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2020年11月22日日曜日

中屋敷智生 薬師川千晴 二人展「制限と超越 二元性、その現象学と形而上学」2020.12.5~12.20 於 Space31(神戸)




 

【タイトル】制限と超越 二元性、その現象学と形而上学

【作家】中屋敷智生 薬師川千晴
【キュレーター】京谷裕彰
【会期】2020年12月5日(土)~12月20日(日) 13:00~19:00(最終日は18:00まで)12月9日(水)、15日(水)休廊
【会場】Space31
〒658-0054 神戸市東灘区御影中町1-8-3 メゾンユイト3F
TEL:080-1455-5906
【アクセス】阪神本線「御影」駅より徒歩3分/JR神戸線「住吉」駅南出口より徒歩10分
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 相対立するもの、二律背反するもの、両極に引き裂かれてあるもの、せめぎあうもの、差異は微妙でありながら相容れないもの、併存しながらも異質なもの、露わなるものと密かなるもの、真なるものと非真なるもの・・・。それらの存在に面前する、とはいかなることか? 意識や意志、あるいは創造性が二つの異なる要素ともろともに対峙する、あるいは回避する、そんな現象について感性や思考をめぐらせる。
 論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人の絵画が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみよう。その彼方には何があるのか? 
 京谷裕彰
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・ご来廊の際は、マスクの着用をお願いいたします。
・体調が優れない方、発熱症状のある方はご来廊をお控えください。
・混雑が予想される際、入場制限を行う場合があります。
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キュレーター・ステイトメント

・相対立するもの、二律背反するもの、両極に引き裂かれるもの、せめぎあうもの、差異は微妙でありながら相容れないもの、併存しながらも異質なものへ。意識や意志、創造性が二つの異なる要素ともろともに対峙することでしか志向できない領域について、あるいはまた、かかる存在や現象に面前するも回避せざるを得ない精神について、感性や思考をめぐらせる。

・二つの異なる要素とは、たとえば自と他、表と裏、奇数と偶数、右と左、上と下、前と後、光と影、プラスとマイナス、直線と曲線、など具体性をもった対として現象する場合もあれば、見えるものと見えないもの、有と無、真なるものと非真なるもの、などまったき抽象性の中でしか意識に上らないものもある。
 それら二つの異なる要素、その現象への面前を通じて、ある〈高み〉へと飛翔すること、〈彼方〉へと超えゆくことを、実存哲学を参照し、ひとまずは〈超越〉と呼ぶことにする。
 〈高み〉とは〈低み〉である場合もあろうし、〈低み〉こそが〈高み〉である場合もあろうし、〈彼方〉とは〈此方〉や〈後方〉にあるかもしれない。いずれにせよ一義的なものではない。

・制作の「制」という漢語には「つくる」の意があるが、「さだめる」「おさめる」の意もあり、その場合、制作行為は「作」を「制する」こととして何かを生み出すための〈制限〉を表徴する。〈制限〉がなければ形あるものを生み出すことができない芸術にあっては、〈制限〉こそが〈超越〉のための条件となる。
 一方で〈超越〉を回避したり留保したりすることもまた、〈制限〉であるに違いない。

・論理を内在的に表象する中屋敷智生さん、物理的に明示する薬師川千晴さん、二人が並び立つことによってしか開示されえないものへと意識を差し向けてみる。

・ここに〈美学〉や〈政治〉をめぐる現下の様々な情況を超えてゆく、希望と言い得るなにかを賭けられないだろうか。
 二人の作家それぞれの営為を通じ、私たちにとっての〈超越すること(自己超克)〉に、なにかしらの糧が得られればと考えている。

2016年12月6日火曜日

「超現実と実存」(グループ展「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」キュレーターステイトメント)

 〈私〉や〈他者〉を通じて〈世界〉を、あるいは〈世界〉から〈私〉や〈他者〉を知覚したり認識したりすることを通じて、人や人になぞらえられた影像を絵画に描出する行為は古今東西、広く行われていることであり、このような行為は無意識の領域に深く根ざしている。それだけに、感覚だけで了解できることもあれば、描画という行為や絵画における現象を読み解く行為を経なければ意味が浮かび上がらないこともある。
 本企画のタイトルは「私、他者、世界、生――現実を超える現実――」であるが、一人称〈私〉に続く言葉が人称を特定しない〈他者〉であるのは、自我を客観視する〈自己〉であるよりも前に、主体としての〈私〉であることが先立つのに対し、〈他者〉とは〈あなた〉であっても〈彼(女)〉であっても、〈誰〉であっても、〈私〉からは隔たった存在であることによる。ここに何を代入しようと自由なのだ。あるいは、偶然や必然がここに何かを代入する。それならば、〈他者〉とは人形や置物であってもいいどころか、人間や生物の影像である必要すらないかもしれない。

