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2018年10月24日水曜日

しまだそう・中屋敷智生・池田慎・京谷裕彰「奇跡(とわ)の黄金比(めぐりあい)」Finch Arts(京都・木屋町-先斗町)

【制作の手順】
① まず京谷が短詩を七篇、短冊に書き付ける。
② 2018年正月、この短冊を、池田・しまだ・中屋敷、三人の美術家がそれぞれ二回ずつくじ引きみたいにして引く(各自が引いた短冊の詩は、この時点では引いた当人と京谷と立会人の西嶋みゆきだけが知っている)。その後は新年会。
③ 三人の美術家は引いた二枚の 短冊に書かれた詩をお題に、他の二人に引き継ぐための二点の作品を作る。残った一枚は共同制作のお題とする。
④ 2018年春、一人につき二点ずつの作品を持ち寄り、各自が他の二人に作品を引き継ぐ交換会を実施。この時、詩が全て明かされる。その後は途中経過作品を愛でながらの酒盛り。
⑤ 三人の美術家は引き継いだものに自由に干渉し、作品を仕上げる。
⑥ 詩はそのまま作品のタイトルとし、短冊はそのままキャプションとして使用する。
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フライヤは某激安スーパーのチラシ風にする。
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★《猪口才(ちょこざい)なこびとを愛撫するタコを眺めるムーミンはバカかな? (ちがう、失礼な・・・)カバです! (ちがう)・・・》 中屋敷⇒しまだ

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=OhUO2nDnr3c
※会場ではQRコードをスキャンすると特設YouTubeサイトにジャンプして京谷による朗読音声が再生される仕組み。


★《私たちはね 豆腐の角に頭をぶつけて死にかけている瀕死の夢想者なの (はい、そうです)(か)》 中屋敷⇒池田
角を落した角材にペイントした中屋敷氏から引き継いだ池田氏は、絵具の色とまったく同じ色の糸をもって刺繍を施しています。
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=y7QLAk_8ugI
裏返すとこんなかんじ。

★《「先生、スッポンとすっぽんぽんは関係があるのですか?」「スッポンは裸の亀だからスッポンなのです。」「ほんとですか?」「亀とは裸でありつつ裸でない存在なのです。」「・・・。」》 しまだ⇒中屋敷 

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=ibQJy7DbbAk


★《道化師であり 河童であり 骸骨であり へのへのもへじである よ 菱の焼酎に溺れないで よ》 しまだ⇒池田

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=QNUnswSaf-U

★《凡庸さ において 優秀な 官僚 としての 椎茸ド ロボー》 池田⇒しまだ

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=szDNPkKp7Pg

★《「(最近の)高級車の顔はなぜ人相が悪いのか?」という疑問と「自己を抑圧する者は他者をも抑圧する」なる格言との間に挟まれて神経症に罹ってしまった可哀想なネコの話》 池田⇒中屋敷

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=WlJZqdjSZMA

★《仏足石歌体(五七五七七七)による戯れ歌二首//
エロガッパ 想いは万感 濡れそぼち 宵待ち草に 更け待ち月の やる瀬もたたず/
松風に 溶けなずむ尻 拭き忘れ 色は匂わず しかばね起きる かりそめの閨(ねや)》
しまだ⇒中屋敷⇒池田 (全員の共同制作) 

【音声】https://www.youtube.com/watch?v=2ermedJl4WI


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◆「あの!しまだそう(ペイントマスター)とご存知!!中屋敷智生(トリックスター)と噂の!!!池田慎(ファンタジスタ)とまさかの!!!!京谷裕彰(ロマンチスト)が 奇跡(とわ)の黄金比(めぐりあい)」展
2018/10/6(土)~8(月),12(金)~14(日),19(金)~21(日)、Finch Arts(フィンチ・アーツ)https://www.facebook.com/finchartskyoto/ 
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「捕獲と脱糞」 京谷裕彰(詩人・批評家)

