2019年10月13日日曜日

詩誌『EumenidesⅢ』58号

【詩】
広瀬大志「乱樹師(ゴ・ザイラ)」
松尾真由美「中空での抗い、そのように育むものの」
小笠原鳥類「こわくない人形たち」
渡辺めぐみ「夏至を待つ」
京谷裕彰「ミドリムシとゾウリムシ、その別れ」
海埜今日子「水処(みずこ)」
北原千代「零れる音」
小島きみ子「月光」

【論考】
松尾真由美「アナイス・ニンという作家と詩的なるもの」

【詩集書評】
小島きみ子「無限なものへ至る表現」

【あとがき】

【広告】
京谷裕彰編『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』(共和国)





◆2019年10月20日発行
 A5判32頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで


2019年10月2日水曜日

X「傷む心 見えない明日」/寮美千子「心の地層に眠る言葉の結晶」(『紫陽』24号、2011年8月)


傷む心 見えない明日
                       



いまボクが見ている景色は何もないだれもいない真っ暗闇
明日の光さえ ボクには見えない
やさしい君も いまはいない
考えたくもない最悪な思い出
楽しかったあの思い出も
心の痛みがすべてを喰ってゆく
だからボクの中には「苦痛」しかないんだ
うそくさいやさしさ 作り笑い 冷たい目 ギゼン
いらない物がボクにまとわりつく
ボクがほしいのはあの思い出だけで
それ以外何もほしくない
君と過ごした思い出だけでいいのに
君はいま どこにいますか? 
君はいま 何を思い生きていますか?
声が聞きたい
笑った顔をもう一度みたかった
いまボクが見ている景色はおわりのない真っ暗闇
真っ暗闇さえ ボクには見えない
真っ暗闇さえ いまは見えない


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心の地層に眠る言葉の結晶
    ~「傷む心 見えない明日」に寄せて
寮 美千子


 前号の「孤独な背中と気怠さと」に引き続き、奈良少年刑務所の受刑者であるXくんの作品「傷む心 見えない明日」を、刑務所の許可を得て『紫陽』誌上でご紹介させていただけることを感謝している。
 現在、奈良少年刑務所で行われている情緒教育の授業「社会性涵養プログラム」の詳細については、前号で書かせていただいた。そのなかの「物語の教室」というわたしと松永洋介が共同で講師を担当する授業のなかから生まれたのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)だ。
 出版は、昨年6月。広告を一本も打たなかったにもかかわらず、詩集として異例の反響があり、新聞、テレビなどでも取り上げられ、版も重ねている。受刑者たちの詩が、金子みすゞ、茨木のり子、谷川俊太郎などの著名詩人の詩集と並んで読まれている、というのは、ひとつの事件だ。技巧も何もなく、飾りもない、ぎりぎりのところから出た言葉が、多くの人の心を打った。わたし自身「詩とは何か?」ということを自分自身に問う、大きなきっかけとなった。
 ただし、新聞で取りあげられるのは主に「社会欄」。例外として和合亮一氏が読売新聞で「つむがれた詩句に、境遇をたどり現在の自分と深く向き合おうとする少年の姿が見える」(二〇一〇年八月十七日)と評してくださった。また、辛口で有名な東京新聞・中日新聞「大波小波」というコラムでは「節人」と名のる方が「流行と技巧に遊ぶ現代詩人は、少年たちの書くことをめぐる真っすぐな情熱をどう受け取るだろうか。」(二〇一〇年七月十六日)と問題提起してくださった。
 詩集にまとめたのは「物語の教室」の5期までの受講者の作品である。1期は半年なので、2年半分の作品の中から選んだものだ。その後も授業は続き、あす三月十一日の授業で7期が終わろうとしている。6期でも、7期でも、はっとするような素直で素朴な言葉が詩として結実している。いや、それだけでは済まされない詩としての強烈なインパクトを持った作品も登場している。
 度肝を抜かれたのは6期生のXくんの作品だった。前号でも少し触れたが、ともかく寡黙な子だった。この授業を始めてからこんなに寡黙な子はいない、というくらい言葉が少ない。結局、彼は、自分でこの作品を声に出して朗読することはなかった。いままでの授業で、ただ一人、朗読することを頑なに拒んだのだ。無理強いすれば、壊れてしまいそうだった。だから、わたしたちも強制はしなかった。
 彼の詩は、驚くほど繊細で、透明な悲しみと孤独に満ちていた。あまりのすばらしさにわたしは感嘆し、授業の後「これを外で朗読してもいい?」と本人に尋ねずにはいられなかった。彼はすなおにうんとうなずいた。「詩の雑誌に発表してもいい?」と聞けば、またこくりとうなずく。「本名で発表してもいい?」と重ねて聞くと、またうなずき、彼は笑顔を見せた。控えめな、はにかむような笑顔のなかに、彼の歓びの輝きが見えた。
 彼のそんな顔を、わたしはそのときまで、見たことがなかった。いつも、氷原のただなかに、ぽつんと置き去りにされたような、さみしげな表情をした子だった。みんなで体を動かしているときも、教室の片隅で膝を抱えてうずくまっているような子だった。
 その重い沈黙の中で、言葉はこんなふうにゆっくりと結晶していたのだ。このしんしんとしたさみしさ、この絶望の深さ。「真っ暗闇さえいまは見えない」というほど「傷んだ心」が、ひしひしと胸に迫ってくる。
 けれど、彼はそれを言葉に結晶させる術を持っている。「詩を書いて」と言えば、彼はそれを取りだして、そっと見せてくれる。声高らかに朗読することはできないけれど、大切な宝物を差しだすように、掌のなかの結晶を見せてくれたのだ。あ、すごい、とこちらが思ったその瞬間、結晶は、きらりと光を放った。
 ああ、彼自身が、地層深くに眠る、まだ人の目に触れていない晶洞のようだ。無数の美しい結晶をびっしりと壁に生じさせた閉じられた洞窟。その真ん中の真っ暗な空洞のなか、ひとかけらの光もなく、彼の魂は膝を抱えてうずくまっている。
 人の目に触れ、光を受ければ、結晶はいやでもきらきらときらめく。
 この詩は、宮沢賢治が友に書いた手紙をわたしに想起させた。
 
