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2019年10月2日水曜日

X「傷む心 見えない明日」/寮美千子「心の地層に眠る言葉の結晶」(『紫陽』24号、2011年8月)


傷む心 見えない明日
                       X



いまボクが見ている景色は何もないだれもいない真っ暗闇
明日の光さえ ボクには見えない
やさしい君も いまはいない
考えたくもない最悪な思い出
楽しかったあの思い出も
心の痛みがすべてを喰ってゆく
だからボクの中には「苦痛」しかないんだ
うそくさいやさしさ 作り笑い 冷たい目 ギゼン
いらない物がボクにまとわりつく
ボクがほしいのはあの思い出だけで
それ以外何もほしくない
君と過ごした思い出だけでいいのに
君はいま どこにいますか? 
君はいま 何を思い生きていますか?
声が聞きたい
笑った顔をもう一度みたかった
いまボクが見ている景色はおわりのない真っ暗闇
真っ暗闇さえ ボクには見えない
真っ暗闇さえ いまは見えない


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心の地層に眠る言葉の結晶
    ~「傷む心 見えない明日」に寄せて
寮 美千子


 前号の「孤独な背中と気怠さと」に引き続き、奈良少年刑務所の受刑者であるXくんの作品「傷む心 見えない明日」を、刑務所の許可を得て『紫陽』誌上でご紹介させていただけることを感謝している。
 現在、奈良少年刑務所で行われている情緒教育の授業「社会性涵養プログラム」の詳細については、前号で書かせていただいた。そのなかの「物語の教室」というわたしと松永洋介が共同で講師を担当する授業のなかから生まれたのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)だ。
 出版は、昨年6月。広告を一本も打たなかったにもかかわらず、詩集として異例の反響があり、新聞、テレビなどでも取り上げられ、版も重ねている。受刑者たちの詩が、金子みすゞ、茨木のり子、谷川俊太郎などの著名詩人の詩集と並んで読まれている、というのは、ひとつの事件だ。技巧も何もなく、飾りもない、ぎりぎりのところから出た言葉が、多くの人の心を打った。わたし自身「詩とは何か?」ということを自分自身に問う、大きなきっかけとなった。
 ただし、新聞で取りあげられるのは主に「社会欄」。例外として和合亮一氏が読売新聞で「つむがれた詩句に、境遇をたどり現在の自分と深く向き合おうとする少年の姿が見える」(二〇一〇年八月十七日)と評してくださった。また、辛口で有名な東京新聞・中日新聞「大波小波」というコラムでは「節人」と名のる方が「流行と技巧に遊ぶ現代詩人は、少年たちの書くことをめぐる真っすぐな情熱をどう受け取るだろうか。」(二〇一〇年七月十六日)と問題提起してくださった。
 詩集にまとめたのは「物語の教室」の5期までの受講者の作品である。1期は半年なので、2年半分の作品の中から選んだものだ。その後も授業は続き、あす三月十一日の授業で7期が終わろうとしている。6期でも、7期でも、はっとするような素直で素朴な言葉が詩として結実している。いや、それだけでは済まされない詩としての強烈なインパクトを持った作品も登場している。
 度肝を抜かれたのは6期生のXくんの作品だった。前号でも少し触れたが、ともかく寡黙な子だった。この授業を始めてからこんなに寡黙な子はいない、というくらい言葉が少ない。結局、彼は、自分でこの作品を声に出して朗読することはなかった。いままでの授業で、ただ一人、朗読することを頑なに拒んだのだ。無理強いすれば、壊れてしまいそうだった。だから、わたしたちも強制はしなかった。
 彼の詩は、驚くほど繊細で、透明な悲しみと孤独に満ちていた。あまりのすばらしさにわたしは感嘆し、授業の後「これを外で朗読してもいい?」と本人に尋ねずにはいられなかった。彼はすなおにうんとうなずいた。「詩の雑誌に発表してもいい?」と聞けば、またこくりとうなずく。「本名で発表してもいい?」と重ねて聞くと、またうなずき、彼は笑顔を見せた。控えめな、はにかむような笑顔のなかに、彼の歓びの輝きが見えた。
 彼のそんな顔を、わたしはそのときまで、見たことがなかった。いつも、氷原のただなかに、ぽつんと置き去りにされたような、さみしげな表情をした子だった。みんなで体を動かしているときも、教室の片隅で膝を抱えてうずくまっているような子だった。
 その重い沈黙の中で、言葉はこんなふうにゆっくりと結晶していたのだ。このしんしんとしたさみしさ、この絶望の深さ。「真っ暗闇さえいまは見えない」というほど「傷んだ心」が、ひしひしと胸に迫ってくる。
 けれど、彼はそれを言葉に結晶させる術を持っている。「詩を書いて」と言えば、彼はそれを取りだして、そっと見せてくれる。声高らかに朗読することはできないけれど、大切な宝物を差しだすように、掌のなかの結晶を見せてくれたのだ。あ、すごい、とこちらが思ったその瞬間、結晶は、きらりと光を放った。
 ああ、彼自身が、地層深くに眠る、まだ人の目に触れていない晶洞のようだ。無数の美しい結晶をびっしりと壁に生じさせた閉じられた洞窟。その真ん中の真っ暗な空洞のなか、ひとかけらの光もなく、彼の魂は膝を抱えてうずくまっている。
 人の目に触れ、光を受ければ、結晶はいやでもきらきらときらめく。
 この詩は、宮沢賢治が友に書いた手紙をわたしに想起させた。
 