 20世紀前半に登場して以来、アブストラクト、シュルレアリスム、マルセル・デュシャンは現代美術の基層として、さながら持続低音のように響き続けている。これら三つの系譜を、中屋敷智生、しまだそう、池田慎がそれぞれに引き継いでいると言ってもあながち大袈裟ではない(ホンマかいな?)。なおかつ、そのどれでもあるような自由な創造性で我々の無意識を刺激し、異世界へと誘ってくれる三人が、それぞれに干渉し合う。

 この三人が、なぜこの三人なのか、なぜこの京都の雑居ビルの一室で干渉し合うのかは、自ずと明らかになりゃいいな、という程度のうすらぼんやりした希望的観測はまんざらでもない。京谷の詩を皮切りに三人が絡む、言わば三つ巴が四つ巴になった展覧会である。巴(トモヱ)とは人魂形に尾を引いた円が渦を巻くように拮抗したおなじみの紋様だけんども、京谷が昔36回のゲップで買った『日本国語大辞典 第二版』によると、「トモ」は友または共で、「ヱ」は絵だとかいう語源説があるんだから、なんとはなしにすがすがしい。
 ま、それはさておき干渉の鑑賞とはいかにも語呂がよい。(あるかないかもよくわからん)落とし所から滑り落ちながらひっかかる地点、そこから始まる何かに魂を飛ばしてみようではないか。
 ホモ・ルーデンス※の共演や、いかに・・・。


※homo ludens遊ぶ人、の意。

自動代替テキストはありません。
画像に含まれている可能性があるもの:テキスト



「奇跡は、自然法則にしたがった作用と相互関係にある。両者は互いに限定しあって、ひとつの全体をなす。この二つは、互いに止揚(アウフヘーベン)しあって、ひとつに結ばれる。自然事象なしに奇跡はなく、奇跡なしに自然事象はない。」
(ノヴァーリス『花粉』より、今泉文子訳)

2018年8月30日木曜日

吉野昇平展に寄せたテキスト「世界を触知する」(大阪市中央区/ギャラリー風)


 世界を触知する


 吉野昇平さんが写真に手を加えるのは、写真という手の届かない場所に収められた事物を、こちら側に、つまりヒトの側に接続する行為なのであろうか。
 〈在る〉ものを写し取った平面に手を加えることで現前した画像は、私たちの感性に少しの違和を催す。あるいは違和ですらないかもしれない、ほのかな感覚を催す。その現象は、〈自〉と〈他〉の、こういってよければ世界の境界線上で起っている。

 以前は植物がモチーフであったが、新しいシリーズでは折り紙である。

 折り紙とは、ただ一枚の平面体としての紙に、固い別の平面体に支えられたりしながら、手で力を加えることによって形を現出させる遊び(改めて言葉にする必要がないほど自明ではあるが、現象をなぞってみるならば実はさほど自明ではないことに驚く)。
 それを写真に収めたものの表面に、スクラッチやペイントで手を加える。制作のプロセスに、以前にもましていっそうの工程が重なったシリーズといえよう。
 このシリーズの鑑賞は、構図や色彩や形象、配されたモチーフにただ自由に感性をさらすこと、ただそれに尽きる。しかし視覚を通じて像が印象づけられるやいなや、色や形、手の動き、といったプロセスをほどいてゆく愉しみが訪れるかもしれない。あるいは少しの謎が、目や心を戸惑わせるかもしれない。鑑賞という行為それ自体が目と心の快楽でありつつ、やがて吉野さんの造形論理を理性的に読み解いてゆく時間が訪れる。情緒的なものが喚び醒まされたり、意味といいうるものが浮かび上がるかもしれない。
 ここには性急なものや、鑑賞者を急き立てるものはなにもないが、催された少しの違和(あるいは違和未満のほのかな刺激)が感性に対して効果的な働きを持っていることは確かであろう。
 かたどる手とかたどられた形、無機的なものから有機的なものへの生成、その情景。そこから媒介される印象は、客体であるという布置を越えて一方的にこちら側に迫ってくることがない。これは紛れもない優しさである。