「今朝から十二里歩きました 鉄道工事で新らしい岩石が沢山出てゐます 私が一つの岩石をカチツと割りますと初めこの連中が瓦斯だつた時分に見た空間が紺碧に変つて光つてゐることに愕いて叫ぶこともできずきらきらと輝いてゐる黒雲母を見ます 今夜はもう秋です  スコウピオも北斗七星も願はしい静かな脈を打つてゐます」

 詩の言葉のきらめきが、結晶から反射してくる賞賛の言葉が、Xくんの心を照らしてくれたらと願わずにはいられない。
 Xくんのいた6期の授業は終わってしまった。彼らは「社会性涵養プログラム」を卒業し、刑務所の日常へと帰っていった。わずか半年、しかも、わたしにとっては月に一回だけのつきあいだった。もっともっと彼らの詩を読みたい。彼らといっしょにいたい。まだ、表現の大海原へと漕ぎだすための港についたばかりではないか、ここからいっしょに、彼らと彼方への旅をしたい、と願う。でも、それはいまは許されていない。わたしには、いまのところ、授業を終えた彼らと接触する術はない。残念だ。
 彼はいま、どうしているだろう。わたしたちの授業は、彼のいる晶洞に、わずかでも光をもたらすことができただろうか。彼は、自らが作りだした結晶の美しさに、気づいただろうか。彼が、その美しさに励まされることはないだろうか。
 彼がここに来る以前に詩を発表することができていたら、もしかしたら、罪を犯さずにすんだのかもしれない、とも思う。
 きょうも、刑務所ではいつもの日常が淡々と過ぎていく。そこには、まだ誰の目にも触れたことのない結晶たちが眠っている。地層のなか、さまざまな言葉が、だれにも届かないまま、静かに結晶を伸ばしていく。


追伸:『紫陽』23号を読んだXくんから手紙が来た。「この詩集にのってるのが本当にびっくりです。書いてよかったと思っています。今まではなんでもやりきった事がなかったし、やりたい事がなかったけれど、一つやりたい事が見つかりました」それは詩を書くことであると。よかった。


※(編集人記)『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』は今年五月に新潮文庫版が出版された。
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詩誌『紫陽』24号、2011年8月
編集:京谷裕彰/藤井わらび
発行:紫陽の会

X「孤独な背中と気怠さと」/寮美千子「詩の力・座の力/詩が開く心の扉」(『紫陽』23号、2011年1月)

  孤独な背中と気怠さと
                    X



気怠く笑う耳が千切れそうなほど笑い声が鳴り響いて
強く胸を締めつけるからだれにもわかんないように耳をふさいで
独りあるく夕暮れの空 目の前には笑いつかれた少女が独り
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと笑い声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 真っ白な空の下 時が止むのを待っている
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無音無色の世界が見えた
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無感情な少女が独りいた
目が覚めたボクは真っ白な部屋の中 小さな窓とベッドといすが一つずつ
自分以外だれ一人いない小さくて白い部屋
窓から見えるキズだらけの空
地面に叩きつけられた雨音に胸を締めつけられ
だれにもわからないように窮屈そうに声を出した その声に少しぞっとする