「今朝から十二里歩きました 鉄道工事で新らしい岩石が沢山出てゐます 私が一つの岩石をカチツと割りますと初めこの連中が瓦斯だつた時分に見た空間が紺碧に変つて光つてゐることに愕いて叫ぶこともできずきらきらと輝いてゐる黒雲母を見ます 今夜はもう秋です  スコウピオも北斗七星も願はしい静かな脈を打つてゐます」

 詩の言葉のきらめきが、結晶から反射してくる賞賛の言葉が、Xくんの心を照らしてくれたらと願わずにはいられない。
 Xくんのいた6期の授業は終わってしまった。彼らは「社会性涵養プログラム」を卒業し、刑務所の日常へと帰っていった。わずか半年、しかも、わたしにとっては月に一回だけのつきあいだった。もっともっと彼らの詩を読みたい。彼らといっしょにいたい。まだ、表現の大海原へと漕ぎだすための港についたばかりではないか、ここからいっしょに、彼らと彼方への旅をしたい、と願う。でも、それはいまは許されていない。わたしには、いまのところ、授業を終えた彼らと接触する術はない。残念だ。
 彼はいま、どうしているだろう。わたしたちの授業は、彼のいる晶洞に、わずかでも光をもたらすことができただろうか。彼は、自らが作りだした結晶の美しさに、気づいただろうか。彼が、その美しさに励まされることはないだろうか。
 彼がここに来る以前に詩を発表することができていたら、もしかしたら、罪を犯さずにすんだのかもしれない、とも思う。
 きょうも、刑務所ではいつもの日常が淡々と過ぎていく。そこには、まだ誰の目にも触れたことのない結晶たちが眠っている。地層のなか、さまざまな言葉が、だれにも届かないまま、静かに結晶を伸ばしていく。


追伸:『紫陽』23号を読んだXくんから手紙が来た。「この詩集にのってるのが本当にびっくりです。書いてよかったと思っています。今まではなんでもやりきった事がなかったし、やりたい事がなかったけれど、一つやりたい事が見つかりました」それは詩を書くことであると。よかった。


※(編集人記)『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』は今年五月に新潮文庫版が出版された。
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詩誌『紫陽』24号、2011年8月
編集:京谷裕彰/藤井わらび
発行:紫陽の会

X「孤独な背中と気怠さと」/寮美千子「詩の力・座の力/詩が開く心の扉」(『紫陽』23号、2011年1月)

  孤独な背中と気怠さと
                    X



気怠く笑う耳が千切れそうなほど笑い声が鳴り響いて
強く胸を締めつけるからだれにもわかんないように耳をふさいで
独りあるく夕暮れの空 目の前には笑いつかれた少女が独り
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと笑い声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 真っ白な空の下 時が止むのを待っている
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無音無色の世界が見えた
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無感情な少女が独りいた
目が覚めたボクは真っ白な部屋の中 小さな窓とベッドといすが一つずつ
自分以外だれ一人いない小さくて白い部屋
窓から見えるキズだらけの空
地面に叩きつけられた雨音に胸を締めつけられ
だれにもわからないように窮屈そうに声を出した その声に少しぞっとする

冷めた表情 伏し目のまま 笑いつかれた少女が キズだらけの空を見た
泣き顔 小さな目 丸まった背中の少女が 仏頂面な空を見た
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと泣き声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 仏頂面な空の下 雨が止むのを待っている
ボクは今、孤独な少女と夢の中 無音無色の世界を見た
ボクは今、孤独な少女と夢の中 窮屈そうな声を見た
冷めた声 伏し目の少女は両手を広げてとび立った
ボクはそれを見送ったあと 目を閉じた



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詩の力・座の力/詩が開く心の扉
     ~「孤独な背中と気怠さと」に寄せて
寮 美千子

 わたしたちは自己を表現するための「言葉」を持っている。いわゆる言葉以外にも言葉がある。目の表情、口元、体の姿勢、すべてがわたしたちの「言葉」であり「表現」だ。
 しかし、その表現が極端に苦手な人間もいる。しゃべるのが苦手、笑顔も出ない。そんな人間は、周囲に理解されず「何を考えているのかわからない」と不気味に思われる。時に怖れられ、あるいはバカにされ、いじめられ、彼らはますます自己の殻に閉じこもってしまう。話してもどうせわかってもらえない、という思いが、彼をますます孤独にし、絶望の淵へと追いこむ。
 奈良少年刑務所の社会性涵養プログラムの受講生たちのほとんどが、そのように極端に自己表現が苦手な青年たちだ。ある者は発達障害を抱え、ある者は激しい虐待を受け、ある者は育児放棄された経験を持っていた。自分の意志や努力とは無関係に、運命のごとく社会的に弱者の立場に置かれてきた者が多い。そのせいで、ある意味「言葉」を奪われてきた人々なのだ。
 自分を表現できない、相手と意思の疎通ができない。その悪循環が加速し、その結果追いつめられ、とうとう爆発して事件に至る、というケースも多い。彼らは、加害者である前に、被害者であったのだ。小さくキレて発散できていればすむものが、溜まりに溜まって大爆発になり、不幸な事件となってしまうこともある。
 奈良少年刑務所で、受刑者の情緒を耕すための「社会性涵養プログラム」の講師を務めて、すでに3年が経った。このプログラムは、絵本を読み、詩を読み、さらには彼らに詩を書いてもらい、それを合評していくことで、そんな彼らに、徐々に「自己表現の言葉」を身につけていってもらうための授業である。
 教育の専門家でもなんでもないわたしが、ひょんなことからこのプログラムの講師になった。というのも、明治以来の旧監獄法が改正され、刑務所が単なる懲罰のための施設から、更生のための教育を受けることのできる施設へと、その位置づけが変わったからだ。
 二〇〇七年から新たに始まったプログラムであったため、メソッドもなにもなくて、手探りで授業を始めた。受講者は十名前後。刑務所の中でも、ほかのものと歩調を合わせることができなかったり、極端に自己主張が苦手な子たちだ。授業は月に三回、一時間半ずつ。一回はSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)といって挨拶などの基本を学ぶ授業、一回は絵を描く授業、そしてわたしの受け持つ「詩と物語の教室」だ。これを六ヶ月行う。合計十八回。たったそれだけの授業で、彼らは見違えるほど変わる。変わらなかった者などいない。表情が豊かになり、言いたいことが前よりも言えるようになり、時には曲がっていた背中がまっすぐに伸びて、胸を張って堂々としてくる。堅さがとれて、自然体に近づいてくる。そうなると、他者とのコミュニケーションもスムーズになり、ますます表情が明るくなって〝良循環〟が始まるのだ。
 一回の授業のはじまりと終わりでは、その差がわかるほど変わるのだが、ぐっと変わるのは、詩の授業をしたときだ。それも、有名な詩人の詩を読んで鑑賞したときでなく、彼ら自身が書いた詩を合評したとき。自作の詩をみんなの前で朗読し、拍手を受け、その感想を仲間の口から聞いた時、確かに深いところで閉ざされていた鍵が、かちゃりと音を立てて開かれる。
 時には、これが「詩」だろうか、と思うほど素朴な作品があった。「何も書くことがなかったら、好きな色について書いて」という課題に提出された作品だ。
 
