、〈善良なはたご〉へとむかえいれたのはこの私である。黄いろい雨があって、これは私たちの髪ほどに幅ひろい滴をまっすぐ火のなかにおとしてその火を消すものだし、また黒い雨があって、これはおそろしい愛想のよさで私たちの窓ガラスを流れくだるものだが、それでも忘れるまい、雨だけが神聖なのである。
そんな雨の日、ふだんとかわらない日だったが、私はたったひとりで、涙の橋のかけられた深淵のふちで私の窓のむれを見まもっているいときに、自分の両手が顔をおおうマスクであり、自分の感覚のレース編みにすっかり満足する仮装用仮面であることに気づく。・・・
(16)
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きみにもやがてわかるだろう、私がもはや首を吊るための雨にもあたいしなくなるとき――森のはずれの、青い星がまだ自分の役目をはたしていない場所で、寒気がその両手をおしつけながら、私に忠実でいてくれるだろうすべての女たちに、だが私と知りあってもいない女たちに、こういいにくるときがくれば。「あれは草の肩章と黒い飾りカフスをつけたりっぱな船長であったし、おそらく命のために命を投げうつ技師でもあった。・・・
(23)
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彼はどんな男か? 彼はどこへ行くのか? 彼はどうなったのか? 彼のまわりの沈黙は、彼のもっとも貞節な思考であったあの一足の靴下は、あの一足の絹の靴下は、どうなったのか? 彼は自分の長く続く斑点を、自分の狂ったガソリンの眼を、自分の人間交叉路のざわめきをどうしたのか、彼の三角形と彼の円とのあいだには何がおこったのか? それらの円は、彼の耳にとどく物音を浪費していたし、それらの三角形は、誰かがもう眠る時間だといいにくるとき、白い影をもつ使者がもう眠る時間だといいにくるとき、賢い者たちの行かないところへ行くために彼のはめる鐙だった。・・・
(25)
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・・・有名な脱走事件の数々について一冊のつまらぬ本が書かれているにすぎない。あなたがしらなければならないこと、それは、ふと気まぐれに身投げをしてみたくなるようなすべての窓の下で、かわいげな小悪魔たちが、悲しい愛のシーツを東西南北にひろげているということだ。私の観察はほんの数秒間しかつづかなかったけれど、自分がなにを知りたいのかはわかっていた。いずれにしろ、パリの各所の壁には、白い覆面をし、左の手には野をひらく鍵をもつ、ひとりの男の人相書きがはりめぐらされていた。その男、それは、私だったのである。
(32)

(巌谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫版より。各引用文末尾の数字は章番号)


ここに「溶ける魚」がいるがこちらはまだすこし私をたじろがせている。溶ける魚といえば私こそがその溶ける魚なのではないか、げんに私は〈双魚宮〉の星のもとに生まれているし、人間は自分の思考のなかで溶けるものなのだ! シュルレアリスムの動物界と植物界は、おいそれとうちあけられないものである(「シュルレアリスム宣言」岩波文庫版72頁)

ひとつの金魚鉢が私の頭のなかをめぐっていて、その鉢には、悲しいことに、溶ける魚たちしかいないのだ。溶ける魚、これについて考えてみたところ、少しばかり私に似ている。(同書訳註で引用されるブルトンの手帳の中のメモ。→240頁)

アンドレ・ブルトンの誕生日は出生証明書では1896年2月19日、魚座の第一日目になっている。しかしブルトン自身は2月18日生まれ、水瓶座の最終日であるとも公言するなど彼の誕生日は曖昧なまま謎として残されているが、金魚鉢のなかの溶ける魚のイメージというのは水瓶座と魚座、その両方にこだましているようで興味深い。

水瓶座Aquariusが象徴するもの、
エジプトではアピス神(=ナイル川)、および豊饒をもたらすその洪水。キリスト教では洗礼者ヨハネ、およびタディアスと関連。
形ある宇宙に終わりをもたらす洪水の時期、能動性と受動性の二重性を備えた時期。
脚、血液の循環(または思考の循環)、土星、洞穴と下水溝、雨をもたらすガチョウ、「力」のタロット、寒気・闇・洪水・雨・嵐、昼間の特徴としての安定・明るさ・情熱・湿性・陽気さ、に対応。