 ここにある吉野さんの営みは、吉野さん自身にとっての存在証明であると同時に、私たちが世界に日々残してゆく痕跡、その営みの喩でもある。
 そうして世界を触知する〈私たち〉という存在の複数性への回路が、ゆっくりと立ち現れるのだ。
 そのとき〈私たち〉は、このささやかな営みがもたらすものに、この上ない安心感を覚えることだろう。


                           京谷裕彰(詩人・批評家)
 



◆吉野昇平 展 2018.8.20~8.28 ギャラリー風

2018年3月14日水曜日

長谷川由貴 個展「Node of Light and Shadow」に寄せたテキスト(spectrum gallery/大阪市中央区)

 長谷川由貴さんは美しい絵を描く。
 ところが、「美しい」という判断を経て心に落ち着く場所を確保するよりも先に、否応もなく湧き上がる感覚がある。それは、長谷川さんが描くことによって到達しようとする感覚、あるいは描くことを促した感覚にまつわるものであるのだろう。
 モチーフとなっている、絶対的な他者としての植物の存在感、植物が漂わせる気、あるいは信仰の場、神聖な場に漂う神気、など〈おそれ〉を催すものは〈崇高〉なるものだ。また、画題として付された言葉と絵には適度な距離があり、言葉はさしずめ詩でもある。その〈あいだ〉には、鑑賞者のために用意されたと思えるなにかがある。
 そんな長谷川さんの仕事はアカデミックな観点からすると、普通に具象絵画であり、植物画、風景画などと分類されるに違いない。一義的にはその通りで、それは間口の広さを根拠づけてもいる。しかし対象として植物や風景を描きつつも、心は超越的なものにしか向かっておらず、作家はここに確信をもっている。私はこのように超越性を志向する長谷川さんの仕事を、ある種の〈形而上絵画〉、とひとまずは位置づけることにしよう。
 近作では色彩もさることながら、光と影の表象、そのコントラストに顕著な特徴があり、とりわけ影を表象する〈黒〉は強い重力を帯びている。〈黒〉に引きつけられるのは、私たちの無意識そのものが、文字通り無意識裡に呼応しているからであろう。光を吸収し、何ものにも染まらない〈黒〉は、深淵としての〈闇〉でもあるが、それは私たちの潜在意識の内奥にある〈暗がり〉と、ときにあえかに、ときにまぎれもなく、結ばれる。実存へと反照する強さ、の基底でもあろうか。
 なにか超越的なものが作家の心身を通して描かせているのではないか、とも思っている。

                           京谷裕彰(詩人・批評家)
※会場配布テキスト





◆長谷川由貴 個展「Node of Light and Shadow」 2018.3.9~3.19
 spectrum gallery(スペクトラム・ギャラリー) 
開廊:金-月曜 13:30-19:30 / 日・祝・最終日 13:00-18:00
休廊:火・水・木

2018年1月29日月曜日

小島きみ子詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』/〈解説〉「潜在意識、あるいは創造性の源へ」冒頭部分

小島きみ子さんの新詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』が出来です。
私は巻末に小島さんの詩法についての解説を書かせていただきました。
おもしろかわいい小笠原鳥類さんによる表紙の装画、軽やかな造本、ではありますがたいへんな重力のある詩集です。
散文詩型と行分け詩型とが交互に展開しながら、知の世界へと通ずる豊穣な言葉と、隙間から差し込む光や時折でくわす暗い裂目とが、私たちの潜在意識に共振します。ですが意味はそう簡単には開示されません。閉ざされたものをひらいてゆくための思索へ。思索へ、と促す力は詩のテクストから発せられるにしても、開示されるべき意味はテクストの方ではなく、こちら側にあるのかな、と思います。

