2019年9月15日日曜日

中野嘉一「ヒプノスの像」(詩集『ヤスパース家の異変』所収、1988年)

   眠らなければみえない
   幻視のヴィジョンがある

ヒプノスという眠りの神を御存知ですか 彼は
右側の耳のところに一枚の翼しかなくて
森や田園をさ迷い歩いていました
木の枝でしずかに
頬をなでたりして
人を深い眠りに誘ったということです
催眠術
それは 世界中の月夜を徐々に
くらくくらくしてみせるようなものです
なにも知らずに
目蓋をとじていさえすればいいのです。
その術にかからないのは
眼玉の明るさをあまり意識するからです
あるいは
哲学的な永遠の眠りを恐がるからです。
現代にもヒプノスの真似を商売とする
賢い神々が彷徨しているのです
その中には医者や庭師や大工の伜たちもいます
森や田園から遠い街の
コンクリートの密閉した一室で
妖しい声色や音楽を使って
奇妙な演出をやるのです
はかない不自然な眠りをつくるのです
「わたしのこえをしずかにきいてください」
「わたしが一から十までゆっくりかずを
かぞえるのをきいてください
「もういまにねむくなりますよ
ゆめがはじまったら
ひだりのてをあげて
あいずをしてください
ねむったままはなすことができます」
などとまことしやかに言うのです
まだ眠れないし夢も始まらない
目蓋をとじていますと
すこし鼻先きがざわざわして旋風がおきて
あかい血がふき出してきたようです
青い葉っぱをつけた蓑虫が垂直に落ちました
霧が白く蝙蝠のような雲が通る
邪馬台国の女神たちと丸木舟のようなものが
すべっていきます
ギザギザの海岸線の土人小舎
上ったり下ったりする鎧戸、もう
しめて下さいとささやきながら
あげようとした左の手の重みで
全身が汗ばんできました
鞭打ち症の男の首にまいた
黄色いバンドが目にちらつきます
眼玉がうごき始めたのかしら
と思った途端目がさめました
すこしは眠ったのかも知れません
もう一人の男は
「同じ料金を払ったのにおれにはかからなかった」
と言って
カウンターの脇の
ヒプノスの像を睨みつけて出てゆきました。


井桁裕子《Hypnos》シリーズ(2013年) 



◆中野嘉一(1907-1988)詩集『ヤスパース家の異変』(1988年、宝文館出版)より。