魚座Piscesが象徴するもの、
古代バビロニアでは雨と復活を象徴。水および溶解による破滅、万物の根源である水から宇宙的生命力が蘇生することを表す。金星Venusの宿る場にあたることから性愛の象徴。脚および足指、木星、「吊られた男」のタロット、移ろいやすさ・弱々しさ・女性的であること、に対応。

(以上はアト・ド・フリース著『イメージ・シンボル事典』〔山下主一郎他訳・大修館書店〕を参照)


  (「大金魚博覧会2012」〔2012年8月,大和郡山市・旧川本邸〕でのスナップ)


2013年1月22日火曜日

 芸術における現実性の強度 ~展覧会「溶ける魚 つづきの現実」に

超現実主義とも訳されるシュルレアリスムsurréalismeとは、第一次世界大戦後1920年代~30年代にかけてヨーロッパで起こり世界中に広がっていった20世紀最大の芸術運動であり、その思想であることは周知の事実である。詩人アンドレ・ブルトンの呼び掛けに同世代の詩人や造形芸術家たちが呼応することでそれは成し遂げられた。
シュルレアリスムの代表的な方法に〈オートマティスム(自動記述)〉があるが、それは方法の発明ではなく、創造というのは程度の違いはあれオートマティックになされるものである、ということの発見であった。
口述にしろ、文章を書くにしろ、デッサンを描くにしろ、予め用意することなしに自動的に手や口が動くものから計画的にことを進めるものまで、その度合いの違いには境界線などはなく、ただグラデーションがあるだけである。
夢や狂気を擁護したブルトンらはオートマティスム(自動記述)を、ジクムント・フロイトが精神分析において開示した〈無意識〉の領域にアプローチする手段として実験したのであった。

ところで〈無意識〉とは端的に言うと〈実存の闇〉のことにほかならず、それ以外のなにものでもない。フロイトの精神分析が、同時代において批判したカール・ヤスパースや68年以降頭角を現したドゥルーズ=ガタリによって乗り越えられたとて、フロイトの言う〈無意識〉という概念が無効になったわけではない。単にそれを把捉する仕方がより深化し、通路が多様化しただけのことである。ここでは、〈実存〉が課題として浮上するということを心に留めておこう。〈実存〉とは、ヤスパースやメルロ=ポンティ、あるいはレヴィナスがいうニュアンスでの〈実存〉、つまり人間の無意識の内奥にある訳の分からないものでありながら、状況の中で(ときに愚かさを伴ったりもする)自己の思考や行動を司っているものを、〈向き合う〉という主体的な位相において捉える概念である、と理解していただきたい。

さて、ブルトンらが実験的に示したオートマティスム(自動記述)やエルンストがコラージュによって示した異質なイメージ同士を組み合わせるデペイズマンなどの〈方法〉は、マルセル・デュシャンが示した〈あり方〉と同様、現代美術の原基としてそれ以後今に至るまで否定のしようもなく展開しており、これからも展開していくはずである。さらには運動としての起源や展開を異にするアブストラクト(抽象)もまた、方法においてシュルレアリスムと共通する要素を少なからずもっている。

つまり、〈現代美術〉と括られるジャンルの芸術は、程度の大小や自覚の有無、思想の深浅があるとはいえ、大半のものが何かしらの意味でシュルレアリスム的であると言っても、過言ではない。

