2019年10月2日水曜日

X「孤独な背中と気怠さと」/寮美千子「詩の力・座の力/詩が開く心の扉」(『紫陽』23号、2011年1月)

  孤独な背中と気怠さと
                    X



気怠く笑う耳が千切れそうなほど笑い声が鳴り響いて
強く胸を締めつけるからだれにもわかんないように耳をふさいで
独りあるく夕暮れの空 目の前には笑いつかれた少女が独り
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと笑い声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 真っ白な空の下 時が止むのを待っている
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無音無色の世界が見えた
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無感情な少女が独りいた
目が覚めたボクは真っ白な部屋の中 小さな窓とベッドといすが一つずつ
自分以外だれ一人いない小さくて白い部屋
窓から見えるキズだらけの空
地面に叩きつけられた雨音に胸を締めつけられ
だれにもわからないように窮屈そうに声を出した その声に少しぞっとする

冷めた表情 伏し目のまま 笑いつかれた少女が キズだらけの空を見た
泣き顔 小さな目 丸まった背中の少女が 仏頂面な空を見た
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと泣き声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 仏頂面な空の下 雨が止むのを待っている
ボクは今、孤独な少女と夢の中 無音無色の世界を見た
ボクは今、孤独な少女と夢の中 窮屈そうな声を見た
冷めた声 伏し目の少女は両手を広げてとび立った
ボクはそれを見送ったあと 目を閉じた



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詩の力・座の力/詩が開く心の扉
     ~「孤独な背中と気怠さと」に寄せて
寮 美千子

 わたしたちは自己を表現するための「言葉」を持っている。いわゆる言葉以外にも言葉がある。目の表情、口元、体の姿勢、すべてがわたしたちの「言葉」であり「表現」だ。
 しかし、その表現が極端に苦手な人間もいる。しゃべるのが苦手、笑顔も出ない。そんな人間は、周囲に理解されず「何を考えているのかわからない」と不気味に思われる。時に怖れられ、あるいはバカにされ、いじめられ、彼らはますます自己の殻に閉じこもってしまう。話してもどうせわかってもらえない、という思いが、彼をますます孤独にし、絶望の淵へと追いこむ。
 奈良少年刑務所の社会性涵養プログラムの受講生たちのほとんどが、そのように極端に自己表現が苦手な青年たちだ。ある者は発達障害を抱え、ある者は激しい虐待を受け、ある者は育児放棄された経験を持っていた。自分の意志や努力とは無関係に、運命のごとく社会的に弱者の立場に置かれてきた者が多い。そのせいで、ある意味「言葉」を奪われてきた人々なのだ。
 自分を表現できない、相手と意思の疎通ができない。その悪循環が加速し、その結果追いつめられ、とうとう爆発して事件に至る、というケースも多い。彼らは、加害者である前に、被害者であったのだ。小さくキレて発散できていればすむものが、溜まりに溜まって大爆発になり、不幸な事件となってしまうこともある。
 奈良少年刑務所で、受刑者の情緒を耕すための「社会性涵養プログラム」の講師を務めて、すでに3年が経った。このプログラムは、絵本を読み、詩を読み、さらには彼らに詩を書いてもらい、それを合評していくことで、そんな彼らに、徐々に「自己表現の言葉」を身につけていってもらうための授業である。
 教育の専門家でもなんでもないわたしが、ひょんなことからこのプログラムの講師になった。というのも、明治以来の旧監獄法が改正され、刑務所が単なる懲罰のための施設から、更生のための教育を受けることのできる施設へと、その位置づけが変わったからだ。
 二〇〇七年から新たに始まったプログラムであったため、メソッドもなにもなくて、手探りで授業を始めた。受講者は十名前後。刑務所の中でも、ほかのものと歩調を合わせることができなかったり、極端に自己主張が苦手な子たちだ。授業は月に三回、一時間半ずつ。一回はSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)といって挨拶などの基本を学ぶ授業、一回は絵を描く授業、そしてわたしの受け持つ「詩と物語の教室」だ。これを六ヶ月行う。合計十八回。たったそれだけの授業で、彼らは見違えるほど変わる。変わらなかった者などいない。表情が豊かになり、言いたいことが前よりも言えるようになり、時には曲がっていた背中がまっすぐに伸びて、胸を張って堂々としてくる。堅さがとれて、自然体に近づいてくる。そうなると、他者とのコミュニケーションもスムーズになり、ますます表情が明るくなって〝良循環〟が始まるのだ。
 一回の授業のはじまりと終わりでは、その差がわかるほど変わるのだが、ぐっと変わるのは、詩の授業をしたときだ。それも、有名な詩人の詩を読んで鑑賞したときでなく、彼ら自身が書いた詩を合評したとき。自作の詩をみんなの前で朗読し、拍手を受け、その感想を仲間の口から聞いた時、確かに深いところで閉ざされていた鍵が、かちゃりと音を立てて開かれる。
 時には、これが「詩」だろうか、と思うほど素朴な作品があった。「何も書くことがなかったら、好きな色について書いて」という課題に提出された作品だ。
 