冷めた表情 伏し目のまま 笑いつかれた少女が キズだらけの空を見た
泣き顔 小さな目 丸まった背中の少女が 仏頂面な空を見た
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと泣き声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 仏頂面な空の下 雨が止むのを待っている
ボクは今、孤独な少女と夢の中 無音無色の世界を見た
ボクは今、孤独な少女と夢の中 窮屈そうな声を見た
冷めた声 伏し目の少女は両手を広げてとび立った
ボクはそれを見送ったあと 目を閉じた



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詩の力・座の力/詩が開く心の扉
     ~「孤独な背中と気怠さと」に寄せて
寮 美千子

 わたしたちは自己を表現するための「言葉」を持っている。いわゆる言葉以外にも言葉がある。目の表情、口元、体の姿勢、すべてがわたしたちの「言葉」であり「表現」だ。
 しかし、その表現が極端に苦手な人間もいる。しゃべるのが苦手、笑顔も出ない。そんな人間は、周囲に理解されず「何を考えているのかわからない」と不気味に思われる。時に怖れられ、あるいはバカにされ、いじめられ、彼らはますます自己の殻に閉じこもってしまう。話してもどうせわかってもらえない、という思いが、彼をますます孤独にし、絶望の淵へと追いこむ。
 奈良少年刑務所の社会性涵養プログラムの受講生たちのほとんどが、そのように極端に自己表現が苦手な青年たちだ。ある者は発達障害を抱え、ある者は激しい虐待を受け、ある者は育児放棄された経験を持っていた。自分の意志や努力とは無関係に、運命のごとく社会的に弱者の立場に置かれてきた者が多い。そのせいで、ある意味「言葉」を奪われてきた人々なのだ。
 自分を表現できない、相手と意思の疎通ができない。その悪循環が加速し、その結果追いつめられ、とうとう爆発して事件に至る、というケースも多い。彼らは、加害者である前に、被害者であったのだ。小さくキレて発散できていればすむものが、溜まりに溜まって大爆発になり、不幸な事件となってしまうこともある。
 奈良少年刑務所で、受刑者の情緒を耕すための「社会性涵養プログラム」の講師を務めて、すでに3年が経った。このプログラムは、絵本を読み、詩を読み、さらには彼らに詩を書いてもらい、それを合評していくことで、そんな彼らに、徐々に「自己表現の言葉」を身につけていってもらうための授業である。
 教育の専門家でもなんでもないわたしが、ひょんなことからこのプログラムの講師になった。というのも、明治以来の旧監獄法が改正され、刑務所が単なる懲罰のための施設から、更生のための教育を受けることのできる施設へと、その位置づけが変わったからだ。
 二〇〇七年から新たに始まったプログラムであったため、メソッドもなにもなくて、手探りで授業を始めた。受講者は十名前後。刑務所の中でも、ほかのものと歩調を合わせることができなかったり、極端に自己主張が苦手な子たちだ。授業は月に三回、一時間半ずつ。一回はSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)といって挨拶などの基本を学ぶ授業、一回は絵を描く授業、そしてわたしの受け持つ「詩と物語の教室」だ。これを六ヶ月行う。合計十八回。たったそれだけの授業で、彼らは見違えるほど変わる。変わらなかった者などいない。表情が豊かになり、言いたいことが前よりも言えるようになり、時には曲がっていた背中がまっすぐに伸びて、胸を張って堂々としてくる。堅さがとれて、自然体に近づいてくる。そうなると、他者とのコミュニケーションもスムーズになり、ますます表情が明るくなって〝良循環〟が始まるのだ。
 一回の授業のはじまりと終わりでは、その差がわかるほど変わるのだが、ぐっと変わるのは、詩の授業をしたときだ。それも、有名な詩人の詩を読んで鑑賞したときでなく、彼ら自身が書いた詩を合評したとき。自作の詩をみんなの前で朗読し、拍手を受け、その感想を仲間の口から聞いた時、確かに深いところで閉ざされていた鍵が、かちゃりと音を立てて開かれる。
 時には、これが「詩」だろうか、と思うほど素朴な作品があった。「何も書くことがなかったら、好きな色について書いて」という課題に提出された作品だ。
 