ブルトン自身はロシアの革命家トロツキーと交流したり、つねに政治情勢と対峙したステイトメントを発表するなど「政治的」であったことは有名であるが、運動に参加した者たちの多くも、第二次大戦のナチ占領下でレジスタンスを展開するなどそれぞれに「政治的」であった。それは彼らが政治と美学の不可分性を深く自覚していたからである。シュルレアリスムを〈運動〉と位置付けたことからも、それは窺える。
そこで考えねばならないのは、表現者が作品を他者へと差し向けるという行為は他者の感性を巻き込むことで遂行される、ということである。作品が他者へと差し向けられるとき、受け手は共感であったり反感であったり無視であったりと、何らかの感性的な反応を否応なしに引き起こす。その時、さまざまな美学を条件付けている秩序や規準に何かが触れるのだ。通常、美学の秩序や規準が揺さぶられたり、亀裂が入ったりすることに期待して私は作品を探し求め、そして向かい合うのであるが、そのような作品と出会ったときに揺さぶられるものは何も美術アカデミズムやジャーナリズムを条件付けている権威的な秩序に限らない。〈いい〉〈わるい〉〈美しい〉〈醜い〉〈面白い〉〈面白くない〉といった、我々が作品に知覚を晒す際に下す美的・趣味的判断の規準をも揺さぶるのである。揺さぶりの力には、ラディカルなものから揺さぶりというには大げさなほど予定調和的なものまで、力のグラデーションがあるにすぎない。
ジャック・ランシエールはこのように芸術作品であれ、言論による主張であれ、人が何かを表現し、他者に差し向ける際、受け手の感性が巻き込まれる中で生じるものを〈政治〉と呼び、その構造を解き明かしたわけである(『不和、あるいは了解なき了解』『感性的なもののパルタージュ』)。具体的には、ある作品やある発言を「それは政治的だ」と言って非難する者がいたとして、そのような非難すらもが政治的であることからは決して免れえない、という事実を思索の糸口にしていただければ分かりやすいだろうか。
芸術の場合、作品が及ぼすイメージが剥き出しであるか直示的であるか変成的であるかの違いや、テーマが世俗的な意味で「政治的」であるか否かを問わず、表現者の自覚の有無は作品(作者の真実の結晶)の現実への波及力、作品のもつ現実性に関わってくる。その力とは、換言すると、物事にはつねに別の見方があることを、見る者に提示する力のことである。その力が漲る作品に出会うと、我々の感性は強く肯定的な揺さぶりを感じる。そこには、いわゆるファインアートであるか、繊細な心を保護する壁を重視するフェティッシュアートであるかの別はない。したがって、美学の規準を揺さぶる力の有無は〈芸術作品の現実性〉と関わっている、とひとまずは言っていいと思っている。
つまるところ、表現者が政治と美学との不可分性を自覚しうるか否かは、各自の実存への志向性に関わっているといって差し支えないのではないか。
また芸術作品の現実性について考える上で、ハイデガーが『芸術作品の根源』において展開した議論も参照すべきであろう。ハイデガーは、心や感性に瞬間的にでも擦過を残すもののことを〈衝撃〉と呼び、芸術作品は〈衝撃〉として作用してのみ現実性を持つ、と主張した。存在が唯一無二の仕方で開示されるという非日常的な出来事として自らを表現するような作品こそが現実的であり、その唯一無二の事実性を明確に開示し、それによって存在するものそのものに対する不気味で途方もないパースペクティブを開くような作品のみが現実性という概念に期待される、と。ハイデガーの論考は取り扱いに注意が必要であるし、「現実」という言葉を使用するときに生じる位相の違いにはその都度注意が必要ではあるが、先のランシエールの議論とも重なりをもっている。

前置きが非常に長くなってしまったが、シュルレアリスムとは、本来、〈強度の現実-シュルレエルsurréel〉を志向する思想を意味するものであり、現代美術においてシュルレアリスムを意識するということは、この現実性の強度を高めるということをおいてほかにない。〈強度の現実〉とは、現実を超えた領域へと想念や思考を飛翔させることによって逆説的に得られる現実感覚のことである。
以上のことを念頭において、グループ展「溶ける魚 つづきの現実」を鑑賞するとどうであったか。

展覧会タイトルにある「溶ける魚」とはブルトンがオートマティスムによって制作した散文詩のタイトルであるが、今回の作家主導の企画は衣川泰典さんと高木智広さんの二人が、第一次世界大戦後の荒廃した時代背景とシュルレアリスム運動の勃興という関係性をアクチュアルに捉え直し、現在の日本の社会状況の中で芸術活動を営むことの現実性と向き合う中で生まれたものである。
主催者は普段シュルレアリスムを意識して制作してはいない作家たちを敢えて選び、作家たちにシュルレアリスムと向き合う機会を提供した。そうして作家たちは、作品制作とともにシュルレアリスムについての文章をも作成することになった。主催者の二人もまた、これまでシュルレアリスムを特別意識していた訳ではないという。