 好きな色
 
 ぼくの好きな色は 青色です。
 つぎに好きな色は 赤色です。
 
 この、ストレートすぎる言葉に、一体どう対応していいのかと戸惑っていると、受講生の一人が「はい」と手を挙げたのだ。そして言った。「ぼくは、○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも聞けて、よかったです」「ぼくもです。○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも教えてもらって、うれしかったです」「○○くんは、ほんまに青と赤が好きなんやなあって思いました」
 驚いた。そして感動した。彼らはなんてやさしいのだろう。なんて友だち思いなんだ。こんな人々が、なぜ刑務所に来なければならなかったのだろうか。きっと、彼らをそこまで追い詰めた何かがあったに違いない。
 そして、わたしは自分を恥じた。わたしは、この作品を、彼らのようには受けとめることができなかった。「詩とはこんなもの」という観念に縛られていたからだ。
 極端に表情のとぼしかった○○くんは、仲間のその言葉を聞いて、笑った。教室にやってきてはじめて、まるで花がほころぶように、ふわっといい笑顔を見せたのだった。
 その瞬間、わたしの中の「詩」の概念がひっくり返った。「いい詩」「すばらしい詩」というものがあるというわたしの固定観念が、微塵に砕かれたのだ。言葉は、詩になるのだ。言葉を発した人が詩だと思い、受け取った人が詩だと感じれば、どんな言葉も、神聖な詩の言葉になるのだ。彼らは、彼らの力で、友の言葉を「詩」たらしめたのだ。指導者の力ではなく、彼ら自身の力で「詩」を発見したのだ。
 もちろん、いい詩はある。いつどこで誰が読んでもすばらしい、完成された作品はある。けれどそれだけではなく、「座」が神聖な「詩」を生み出していく、そのような「場」としての「詩」があるのだと思い知った。
 彼らは、表現や言葉を扱うことが極端に苦手だ。だからこそ、虚飾や嘘が入る余地がなく、ギリギリの言葉を紡ぐが故に、まっすぐに届いてくる。「表現」という時、わたしたちはなにか一見華麗に見える「表現らしきもの」におぼれてはいないだろうか。
 彼らが自分たちの詩を発表し、誰かに受けとめられた瞬間、彼らがあからさまに変わるのを目の当たりにして、わたしは「詩の力」に大きな驚きを感じた。詩には、確かに力がある。わたしが思っていた以上に、それは力を持った神聖な言葉だ。わたしは、いままで、そこまで詩を信じていなかったかもしれない。けれど、この体験を通じて、詩の力を実感することができた。
 彼らの詩をまとめ、授業の様子を書き添えて編集したのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版、二〇一〇年六月)である。ぜひ読んでいただきたい。ことに詩を書く人、読む人に、これを読んでもらえたらと思う。
 この詩集には社会性涵養プログラムの5期生までの作品が収録されている。現在、プログラムは7期目に入り、これから詩を書いてもらうところだ。6期でも、驚くべき作品が生まれている。これをなんとか紹介したいと思い、刑務所の許可をいただいて、ここに一つの作品を紹介させてもらった。
 これを書いたのは、緘黙といっていいほど無口で、引っ込み思案な青年だ。それでも、教室では何とか小声で発言してはくれたが、彼はついに殻から出てこようとはしなかった。
 ところが、詩の課題を出して提出された作品を見て、驚いた。そこには饒舌なまでにその心の内側が表現されていたからだ。その痛み、孤独、泣きたくなるほどのさみしさが、見事に言葉として結晶していた。
 「すごいね。すごいよ、この詩」とわたしは興奮して彼に話しかけた。「ねえ、この詩、刑務所の外で発表してもいい? わたしが朗読してもいい?」
 そう言うと、あの緘黙な彼が、すこしうれしそうにうなずいたのだ。
 「ねえ、詩の雑誌に発表してもいい?」
 また、うなずく。
 「きみの名前、書いてもいいかな?」
 彼は、はっきりとうなずいた。しかし、それは叶わなかった。教官から、こんな注意を受けたからだ。
 「それはいけません。詩を発表するには、許可がいりますので、申請をして手順を踏んでください。それから、残念ながら、本名では発表できません」
 というわけで、申請をして許可を得て掲載させてもらうことになったが、彼の名を明かすことはできない。
 授業で、彼が書いてくれた詩は二編。どちらもすばらしい。今号で一編、次号でもう一編を紹介させてもらいたいと思っている。受刑者の詩だからではない、すばらしい詩だから、紹介するのだ。彼の詩には授業の仲間、という枠を超え、見えない大きな座を作っていく力があるとわたしは思う。多くの人が、彼の言葉に心を震わせ、共感するだろう。その孤独の深さの痛みを感じるだろう。彼がそのことを、誇りに思ってくれたら、うれしい。