小島さんとは6年にわたって5千通以上のメッセージを往復し、実存と実存とで交わってきました。そうして日々の交わりの中から生まれたのが2015年『エウメニデス』誌上において、未来を予示するべく共働したシュルレアリスム特集でした。持続する出来事の中での、あるいはいくつもの成果を経ての、渾身のお仕事です。

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2018年1月刊  A5判 56頁
頒価:1200円 
ご購入は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) 小島きみ子さんまで。

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 潜在意識、あるいは創造性の源へ
                                                京谷裕彰
                       
 小島きみ子さんの詩は、詩と論が、詩と思想が、散文的に展開と収斂を繰り返しながら転がってゆくことから、〈詩論詩〉と呼ばれたり〈思想詩〉と呼ばれたりする。
   その詩法における外形上の特徴は、文と文との、あるいは節と節との連接の妙にあるといっていいだろう。結構としては行分け詩型よりも散文詩型になじみが深いが、行分け詩型であってもその本質は変らない。ここではひとまず散文詩型について述べることにしよう。
   小島さんの散文詩型における連接の論理は、当然のことながら通常の散文とは脈絡のあり方が異なっている。順序を飛び越え、ある整序された脈絡を攪乱するそのスタイルは、小島さん独自のものである。そのシンプルに綴られる文と文との間(あいだ)にある飛び越えは、論理としてはときに飛躍であったり、夢想としては飛翔としてあるなど、異なる位相の間を意識が自由に行き来することを可能にする。整序されたものを切断するための切れ目にして、分断されてあるものをつなぐメディウムにもなる。この、切れ目かつメディウムとしての〈間〉は、控えめでありながら、何かを感受する感覚の鋭さにドライブをかける機能がある。この点、一九二〇年代の短詩運動にもみられた、行と行の間の飛躍とのアナロジーをも窺えよう。
 行・文字・余白を自由に、自在に行き来する小島さんの精神と、われわれを包み、かつ超えたところの領域に伏蔵された真理にまつわるなにがしかを通じて、読者であるわれわれの精神とがここで出会いを遂げる。
 これは行分け詩型における改行と同様のものであり、また、余白でもあるが、あらかじめ視覚的には計量されない余白である。だから、文字通りの余白を視覚的に明示する必要がないのだ。・・・・・・・・






2017年7月20日木曜日

後藤和彦「野原」「未来」(詩集『明日の手紙』所収)

「野原」

レタスを食べ過ぎて
へそからスイカが生えてきたってのは聞いたことあるけど
紙飛行機を作りすぎて
家に帰る道を忘れてしまったなんて聞いたことない
友達になってほしいとは思うけど
カーテンレールでターザンするのはやめてください
ぼくはおこられたくないからね
氷の上をスケートしていく背中を見つめながら
これはもしかしたら恋かしらと思う
だってあのぼんぼりのついた帽子がとってもかわいいんですもの
そう考えてこれはいけないぞと思う
電話をかけてみたらそっちは夏のそうで
ぼくらの見てるものは
虹でもなんでもないそうだ
だったらいい匂いがいっぱいすればいいのに
自分の手がたんぽぽのわたげみたいになるように
はにかんだのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「未来」

地球は遠いから
海の中は青でいっぱい
絵の具の底から
声が沸いてる

未来の中にはみずたまりがあって
そこにちいさなひとひらのような
うすももの花
未来にしか咲かない
ひとつだけの花

今にもきっと声がおちてくる
水いろの炎が街をつつんで
夜になっても月は来なかった
遅れているらしい
だれかがいっても
みんな聞かない
忘れていたから

夜の空は水色だったか
あかねのようなあまさがあったか
しるせないようなきむづかしさもあったか
目を開いているとそのことが聞ける

だれも水たまりの中では 足を動かさない
未来に歩いていると声がふるえる

地球のはしに だれかのための
ちいさな橋が渡されている

まるいようなそうではないこの星の
そのさきまでを歩くには
湿った靴がないとぼくたちは歩けない

靴がほしいと
子どもが泣いてる

きのうに見あげられながら


(後藤和彦詩集『明日の手紙』所収、2016年、土曜美術社出版販売刊)