 ところで、日本語ではシュルレアリスム surréalisme(仏語)から派生した「シュール」という言葉が、非現実な、いわくいいがたいものを表す俗語として定着しているが、俗語化したことによってその潜勢力がスポイルされてしまった感がある。しかし一方でその軽さは、〈かろやかさ〉としてもあり、〈遊び〉心に浸透するものや刺激するものを指す言葉として感性になじみやすいものでもあった。それゆえ、ときに私たちの「軽薄さ」にもフォーカスされざるをえない。
 そのような俗語的なニュアンスとは違い、本来、シュルレアリスムとは非現実ではなく現実を超える現実、つまり〈強度の現実〉を志向する芸術思潮であるとされる。これはどういうことか。
 ここでは、身の周りに広がる、あるいは目の前の、いわゆる「現実」を超えてある、画面の中の現実のことをひとまず〈絵画における強度の現実〉とよぶことにしよう。
 そして〈絵画における強度の現実〉はどこまでも〈私〉と〈他者〉、あるいは〈私〉と〈世界〉との関わりのなかにあるため、〈実存〉をめぐる哲学の圏域と否応なく接している。〈実存〉とは事物存在とは異なり、本質に先立つ真実にして現実なる人間存在の独特のあり方、と一般には解説されているが、潜在意識の内奥の、その暗がりにあって人間の判断や行動をつかさどるもの、とするヤスパースやメルロ=ポンティの〈実存〉概念をとりわけ私は想定している。
 ところが、シュルレアリスムを〈実存〉という問題系において思考する議論はほとんど見受けられない。フランス現代思想において「実存主義」の立場からサルトルがブルトンを批判したことの残響を引きずっていることや、美術史が20世紀の出来事として整理していることにもよるだろうが、それよりも何よりも、シュルレアリスムを扱うとき、人はえてして客体として扱える距離を置くという態度を取りがちになる。なぜなら、実存に反照することへの恐れが、それを実存の問題として容易には扱えなくしてしまうという心理に起因するからだ。作品を鑑賞したり作品について語ったりする〈私たち〉が、他人事ではないと感じたり、無意識に跳ね返るものを感知して竦んでしまった経験は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
 だが、五感で感受するインスタレーションとは違い、作品と観者との間に適切な〈心的距離〉を確保しやすいことが絵画の特質であるという点は、シュルレアリスム絵画とて同じである。ただ、シュルレアリスム絵画には境界をゆさぶる力が顕著なため、関心を誘発しながらも最終的には接触させない(できない)距離を置くのがよい、とされるセオリーをも、しばしばゆさぶってしまうのだ。しかし、それでもなお〈遊び〉や〈かろやかさ〉はシュルレアリスムの大きな魅力であり、押しつけがましさ、僭越さとは逆の方を向いている。
 だとすると、ここには絵画の本質に迫る重大な何かが潜んでいるのではないか。これをキュレーターからの問題提起として受け取っていただきたい。

 ともかく、見た目がそれっぽい、といったビジュアルがシュルレアリスムを条件付けているのでないことは、明言しておきたい。また、動きあるものを固定する箍をつねにすり抜けるため、定義付けにもなじまない。ゆえあって定義がなされるとしても、それはいつも仮のものにとどまらざるをえない。シュルレアリスムとは、その人のなかではいつでも始まり、いつでも終わり、そしていつでも何度でも再開するものである。参照項としても生き方の哲学としても。

 今回ここに集う女性作家たちは、シュルレアリスム(的)か否か、という自覚の有無にかかわらず、みな〈絵画における強度の現実〉を制作において実践している。曖昧なままに厳格な、何かを描いているのだ。
 ゆえに、作品が「シュルレアリスムか」「シュルレアリスムでないか」といったことは大した問題ではないばかりか、主眼はそこにはない。
 それぞれの作家の営為を通じて、〈絵画における強度の現実〉、そして〈実存〉について考え、すでにあるものとは異なる視点から世界を再考し、異なる視点へと私たちの問題意識の領野を広げる機会としたい。
 この展覧会の主眼はそこに(だけ)ある。