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詩誌『紫陽』23号、2011年1月
編集:京谷裕彰/藤井わらび
発行:紫陽の会

2011年9月3日土曜日

『紫陽』24号(終刊号)出来。

【寄稿者】後藤和彦、藤井貞和、風梨子、倉橋健一、小林坩堝、三刀月ユキ、倉田めば、金子忠政、あおい満月、芦田みのり、鬼原みち子、藤井わらび、ヤリタミサコ、石瀬琳々、北山兵吉、亰彌齋、野村喜和夫、竹村正人、竹村正子、X、寮美千子、武中光男、松本タタ、志郎、ダダ貫(糸井貫二)、駄々村。

表紙コラージュ:藤井わらび
2011年8月20日刊
頒価:¥200 A5判64頁 

とうとう、これが最後の号になりました。
9/18の東京ポエケットに出展いたします。






2011年8月11日木曜日

『詩と思想』8月号詩誌評(平川綾真智氏)

平川綾真智氏執筆の『詩と思想』(土曜美術社出版販売)8月号の詩誌評で『紫陽』23号(2011.1刊)に掲載した竹村正人(うんこ詩人)の詩三篇が取り上げられているのだが、この詩誌評が凄い。何が凄いかというと、「誌は臀淫された。補選挙される家畜の腸を翻訳していく空罐として。朝餉へ喀血し始める猟銃で凌いだジェネリックとして」という書き出しで始まり、そのまま全編こんな調子で貫かれていくのかと思いきや、詩誌・詩作品を取り上げる段ではこんなレベルを遙かに凌ぐテンションで、ほとんど意味不明とも言えるぶっ飛び具合になるのだ。ここでは詩誌評といいながら漢語を独自の用法で駆使した長篇詩のような体裁がとられている。これを、文体への尋常ならざるこだわりの強さによるものだと簡単に納得してはいけない。そこからは、批評の言語が否応なしにまとわりつかせる“視座の超越性”への透徹した批判精神とゆたかな諧謔精神が窺えるのだ。批評言語の不可能性、という問題を前にしてのある種の実験として、この詩誌評を遊んでいるのだろう。


僕も書架に海賊版(台湾版)『大漢和辞典』13冊を備え、パソコンには梵字・甲骨文字・西夏文字まで収録する高額な外字ソフト「今昔文字鏡」をインストールする(正規ユーザーである)相当な漢語・漢字マニアなのだが、平川氏のこの言語感覚には本当に恐れ入った。

そんなゴチゴチの文章の中に竹村の「恋は/下痢からはじまる/からつらい」「ちんこは/まんこではない」といった掌詩が三篇、全文引用されているのだから、なかなかに笑える。

2011年6月3日金曜日

『季刊 びーぐる』11号詩誌時評

犬飼愛生(いぬかいあおい)さんが担当している『季刊びーぐる』11号(2011.4,澪標)詩誌時評に『紫陽』23号掲載のXさん(服役中)の詩と寮美千子さんのエッセイが紹介されています。Xさんの詩「孤独な背中と気怠さと」は全文引用されているので、まだお読みでない方や噂を受信して気になっている方ぜひ本書を手にとってみてください。

http://homepage2.nifty.com/yamadakenji/1beagle.htm
http://homepage2.nifty.com/yamadakenji/beagle11.htm

話題の詩集・寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです~奈良少年刑務所詩集』は新潮文庫版が出ました!

発行が遅れている『紫陽』24号はプリンタの設置場所が確保出来次第、編集作業を再開します。

2011年2月17日木曜日

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』、売れてます!

寮美千子さんのご尽力により『紫陽』23号に掲載できた受刑者の詩について多数の反響が編集人のもとに届いていますが、その寮さんが編纂し、昨年6月に刊行された『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)がamazonの詩部門で上位にランクされています。
まだお読みでない方はぜひ。




【過去の記事】
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

2011年1月30日日曜日

Live Meeting of Poetry&Action 於スタジオ・ワルハラ(奈良)

昨夜ワルハラで開催されたポエアク、大盛況でした!