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(前略)
ここには現存在の夢語りが衰えてしまって久しい世界の、シビアな危機意識と、それでもなお続く人生、そして未来世代への信頼に満ちた落ち着きがある(中略)。
 彼が住処とするのは宮沢賢治のようでいて、グリム兄弟や倉橋由美子のような童話の世界であるのだろうが、いずれにもせよ「レタスを食べ過ぎて/へそからスイカが生えて」(詩「野原」)くるような事態が日常化した世界である。彼の現実感覚が繰り出す言葉は、消え去りゆく現在と、崩れゆく世界への楔でもあることを銘記しておこう。我々、誰しもが目の前にあると信じて疑わない世界と、彼が生きる童話の世界とが重なる時空にぽっかりと開いたのが、彼の詩群である。
 『マルメロ硯友会』『紫陽』『酒乱』などの詩誌で長年にわたってすぐれた活動を続けてきた彼の活動姿勢には、美学的判断の基準として無意識裡に詩人たちの理性を蝕む美学の体制を突き抜ける、潔さが一貫してある。多くの表現者たちが囚われている、権威化した諸価値の体系(オトナの体系)は、そもそも芸術一般が擁護する価値とは真逆を向いているのだから、共感が誘われる地点から我々の実存が問われることになる。
 「未来の中にはみずたまりがあって/そこにちいさなひとひらのような/うすももの花」(詩「未来」)、それが「未来にしか咲かない」ことを我々詩人は誰も疑わないだろう。だが、「だれも水たまりの中では 足を動かさない」のだ。それがなければ歩くことができないという「湿った靴」はどこにあるか?

(京谷裕彰「子どもとオトナ」より[『詩と思想』2017年4月号所収])




自動代替テキストはありません。

2016年11月30日水曜日

行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」(Space31/神戸市東灘区)

 《鱗の家・祝い・パスタ》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス

行さんといえば、ドンゴロスを支持体にパスタなどの食がモチーフになった空想的な油彩画を描く作家として知られているが、神戸にちなんだ新作シリーズはすべてアクリル画でかろやかなマチエールと祝祭的な雰囲気を醸している。
視覚を通じて味覚や嗅覚を幻のなかで知覚し、命を育むものである食物を象徴化して描くというスタイルは変らない。
地平線が描かれた従来のシリーズも会場に並べられており、その対照性も楽しめる。ちなみに、日本の絵画において地平線が描かれるようになったのは、1930年代にダリの絵画(図版)が紹介されたことや満州への進出が契機といわれているが、これは地平線の向こう側にユートピア的なものを夢想する心理があったからだという。
行さんの絵の中の地平線(あるいは水平線)もまた、夢想が赴く彼方にある、理想的ななにがしかを象徴するものとして無意識裡に採用されたのであろう。

さて、そもそもドンゴロスという麻布を支持体に使い始めたもは「どんごろす」という音の響きがとても面白かったからだそうで、その語感が気に入って使い始めたところ、生(き)のままの質感に魅入られていったとのこと。

その行さんの絵は、ドローイングの線から遷移したと思しきパスタがずっとモチーフであり続けているかと思うと、別の絵では蕎麦になったり、リボンになったり、よくわからない装飾的な模様になったり、ひとつの絵の中で展開したり、あるいは別の絵に跨がったりしながら、自在に変化する。
制作時期によって多少違いはあるものの、行さんの絵の中ではモチーフが語感から連想されたり、形象の類似性から連想されたりしながら、イメージは換喩的に転位してゆく。
事物の隣接性をほどいたり開いたりしてゆくこのようなあり方は、20世紀のシュルレアリストたちが用いたデペイズマンとは異なった特徴を持っているようだ。