 好きな色
 
 ぼくの好きな色は 青色です。
 つぎに好きな色は 赤色です。
 
 この、ストレートすぎる言葉に、一体どう対応していいのかと戸惑っていると、受講生の一人が「はい」と手を挙げたのだ。そして言った。「ぼくは、○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも聞けて、よかったです」「ぼくもです。○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも教えてもらって、うれしかったです」「○○くんは、ほんまに青と赤が好きなんやなあって思いました」
 驚いた。そして感動した。彼らはなんてやさしいのだろう。なんて友だち思いなんだ。こんな人々が、なぜ刑務所に来なければならなかったのだろうか。きっと、彼らをそこまで追い詰めた何かがあったに違いない。
 そして、わたしは自分を恥じた。わたしは、この作品を、彼らのようには受けとめることができなかった。「詩とはこんなもの」という観念に縛られていたからだ。
 極端に表情のとぼしかった○○くんは、仲間のその言葉を聞いて、笑った。教室にやってきてはじめて、まるで花がほころぶように、ふわっといい笑顔を見せたのだった。
 その瞬間、わたしの中の「詩」の概念がひっくり返った。「いい詩」「すばらしい詩」というものがあるというわたしの固定観念が、微塵に砕かれたのだ。言葉は、詩になるのだ。言葉を発した人が詩だと思い、受け取った人が詩だと感じれば、どんな言葉も、神聖な詩の言葉になるのだ。彼らは、彼らの力で、友の言葉を「詩」たらしめたのだ。指導者の力ではなく、彼ら自身の力で「詩」を発見したのだ。
 もちろん、いい詩はある。いつどこで誰が読んでもすばらしい、完成された作品はある。けれどそれだけではなく、「座」が神聖な「詩」を生み出していく、そのような「場」としての「詩」があるのだと思い知った。
 彼らは、表現や言葉を扱うことが極端に苦手だ。だからこそ、虚飾や嘘が入る余地がなく、ギリギリの言葉を紡ぐが故に、まっすぐに届いてくる。「表現」という時、わたしたちはなにか一見華麗に見える「表現らしきもの」におぼれてはいないだろうか。
 彼らが自分たちの詩を発表し、誰かに受けとめられた瞬間、彼らがあからさまに変わるのを目の当たりにして、わたしは「詩の力」に大きな驚きを感じた。詩には、確かに力がある。わたしが思っていた以上に、それは力を持った神聖な言葉だ。わたしは、いままで、そこまで詩を信じていなかったかもしれない。けれど、この体験を通じて、詩の力を実感することができた。
 彼らの詩をまとめ、授業の様子を書き添えて編集したのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版、二〇一〇年六月)である。ぜひ読んでいただきたい。ことに詩を書く人、読む人に、これを読んでもらえたらと思う。
 この詩集には社会性涵養プログラムの5期生までの作品が収録されている。現在、プログラムは7期目に入り、これから詩を書いてもらうところだ。6期でも、驚くべき作品が生まれている。これをなんとか紹介したいと思い、刑務所の許可をいただいて、ここに一つの作品を紹介させてもらった。
 これを書いたのは、緘黙といっていいほど無口で、引っ込み思案な青年だ。それでも、教室では何とか小声で発言してはくれたが、彼はついに殻から出てこようとはしなかった。
 ところが、詩の課題を出して提出された作品を見て、驚いた。そこには饒舌なまでにその心の内側が表現されていたからだ。その痛み、孤独、泣きたくなるほどのさみしさが、見事に言葉として結晶していた。
 「すごいね。すごいよ、この詩」とわたしは興奮して彼に話しかけた。「ねえ、この詩、刑務所の外で発表してもいい? わたしが朗読してもいい?」
 そう言うと、あの緘黙な彼が、すこしうれしそうにうなずいたのだ。
 「ねえ、詩の雑誌に発表してもいい?」
 また、うなずく。
 「きみの名前、書いてもいいかな?」
 彼は、はっきりとうなずいた。しかし、それは叶わなかった。教官から、こんな注意を受けたからだ。
 「それはいけません。詩を発表するには、許可がいりますので、申請をして手順を踏んでください。それから、残念ながら、本名では発表できません」
 というわけで、申請をして許可を得て掲載させてもらうことになったが、彼の名を明かすことはできない。
 授業で、彼が書いてくれた詩は二編。どちらもすばらしい。今号で一編、次号でもう一編を紹介させてもらいたいと思っている。受刑者の詩だからではない、すばらしい詩だから、紹介するのだ。彼の詩には授業の仲間、という枠を超え、見えない大きな座を作っていく力があるとわたしは思う。多くの人が、彼の言葉に心を震わせ、共感するだろう。その孤独の深さの痛みを感じるだろう。彼がそのことを、誇りに思ってくれたら、うれしい。

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詩誌『紫陽』23号、2011年1月
編集:京谷裕彰/藤井わらび
発行:紫陽の会