 好きな色
 
 ぼくの好きな色は 青色です。
 つぎに好きな色は 赤色です。
 
 この、ストレートすぎる言葉に、一体どう対応していいのかと戸惑っていると、受講生の一人が「はい」と手を挙げたのだ。そして言った。「ぼくは、○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも聞けて、よかったです」「ぼくもです。○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも教えてもらって、うれしかったです」「○○くんは、ほんまに青と赤が好きなんやなあって思いました」
 驚いた。そして感動した。彼らはなんてやさしいのだろう。なんて友だち思いなんだ。こんな人々が、なぜ刑務所に来なければならなかったのだろうか。きっと、彼らをそこまで追い詰めた何かがあったに違いない。
 そして、わたしは自分を恥じた。わたしは、この作品を、彼らのようには受けとめることができなかった。「詩とはこんなもの」という観念に縛られていたからだ。
 極端に表情のとぼしかった○○くんは、仲間のその言葉を聞いて、笑った。教室にやってきてはじめて、まるで花がほころぶように、ふわっといい笑顔を見せたのだった。
 その瞬間、わたしの中の「詩」の概念がひっくり返った。「いい詩」「すばらしい詩」というものがあるというわたしの固定観念が、微塵に砕かれたのだ。言葉は、詩になるのだ。言葉を発した人が詩だと思い、受け取った人が詩だと感じれば、どんな言葉も、神聖な詩の言葉になるのだ。彼らは、彼らの力で、友の言葉を「詩」たらしめたのだ。指導者の力ではなく、彼ら自身の力で「詩」を発見したのだ。
 もちろん、いい詩はある。いつどこで誰が読んでもすばらしい、完成された作品はある。けれどそれだけではなく、「座」が神聖な「詩」を生み出していく、そのような「場」としての「詩」があるのだと思い知った。
 彼らは、表現や言葉を扱うことが極端に苦手だ。だからこそ、虚飾や嘘が入る余地がなく、ギリギリの言葉を紡ぐが故に、まっすぐに届いてくる。「表現」という時、わたしたちはなにか一見華麗に見える「表現らしきもの」におぼれてはいないだろうか。
 彼らが自分たちの詩を発表し、誰かに受けとめられた瞬間、彼らがあからさまに変わるのを目の当たりにして、わたしは「詩の力」に大きな驚きを感じた。詩には、確かに力がある。わたしが思っていた以上に、それは力を持った神聖な言葉だ。わたしは、いままで、そこまで詩を信じていなかったかもしれない。けれど、この体験を通じて、詩の力を実感することができた。
 彼らの詩をまとめ、授業の様子を書き添えて編集したのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版、二〇一〇年六月)である。ぜひ読んでいただきたい。ことに詩を書く人、読む人に、これを読んでもらえたらと思う。
 この詩集には社会性涵養プログラムの5期生までの作品が収録されている。現在、プログラムは7期目に入り、これから詩を書いてもらうところだ。6期でも、驚くべき作品が生まれている。これをなんとか紹介したいと思い、刑務所の許可をいただいて、ここに一つの作品を紹介させてもらった。
 これを書いたのは、緘黙といっていいほど無口で、引っ込み思案な青年だ。それでも、教室では何とか小声で発言してはくれたが、彼はついに殻から出てこようとはしなかった。
 ところが、詩の課題を出して提出された作品を見て、驚いた。そこには饒舌なまでにその心の内側が表現されていたからだ。その痛み、孤独、泣きたくなるほどのさみしさが、見事に言葉として結晶していた。
 「すごいね。すごいよ、この詩」とわたしは興奮して彼に話しかけた。「ねえ、この詩、刑務所の外で発表してもいい? わたしが朗読してもいい?」
 そう言うと、あの緘黙な彼が、すこしうれしそうにうなずいたのだ。
 「ねえ、詩の雑誌に発表してもいい?」
 また、うなずく。
 「きみの名前、書いてもいいかな?」
 彼は、はっきりとうなずいた。しかし、それは叶わなかった。教官から、こんな注意を受けたからだ。
 「それはいけません。詩を発表するには、許可がいりますので、申請をして手順を踏んでください。それから、残念ながら、本名では発表できません」
 というわけで、申請をして許可を得て掲載させてもらうことになったが、彼の名を明かすことはできない。
 授業で、彼が書いてくれた詩は二編。どちらもすばらしい。今号で一編、次号でもう一編を紹介させてもらいたいと思っている。受刑者の詩だからではない、すばらしい詩だから、紹介するのだ。彼の詩には授業の仲間、という枠を超え、見えない大きな座を作っていく力があるとわたしは思う。多くの人が、彼の言葉に心を震わせ、共感するだろう。その孤独の深さの痛みを感じるだろう。彼がそのことを、誇りに思ってくれたら、うれしい。

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詩誌『紫陽』23号、2011年1月
編集:京谷裕彰/藤井わらび
発行:紫陽の会

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