それらはとりとめもなく心にうつりゆくものであり、(たいていは)ささやかなものたちだ。
だから、ぼんやりと眺めているととても心地がいい。

 《―そして神戸 パスタが空をなでる時》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス


 《酒・肴・松》2015,油彩/ドンゴロス

《縞馬・パスタ・虹》2011,油彩/ドンゴロス

◆行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」 Space31 2016.11.25~12.4


2016年11月14日月曜日

鍛治本武志 展「鏡の前で」(スペクトラムギャラリー/大阪市中央区)


鍛治本さんは、あらかじめつくっておいたデカルコマニーをパソコンに取り込み、(使う色の種類・数を制限する、デカルコマニーを眺めながら目となる位置が開示されるのを待つ、など)いくつかのルールを決めてオートマティック(自動記述的)な画面の構成を進めていく。

決めておいたルールの階梯を上った時、ぼんやりとしたものに従って感性が適切だと認知するものが降りてくるまでパソコン上での描画と推敲を続けるのだが、ここにはつねに試行錯誤が伴うため作業はパソコン上でなければなしえない。

一つの階梯を上って色や形象、象徴物の配置が定まったら、また次の階梯に上って降りてくるものを待つ。
このルールは、オフィスワークにおいて何か問題に直面すると改善策を講じるビジネスマンのエートスと逆向きでありながら、相似的ともいえる対照性をもっていることに瞠目させられる。
というのも、画像を構築していく過程で理性が介在しそうな問題に直面すると、理性で処理できないよう厳しいルールを課してゆくからだ。

そうしていくつものルールの階梯を経て、これ以上は進まない、というところまでたどり着いたところでパソコン上の作業を終える。
そして出来上がった画像を元に、ようやくキャンバスにアクリルで描画していく。しかし、このアクリル描画という作業はあくまでパソコン上で構築されたものの再現であるため、この段階でのオートマティスムは厳禁、というルールを課している。例えば色を置くときにはマスキングテープを利用する、濃淡が出ないようにする、など。
立体作品の場合でも、基本的には同じ論理で制作される(3Dプリンターで出力)。

以上のような制作のプロセスにおいては、逡巡、葛藤、精神的苦痛、といった状況が絶えず作家を襲うため、時間もかかるし、プロセス自体は遅い。

そこで想起されるのが、20世紀にアンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポー、ポール・エリュアールらが試みた詩のオートマティスム(自動記述)の実験である。
詩のオートマティスムによる実験は、記述速度を高速化するに従って一人称「私」が表出された文から減少してゆくことで、主観に基づき幻想を展開するスタイルを離れ、客観が人間に訪れる瞬間を捉えることができるようになる、そういうものだった。詩人から画家へと波及した、絵画におけるオートマティスムも、基本的には速度が鍵となるオートマティスムであった。
鍛治本さんの方法は二十世紀における実験や実践とは外見上もプロセスも異なるのであるが、紛れもないオートマティスムなのだ。

その特徴をひとつだけ挙げるとするならば、何をおいても〈遅さ〉であろう。
制作のプロセスのひとつひとつの階梯において、啓示的ともいえる、超越的なところから降りてくる色や形象の描き留めが行われているのだが、描き留めという行為は、イメージ(というよりも無限へと方向付けられた輪郭のようなもの)を安定させるためのものでしかない。それは、暗号のようなものであるのだろう。

これをひとまず〈遅いオートマティスム〉と名付けることにしたい。

速度へのあこがれと恐怖とがない交ぜになって駆動するグローバル資本主義が発動する強制とは真逆のエートスである。また、真っ向から対立するかにみえてどこか斜な構えでもある。

この〈遅いオートマティスム〉がジャンニ・ヴァッティモらイタリアの思想家たちの提唱する〈弱い思考〉を想起させることは、特筆に値するだろう。
〈弱い思考〉は、目の前にある強制された秩序からの解放を求める人びととの紐帯を生み出す可能性を、つねに開いてゆくのだから。

鍛治本さんは云う、
「私はイタコです」
「自分が間違うことはあっても、絵が間違うことはない」、と。
間違うことのない絵とは、未だ開示されざる、来たるべき絵のことであろう。