ハラミイシカズコさんの「改竄・白雪姫」。全編暗唱によるストーリーテリングでした。ハラミイシさん制作の衣装を着た後ろ姿はうんこ詩人。

塚本佳紹(つかもとよしつぐ)さん。左にOHP、右に映写機。右端にはコーヒーを淹れるためのコンロとポット。

マットに描かれた模様がOHPを通じてスクリーンに投射されます。

そこにスプレーやらよく分からない液体などを噴射したり流したりして模様を変化させます。


ミルで挽いたコーヒーをドリップすると、スクリーンには茶色い模様が拡がります。 


映写機が映し出す映像。デジカメだと残像現象でミミズのように映ってしまいました。映写機にも何か液体を噴射していました。

感熱紙にアイロンでドローイング。



亜子米さん

ステージ上には懐中電灯が取り残され・・・。

うなてたけしの笛の音をバックに、小さな鈴を無数に付けた糸を、会場に張り巡らせてゆきます。鈴は星、糸によって結び合わされた人々は星座を表しているのでしょうか。




大橋範子さん。百合の花とガラス板を使ったパフォーマンス。

花を食べています。

ガラス板で額を切るのではないか、ガラス板を粉々に割り砕くのではないか、といった緊張感が持続するパフォでした(結局、血は流れずガラスも割れず)。

須川映治さんのポエトリーリーディング。


machi/さん。カットした自分の毛髪を容器に詰め込んだものを透明テープで顔にグルグル巻き付けて行きます。窒息死するんじゃないかという勢いでした。




腕と顔をテープで固定したまま、そのテープを会場全体に張り巡らしています。


うなぎ亭すりん(うなてたけし・左)とあなご亭もやし(右)による大道芸風のパフォ。狸が猿回しをやっているみたいでした。もちろんうなぎ亭が狸です。

のりまきのりぺーさんの写真はなぜかありません(失礼しました)。


で、私は須川さんの後、machi/さんの前に出演したのですが、残念ながらパフォーマンスの写真がありません。
まずはこのように瀧口修造の「絶対への接吻」を黒で、金子光晴の「蛾」を赤で印刷したペーパーを出演直前に配布。
そして会場入り口付近に設置したカセットデッキでP・B・シェリーの「Prometheus Unbound(鎖を解かれたプロメテウス)」の朗読テープをバックグラウンドポエトリーとして流しながら、瀧口「絶対への接吻」を、ステージ左端に設置したマイクで朗読しました(マイクのスピーカーはスクリーン脇)。ところどころキレのいい箇所でマイクを置いて歩きながら地声で自作詩の断章を絶叫し、またマイクに戻って瀧口をボソボソと読む、というパフォーマンスでした。瀧口の詩を読み終える頃、シェリーの詩も終わる、という次第です。

ペーパーには朗読する詩(瀧口)と朗読しない詩(金子)をテキストで表示し、一方でテキストの配布がないシェリーの朗読テープを流し、そして予告もしていなかった自作詩を即興的・間歇的に入れることで、形式的にもビジュアル的にも全く異質な複数の詩を時間的にも空間的にも共存させてみること、これが今回やってみたかった実験でした。
実は異質に見える複数の詩が、その理想としているもの、思想を共有していることが僕の中の前提としてあったのですが、それがうまくいったのかどうか・・・。
個人的には満足で、また観客の反響も上々でしたので、とりあえず成功ということにしておきましょう(笑)。




2011年1月27日木曜日

『紫陽』23号、出来!

『紫陽』23号は本日発送を終えました。
今号の編集後記では、〈不和〉を起点に〈実存〉へと至る思索を通じて〈美学的な思考の体制〉を脱構築することについて、哲学詩を書くような気持ちで書きました。優れた作品が集まり、そして満足のゆく編集が出来たことで、編集後記にはここ数年詩誌を出すという実践の中で考えていたことのエッセンスを凝縮できました。
寄稿者は第50回短歌研究新人賞の吉岡太朗(歌誌『町』同人)、オルタ界で注目を集めるオカバー店員・竹村正人(うんこ詩人)、アート界の仙人・ダダカン(糸井貫二)、大阪ダルク代表で行為芸術家の倉田めば、第33回泉鏡花文学賞の寮美千子ら錚々たる顔ぶれですが、有名無名を問わず、ここに集う異質な表現者たちの作品が群として躍動する誌面に目を落とせば、既存の美学的基準を揺さぶるようなポテンシャルを感じられるでしょう。そして今号でもっとも特筆すべきは寮さんのご尽力で奈良少年刑務所に服役中の少年の詩を掲載できたことです。
23号は自信を持ってお薦めできるクォリティです。




(クリックすると拡大→冒頭部分が読めます)



寄稿者:吉岡太朗、藤井わらび、竹村正人/駄々村、志郎、ダダカン(糸井貫二)、三刀月ユキ、佐藤佳紀、金子忠政、佐藤駿司、松本タタ、倉田めば、風梨子、北山兵吉、亰彌齋、りー、あおい満月、武中光男、X、寮美千子、鈴川ゆかり

見返しの言葉:シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

表紙コラージュ:藤井わらび



発行:紫陽の会  

A5判56頁  頒価:200円

購読のご希望、お問い合わせはfreiden22◎hotmail.com (◎→@に)まで。

2011年1月23日日曜日

『紫陽』23号、本日製本完了。




今回は素晴らしい作品が集まり、また、納得のいく編集ができました。どうぞご期待ください。



2010年10月9日土曜日

poetry & action FRIDAY PARTY!! 2010 於、スタジオ・ワルハラ

machi/さんのパフォーマンス、冒頭部分。

(この後デジカメが電池切れ)


私の詩。ダダカン先生とともに。


山田七菜子さん。

大橋範子さん。

加藤笑平さん、髭剃ったバケツでそうめんを喰ってます。

10/8金曜の夜はパフォーマンスアートとヴァーバルアート(言語芸術)の共演! アヴァンギャルドの遙か先を突き抜けるすさまじいイベントでした。
僕は『紫陽』19号から「京橋太郎と京橋花子と奈良太郎に贈る大佛次郎の黙示録」を朗読。