会場で配布される、主催者二人による展覧会趣旨文(ステイトメント)にはこう書いてある、
現実から遊離・逃避した空想や幻想でもなく、かといって現実そのものの是認や肯定、複製でもありません
展覧会タイトルの「つづきの現実」という言葉には、作品が立つべき位置の理想を託しました。作家自らが精神の内奥を見つめ、そこから汲み上げた何かに形を与えた表現として、作品を通じて「つづきの現実」を提示することが本展の大きな狙いです。
引用した一文目で言われる「現実」とは、〈現前性の形而上学〉としてのもっとも素朴なニュアンスでの「現実」であるが、あくまで立脚点は〈現実〉である。そして引用した二文目の「つづきの現実」にまつわるくだりを読めば、「つづきの現実」なるものが〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムを指していることは明かだろう。さらに注目すべきは、作家各自の〈実存への志向〉が謳われている点である。

このステイトメントに参加作家がどう呼応したかが見所なのだが、ひとつひとつの作品を見て、また一人ひとりが書いた文章をじっくりと読むことで分かるのは、どの作家も、シュルレアリスムを意識する機会を得たことで、自らの表現の内側に脈々と流れ込んでいるシュルレアリスム性に多かれ少なかれ気づき、否応なく向き合う羽目になったことである。この否応なさは、作品を鑑賞する上での鍵になるかもしれない。

とはいえ、主催者二人の、また参加作家個々の文章を読まなければ、優れた現代美術家たちが集うグループ展としては楽しめても(それでも充分に素敵なこと!)、なぜ今シュルレアリスムなのか?何が展覧会の狙いなのかを明確に理解することは難しいだろう(それはシュルレアリスムが現代美術の原基であることの裏返しである)。そうなると、ある人にとっては特定の作家の作品を個別に鑑賞する機会にしかならないだろうし、無理解や誤解から生まれる的外れな批判や不当な非難が噴出することもあろうが、これは主催者の責任ではない。またシュルレアリスムの主題を読みとれないからといって、観客を問題視しているわけでもない。シュルレアリスムが理解できなくとも現代美術を楽しめるよう、主催者が敢えてそのようにコンセプトをゆるく設定しているからである。

実のところこの展覧会は、観客の、作品を見る目が問われているのではないか。どのような視点で、いかなる枠組みを通して作品を見るのか、その視点の刷新が賭けられているようにも思える。
見る側がこのことに気付くならば、かつてのシュルレアリスム運動と21世紀10年代の現代美術との距離を測る恰好の機会になるはずである。さらにいうと、この展覧会を見た人の反応さえもが、距離を測る素材になりうるということだ。
ここから見えてくるものは、私たちに多くの課題を投げかけてくれることに違いない。

そして作家たちがこの展覧会を経験することで、今後、作品や制作行為そのものが現実性を増すこと、その強度を高めてゆくことに期待感が膨らむ。現代美術家が〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムに気付くことで得られる力には、計り知れないものがあるからだ。
作家個々人の中に、かつてのシュルレアリスム運動に内在していたものと同質か、あるいはそれ以上のラディカリズムを自らの内面に呼び覚ますよすがが生まれれば、それは大いなる成果だといえるだろう。

現実への対峙と実存への志向性、それを21世紀10年代の今、作家主導のグループ展企画で宣言したこと、これこそが「溶ける魚 つづきの現実」の意義として強調すべきことだと私は思っている。
それに応答していくのは、ここに立ち会った一人一人である。作家たちは自らを安全な圏域において語ることをしていない以上、この誠実な態度に面しては、受け手の側も語りのポジションを安全な圏域に置かないことが応答の倫理として要請されるのだから。
これが新たな芸術運動への触媒となるか、あだ花となるかは、私たちにかかっている。