                                                               キュレーター 京谷裕彰

★cf.谷川渥「美的距離の現象学」(『美学の逆説』所収,2003年,ちくま学芸文庫)






◆「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」 コンテンポラリーアートギャラリーZone 
2016.12.10~12.27
出展作家:OKA 川崎瞳 松平莉奈 松元悠 百合野美沙子 

2015年4月13日月曜日

マルセル・デュシャン、瀧口修造、岡崎和郎

ギャラリーあしやシューレにて、来る4月27日(月)より6月14日(日)までの日程で岡崎和郎(おかざきかずお)の個展が開かれるというニュースが届いた。
現在85歳の岡崎氏本人も来場し、かつて国立国際美術館でマルセル・デュシャン展を企画した平芳幸浩氏と対談をされるという。

岡崎和郎という名を聞けば、あまりにも有名なデュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)の一部を抜き出した瀧口修造とのコラボレーション《檢眼圖(けんがんず)》を即座に思い出す。
 1980年に再現された《大ガラス、東京ヴァージョン》。
 1965年に制作された《大ガラス》の一部、《眼科医の証人》エッチング
瀧口修造+岡崎和郎《檢眼圖》(1977年,国立国際美術館所蔵)。以上、三枚の写真はすべて『マルセル・デュシャンと20世紀美術』展図録(国立国際美術館・横浜美術館,2004)から拝借。

ミッシェル・サヌイエ編『マルセル・デュシャン全著作』(北山研二訳,1995,未知谷)より、関連箇所を引いてみよう。

「眼科医の表[検眼図]――

眼科医の表による跳ね返りのめまい。
 眼科医の表を通ってめまいをおこしたあとめまいがしたたりの(点の)彫刻をつくるが、それぞれのしたたりは点として役立ち、鏡によって映し出されるようにガラスの上部に映し出され、九つの射撃痕と出会う。
 鏡映し――それぞれのしたたりは、二つの図形の投影図と実測図の間にある三つの水平面を通り抜けるだろう。これら二つの図形はウィルソン=リンカーン・システム(すなわち、左からみればウィルソンになり、右から見ればリンカーンになる肖像画に似たシステム)によってこれら三つの平面に示されるだろう。
 右から見ると、図形はたとえば正面から見た正方形になりうるだろうし、左から見ると、透視図法で見られた同じ正方形になりうるだろう――
 鏡に映るしたたりはしたたりそのものではなく、それらの映像は同じ図形(この例では正方形)のこれら二つの状態の間を通る。
 (場合によったら、探している結果を得るにはガラスの裏に数個のプリズムを貼って使うこと)。

 斜視で眺めるべき諸部分、それは部屋の諸事物が映し出されるような、ガラスのなかの銀張り部分に似る。」

『マルセル・デュシャン全著作』132-133頁

ここでは個人的な関心から《檢眼圖》を紹介したけれども、今度の個展は独自の造形概念「御物補遺」によって制作された過去の代表作や新作を精選し、その思想に触れる展覧会になるそうだ。
その楽しみな日が来るのを、待ち遠しく待ちたいと思う。

◆岡崎和郎展 Kazuo Okazaki「御物補遺」 ギャラリーあしやシューレ 2015.4.27-6.14

2011年2月19日土曜日

〔注目の個展〕 福永宙「golem」 於、ギャラリーwks.

西宮船坂ビエンナーレにも出展されていた福永宙(ふくなが おき)さんの個展「golem」がもうすぐ始まります。
ゴーレムとは東欧ユダヤ人の間に伝わる伝説で、粘土など無機物によってつくられた人形に、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が神の名を唱えることによって命が吹き込まれたもの。しかし、それは人間を造物主の地位になぞらえる危険な偶像崇拝でもありました。



「ゴーレムが徘徊している。私たちに何かを言おうとしているようだ。」(ネグリ&ハート『マルチチュード』より)


2011.2.28(月)~3.12(土) 12:00-19:00
ギャラリーwks.(大阪・西天満)


レヴュー↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2011/03/golem-wks.html