◆第一部出演者(パフォ順):京谷、machi/、山田七菜子、大橋範子、加藤笑平、竹村正人、亜子米、山口有華、孕石和子(ハラミイシカズコ)、須川、擬態美術協会

山田七菜子さんによる、選挙演説とか町の雑音などを集めてミックスしたサウンドパフォーマンスが圧巻でした。最高の音響機器を備えるワルハラの特性を最大限に生かした超絶爆音ノイズ。この世のものとは思えぬ・・・、ではなくこの世の雑音をかき集めたらこんな地獄のような音になるのか、という・・・。あのおっとりした山田さんがこれを!?ってほどの凄いパフォ。これをやったのが山田さんだからなおさら笑えた。

◆第二部は詩人とパフォーマンスアーティストが組んで即興パフォ。くじ引きで決まったパートナーはなんと大橋範子さんでした。僕はたまたま持ち歩いていたミルトン『失楽園』の数節(ルシファーのセリフ)を演劇風に朗読。大橋さんは連れてきたカモと一緒にパフォ。受けました! で、大橋さんは終盤、僕の顔みて笑いをこらえるのに必死。僕とルシファーがどうしても結びつかなかったのでしょうか?
亜子米さんが詩を朗読する間、擬態美術協会さんがひたすら「アホォ~、アホォ~」と鳴き続けるカラスパフォも最高に面白かった!

まるで秘密結社の集会みたいなイベントでした。

『紫陽』寄稿者がここに四人もいたことは特筆に値するでしょう。


2010年10月1日金曜日

『紫陽』22号、出来!

『紫陽』22号は昨日すべて発送を終えました。


参加詩人:O柳、藤井わらび、小林坩堝、倉田めば、芦田みのり、亰彌齋、野村尚志、武中光男、小池栄子、竹村正人、佐藤駿司、松本タタ、風梨子、うなてたけし、笠原美香子、三刀月ユキ、石瀬琳々、あおい満月、北山兵吉、志郎

見返しの言葉:オクタビオ・パス「二つの声のためのソロ」
表紙コラージュ:藤井わらび

編集:藤井わらび・京谷裕彰  発行:紫陽の会  
A5判52頁  頒価:200円
freiden22◎hotmail.com (◎→@に)


(表紙イメージは後日アップします)


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いよいよ始まる奈良アートプロム(NAP)には『紫陽』関係者が何人か関わっていますが、倉田めばさんとmachi/さんはパフォーマンス集団S+PACの一員として期間中ならまちセンター前広場と、10/9(土)のしりあがり寿さんのライブでパフォーマンスをやります。http://nara-art-prom.com/event/shiri-gen.htm 因みにこのライブの主催者は奈良オルタ界のキーマンにして、『TOKYOなんとか』奈良頒布窓口を務めるAAsaaREEくん。
また、うなてたけしさんは10/3(日)八百屋「ろ」での「あんそろ詩゙ー」に出演。亜子米さんは10/10(日)17時~奈良女子大記念館での「時の庭 -百年ピアノとともに-」でmachi/さん、うなてさん、南舞さんらと共演します。
◆亜子米さんのブログ→ http://geocities.yahoo.co.jp/gl/akobeyjp
ビラ→ http://www.geocities.jp/akobeyjp/_gl_images_/New_Omote_A4.jpg

2010年9月17日金曜日

『紫陽』22号、只今印刷中です。

お待たせしております『紫陽』22号は、現在印刷所に入っております。26日に製本作業をするので、寄稿者読者の皆様の手元にお届けできるのは9月末~10月初頭頃になる予定です。
いましばらくお待ち下さいませ。

2010年8月8日日曜日

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)

「くも」

空が青いから白をえらんだのです





(この詩は父のDV被害を受けていた病弱な母が、死の床でA君に語った言葉の思い出がモチーフに)
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「夏の防波堤」

夕方 紺色に光る海の中で
大きい魚が小魚を追いかけているところを
見ました
鰯の群が海の表面をパチパチと
音を立てて逃げていきました




(この詩の作者E君はいつも何かに怯え自分の意思を表現することの出来ない子だったのが、ある時大好きな魚釣りのことを話したことをきっかけに、自信をもって堂々と話ができるようになり、教室の仲間たちからの信頼を集めるようになったそうです)
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「おかん」

水が恐くて怯えて見あげるおれに
おかんはゲンコを見せた
おれは足下でゆらぐ水よりも
おかんの心が恐かった

それが愛情のつもりか
強くするために
あえて子どもを突き放すこと
それが正しい愛情のつもりか

ほめられることもなく
社会からはずれているとなじられ
人格も否定され
「育ち方が悪い」と叱られた

反抗しつつも
取り繕う日々の中で
いつしか おれは
愛されてないんやわ
と思たわ

せやのに おれがパクられて
あんたは 泣きながら おめおめといった
「あたしの育て方が 悪かったんやろか」
「おれの育ち方が 悪かっただけやろ」

  それでも おかんが笑ろてると
  おれもうれしくなる
  あんだけ大嫌いやったはずなのに

人を愛することと 憎むこと
はじめて教えてくれた人



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本書は『紫陽』にも時々寄稿してくださっている作家・寮美千子さんとお連れの松永洋介さんが、奈良少年刑務所で実践されているワークショップ「社会性涵養プログラム」で受刑者たちが書いた詩を一冊の詩集として編んだもの。それぞれの詩の後ろには、その作者と作品の誕生をめぐるエピソードが、寮さんの手によって綴られています。