荒木由香里さんの立体作品「Blue」(フロア)、「White」(奥右)、「Red」(奥左)。奥の壁に掛かるのは衣川泰典さんの連作「記憶のかけら」。
衣川泰典さん「スクラップブックのような絵画#7 (無人の風景Ⅱ)」
髑髏に船虫がたかる満田晴穂さん「晩餐」(手前)と、松山賢さんの連作「絵の具の絵」(奥)。
高木智広さん「落鳥の森」。
花岡伸宏さんの作品群。
藤井健仁さんの作品群。
(以上、ギャラリー・フロールでの展示風景)
木村了子さんと安喜万佐子さんによるコラボレーション「君がいた海景」。
麥生田兵吾さんの作品群。
(ギャラリーPARCでの展示風景)

「溶ける魚 つづきの現実」 京都精華大学GALLERY FLEUR/ギャラリーPARC 1/10~1/26

出展作家:荒木由香里、衣川泰典、木村了子+安喜万佐子、高木智広、中屋敷智生、花岡伸宏、林勇気、藤井健仁、松山賢、満田晴穂、麥生田兵吾

「溶ける魚 つづきの現実」実行委員会(代表 衣川泰典・高木智広)

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【補足】

●サブ会場のギャラリーPARCでの展示は面積にも制約のある街のギャラリーだったため、企画の趣旨が伝わりにくかったのは否めないが、メイン会場である京都精華大ギャラリーフロールではゆったりと作品を鑑賞するための配慮が行き届いている。いくつかに分かれた展示室内では、一室を除けばすべて複数の作家が一つの部屋に同居する形をとっていたが、作品同士の組み合わせは異質な作品同士が連想や連携といった形でイメージを受け渡し合うことができるよう丁寧に配置されている。比較的スタンダードな展示手法なので、そこでは「ミシンと蝙蝠傘が手術台の上で偶然出会う」ような火花はほとんどないが、各作家がいかにシュルレアリスムと向き合ったか、各作品それぞれにいかなるシュルレアリスム性が流れているかを読みとる上では却って好都合だったように思う。

●当展覧会のテーマがシュルレアリスムであることを「古い」とする非難が当たらないことは、ここまで読んでくださった方にはもうお分かりであろう。
ブルトンのアジテーションである『シュルレアリスム宣言』の字面や〈自動記述〉〈無意識〉といった言葉の表層にへばりついた評価や、硬直した美術史的、思想史的位置付けに呪縛された評価をいまだに目にするのは、クレメント・グリーンバーグらの歴史主義的批評理論の影響もあるのだろうが、そのような知を前提にしてのシュルレアリスム批判やシュルレアリスムの美術史的パッケージングは不毛としかいいようがない。シュルレアリスム運動が、フロイトの思想だけではなく、マルクス主義の思想や、同時代に勃興した現象学や実存哲学とも普遍的な問題系を重ね合いながら進展したことを忘れてはならない。

●シュルレアリスムを過去の運動としてパッケージングする見方に対し、近年、仏文学者らが根本的な異議を唱え、その研究成果は続々と刊行されているにもかかわらず、今ひとつ実作者たちの反応は鈍かった。しかし作家の責任であるよりは、表現ジャンルの違いによる棲み分けを自明視する美術アカデミズムやジャーナリズム、マーケットのエートスという問題が大きいのではないかと思っている。


【思索のための参考に】
●アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巌谷國士訳,1992年,岩波文庫)
●『ブルトン詩集』(稲田三吉・笹本孝訳,1994年,思潮社)・・・ブルトンの主要な詩と散文を網羅。
●巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(2002年,ちくま学芸文庫)
●鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(2007年,水声社)
●ジャック・ランシエール『不和、あるいは了解なき了解』(松葉祥一訳,2005年,インスクリプト)、『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳,2009年,法政大学出版局)、『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)
●マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』(関口浩訳,2008年,平凡社ライブラリー)
●ロドルフ・ガシェ「作品・現実性・形態 ~ハイデッガー『芸術作品の根源』に関する覚書」(『いまだない世界を求めて』所収,吉国浩哉訳,2012年,月曜社)

2013年1月7日月曜日

年頭のご挨拶 


糸玉に擬せる蛇玉
睦みつつ
薬玉を編む
髑髏なる猫


2013 癸巳