この「社会性涵養プログラム」というのは受刑者を相手に童話や詩を使ったある種の情操教育なのですが、刑務所の中でもみんなと歩調を合わせるのが難しく、ともすればいじめの対象になりかねない人や、極端に内気で自己表現が苦手だったり、虐待された記憶があって心を閉ざしがちな人、コミュニケーションが上手く取れない人々が対象になっています。
彼らは不幸にして犯罪に手を染め、刑務所に収容されてしまったわけですが、彼らの犯罪傾向の問題として語る以前に、この国の福祉や社会的なセイフティーネットの貧困の問題として考える視座を私たちに与えてくれます。
犯罪をめぐっては、マスコミでは日々様々な言説が飛び交い、それらは個々の文脈から切り離されたコードとして人々の意識にすり込まれて、時に世論操作以外のなにものでもないような世論調査に利用されていくわけですが、私たちは少年犯罪や刑務行政についてなにほどのことも知らないでいます。
すでに裁判員制度が始まっている今(というか裁判員制度云々は別にしても・・・)、寮さんや開かれた目をもった刑務所職員の方々の、このような先進的な実践はもっともっと知られるべきことだと思いました。
詩の力へのゆるぎない信頼が、本書にはこめられています。



◆寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(2010年6月刊,長崎出版,1500円+税)





【関連記事】

2010年6月26日土曜日

茨木薫「子ども、または愛のはなし」

赤い蛇はどこに逃げ出したのか
邪な魂はとうとう食われてしまったか
天狗の顔の岩
鬼の住処
いまもひとりで木の上にいる子ども


夕立の前兆
空は曇り空
居眠りを狙う鳥の目
いくつもの小石を並べた猫の墓
添えられた花はすでに枯れている


子どもはどこに消えた?
子どもの名前を呼べ
探し出して、問いただせ
子どもの横には見張りがいる


子どもは木の枝で指を切る
子どもは土を蹴って走る
言葉がなくて、ただ走る


子どもはどこへいった?
魔物が奪った果実
時が満ちるまで、子どもには明日がない


帰り道のない野良猫
犬はびっこをひいている
幸福に似て非なるもの
 愛


子どもはどこへいく?
忍耐や寛容や理解を要するもの
一方的でないもの
滋養になるもの
常に必要欠くべからざるもの
親密さを深め、子どもを成長させ、作物を実らせるもの
神の存在を感じさせるもの
奇跡を起こし、祝福をするもの
贈り物より近しく、水や空気よりも力を要するもの
それは、与えるもの?得るもの?


 愛
時が満ちるまで、負けつづけること


 
 
 
◆『紫陽』12号(2007.5)より
 
この作品については鈴川ゆかりさんの詩評がありますので、そちらもぜひお読みください。
→ http://yukarisz.blog104.fc2.com/blog-entry-427.html


※追記。現在リンクは無効になっています。

2010年6月24日木曜日

トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』より

詩の活動とは、大衆から彼らの力を奪うものではなく、ただひたすら、新たな表現形態を、新たなコミュニケーションを、そして対象に適った新たな言葉を構築するものなんだ。詩の活動は、前衛的アクションのプロトタイプであるし、その要となるものだ。またそれは現実化〔現勢化〕する想像力(イマジネーション)〔構想力〕としての未来を読み取る。知性と感覚との力能、構成する力〔構成する権力〕。じっさい、奇跡が生み出されるのはまさにここでなんだ――奇跡といってもそれは、外部からの介入とか、天使による突飛な出来事の暴発じゃなしに、むしろ、出来事が歴史に結びつくこと、出来事との合致のなかで歴史が構築されること、その帰結として物語のなかで出来事が展開されることなんだよ。この強力で新たな綜合は、芸術や詩の運動に対して、それらが存在のうちに据えつけられているということ――したがって、芸術や詩の運動には存在の超過を決定することができるということ――を示す綜合なんだ。存在のうちに据えつけられているという感情こそが、芸術家の自己実現を可能にする。芸術家はじっさい、言語を構築する、もっとましな言い方をすれば、言語のうちに何らかの言葉を構築する、そして、彼は、このことそれ自体によって、ひとつの論理を再構築し刷新する。芸術家とは、新たな存在や新たな意味を構築する集団的アクションと、存在の構築論理のなかにこうした新たな言葉を定着させる解放的出来事とのあいだの媒介のことなんだ。


◆トニ・ネグリ『芸術とマルチチュード』(廣瀬純、榊原達哉、立木康介訳,2007.5,月曜社)より


数あるネグリさんの本の中ではこの本が一番好きです。ちょうど2年前、訳者の廣瀬さんに通訳していただいてラッつぁん(マウリツィオ・ラッツァラート・・・ネグリさんの同志)とこの本についてお話しをする幸運な機会を得たのですが、その時ラッつぁんは「トニは古典的だよ」「彼は現代アートの世界で今何が起こっているのか、実は余りよく知らないんだよ」などと否定的?な面を強調していました。しかし詩を書き詩誌を出している立場からすると、そういうラッつぁんの貴重な意見が正しいかどうかはあまり意味がない気がしました(たぶんラッつぁんの言っていることは正しいのでしょうが)。
ネグリさんの本はどれもそうなのですが、未来へ投企しつつ何かを実践する活動の中でパフォーマティブに読んでこそ意味があるものなのでしょう。

ネグリさんによる詩人ジャコモ・レオパルディ論『Lenta ginestra しなやかなエニシダ』(1987)の訳がいつ出るのか、まだ当分出ないのか、とても気になります。

2010年6月16日水曜日

竹村正人「『天秤』と勇気」

先日、「政治と芸術との関係をめぐる、ある重要な議論」という記事を書きましたが、この論争に関連して、竹村正人くんの「『天秤』と勇気」という文章が河津聖恵さんのブログに掲載されました。
↓
 http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-9a31.html

詩壇の中枢にいる人だけでなく、詩を愛する人すべてに宛てられたテキストです。
詩を読む人、詩を書く人はぜひご一読を。

2010年6月13日日曜日

佐藤駿司「呪詛黰髪血蓮祭文(のろいのくろかみちのはすさいもん)」

1 夜もすがら血の花笑う夢みつつ妹の墓堀り起こしにゆく

2 聖母(はは)殺す夜に魔羅だちこの世にはただ我ひとり花吹雪かな

3 血の画筆(ふで)で首吊る妹描きつつ地獄の夢を夢見みる我は

4 妹の屍鞭打つ夜は明け永遠(とわ)に花弁の散り饐(す)えるかな

5 幾晩も強姦(おか)されつづけし屍妹の黒髪の艶よみがえるとき

6 子のゆえに物狂いすというけれどママは私をどこ捨てに行く

7 光降る月の下にてわが聖母(はは)は髑髏ならべて弾琴しをり

8 産み落とす死児をうずめし塚の上(へ)に名も知らぬ花一痕の月

9 梟首さる乙女舞ひける星月夜漬(さや)けくもあるか亡者這ふ道


◆『紫陽』21号(2010.5)より。佐藤駿司さんは小説の同人誌『半獣神』などで活躍する小説家ですが、ポーやボードレールの訳詩集を私家版で出されたりもしています。ここでは30首からなる連作短歌「呪詛黰髪血蓮祭文(のろいのくろかみちのはすさいもん)」から最初の9首をピックアップしてみました。時に佐藤さんのような異能の表現者と出会えるのも『紫陽』をやっているたのしみの一つです。

それで、ダダカン(糸井貫二)先生から早速この作品を賞賛するメールアートが届きました!






2010年6月5日土曜日

『紫陽』21号出来!




『紫陽』21号はいつもより10日以上遅れましたが、昨日ようやくすべての発送を終えました。
今号は小説、パフォーマンス・アート、ぽこぽこ音楽、アクティヴィズムなど、普段詩とは別の、あるいは詩と隣接する分野で活躍する人々の作品が多数集まったことで、これまでになく多彩な構成になりました。現代詩専門の読者にはあまり馴染みがなくても、見る人が見れば「おお!」と思わず感嘆しそうな人の名前も少なくありません。
詩誌におけるカオスモーズとはこんなのをいうんでしょう!(これは自画自賛ではない。賞賛されるべきは当然、寄稿者の皆さんです)
今年も両国の江戸東京博物館にて開催される詩誌・詩集の展示即売会「東京ポエケット」に出展します(7/11の日曜日)。


【寄稿者】鈴川ゆかり、芦田みのり、三刀月ユキ、野村尚志、りー、南舞、北山兵吉、松本タタ、O柳、小池栄子、倉田めば、武中光男、佐藤駿司、西きくこ、石瀬琳々、畑中暁来雄、鬼原悠翠、風梨子、亰彌齋、藤井わらび、亜子米、イワモトアヤ、あおい満月、竹村正人、machi/、うなてたけし、サマンサ・グレイ、後藤あゆみ、寮美千子、志郎、ダダカン (以上、掲載順)

【表紙絵】奥津ゆかり


頒価¥200  A5判72頁  2010年5月発行

興味のある方はfrieden22◎hotmail.com(◎を@に変換)までお問い合わせください。
   




2010年6月4日金曜日

藤井貞和『言葉の起源』より

 詩は幼児であれよと私はさけぶ。
 幼児は、年長の子に、真剣に立ち向かってゆく。けっしてゆずることのできない自己主張があるとき、幼児は、あいてがどんなに腕力のある、としがひとまわりもちがう年長の子であっても、立ち向かってゆく。年長の子にたいしてばかりではない。大人にたいしてもである。幼児の全身が、ゆずることのできない主張を表現する。表現は、身体をとおしてと、言葉をとおしてと、ふたとおりのルートが別々にあるわけでない。われわれの幼児はいつも全身の表現である。言葉が全身の表現であるのは、われわれの幼児のときをおいて、それ以外にあったであろうか。幼児が全身で立ち向かうあいては、つねに困難であり、かつ不正であるような外界である。


◆藤井貞和『言葉の起源』(1985年,書誌山田)より。

詩人や詩を批評する人間がこの感覚への理解を消失したとき、詩の衰退がはじまる。
文化現象としての現代詩がすでに衰退し、自閉した詩壇なるものにそれが象徴されてしまう現在というのは・・・・・?

2010年5月25日火曜日

J・L・ボルヘス「月」

月、或いは《月》ということばは
一個の文字なのだ。多にして一なる
わたしたちという、この不可思議なものの
複雑な書記のために造られた文字なのだ。

宿命もしくは偶然が人間に与えた
象徴の一つなのだ。いつの日か、
至福に心おどるとき、或いは苦しみもだえるとき、
彼の真実の名前を書き留めうるように。


◆J・L・ボルヘス「月」(『創造者』所収・鼓直訳・2009・岩波文庫)より