鍛治本さんには、速さへの誘惑にたやすく負けてしまう者にはけっして見えないなにかが、見えているに違いない。




◆鍛治本武志 展「鏡の前で」 spectrum gallery  2016.11.11~11.28

2016年10月12日水曜日

小松原智史 展 「コノマエノコマノエ」(the three Konohana/大阪市此花区)

意識にまとわりつく「意味」への縛めから、つねに「無意味」の場へとすり抜けるように描き続ける小松原さんの二年ぶりの個展は、いつも「意味」に固執する私のアタマの中に澱んでいる夾雑物をすっきりとリセットしてくれるような、すがすがしさがあった。
描かれている図像そのものは、目を凝らしてみるとなかなかにおどろおどろしいのだけれど。そのギャップがとても面白い。

ギャラリーを後にするやいなや、その意味を考える時間に戻ってしまわざるをえない私にとっては、たとえつかの間ではあっても、小松原さんが描く場所に共にいる時間はさわやかなものだ。

入り口を入って階段を昇ると開けるホワイトキューブで展開するのは、設営中の期間を含めると約2ヶ月にわたって変化し続けるワークインプログレス作品。点々と設えられたタブローの外側へと増殖するように、壁一面にそれは拡がる。使っているのは墨と付けペン。

 初日(9月2日)の様子。

 10月10日の様子。

奥の和室に設えられた作品。

この奥の和室の壁は何枚ものタブローによって隙間なく埋め尽くされているのだが、ここには私たちの感性をざわめかせる、まるで情念が淵のように滞留したアウラがある。

それに対し、白い静謐な空間に線が引かれ、図像が次々と現れるホワイトキューブでは、アウラは滞留していたものを濯いでくれる、せせらぎのように流れていることが感じられる。
これは描き出された図像という現象、その微細で深い世界から、自然と適度な心的距離がとれることによるのだろう。そこにどんな秘密があるのだろうか。

いずれの部屋にあっても、絵画におけるオートマティスムを、極めて高い純度で実践する作家の営みに立ち会うことができる。



◆小松原智史 展 「コノマエノコマノエ」(Konohana’s Eye #13) the three Konohana 2016.9.2-10.16

2016年7月27日水曜日

松元悠《カメ殺人事件》《壁》のリーディング


松元悠(まつもとはるか)さんの絵はいわゆる「絵解き」によって鑑賞が深まる絵であるが、イコンなどのように道徳的な教導を目的としたものとは違い、決まった答えがない。
答えがないから、各人が自由に解釈できる。
しかし好き勝手に解釈、とはいかない。タロットカードやオラクルカードのようなリーディングを促される。
なぜなら、図像は作家の意識的な経験から無意識裡に合成された象徴性の高いものなので、自ずと名指しえぬ領域へと意識が導かれていくだろうから。そして構図には世界観が反映されている。
名指しえぬ領域に鑑賞者の意識が導かれたとしても、美的な、あるいは倫理的な判断の結果は視る度に異なるかもしれない。リーディングは真逆になることもあるだろう。

ここではっきりしているのは、作家の生活における、私的であると同時に社会的な経験がモチーフになっているということ。
一見すると閉じられているようにみえるものでも、つねに外へと開いている。作家の問題意識も、作品も、ともに開かれによって特徴づけられる。

それでありながら、作家本人は制作の過程において象徴物の意味を明確に把握しないため、作家と、鑑賞者による読み解きという行為との間を作品が浮遊する。(悟性による構築という方法を採用していない)ゆえに、作家ですら気づいていなかった恐るべき現実が、鑑賞者との対話によって次々に開示されていくのだ。
見た目は「シュール」だが、一般的な幻想美術の系譜には収まらない(もちろんそこへも広がるが)。
作家の内的世界と、作家を超越してある世界とが同一平面上に描き込まれることで、現実を超えた現実が画面の中に凝縮されている。つまり〈強度の現実〉がそこにあるということだ。

松元さんの作る絵は、紛れもなく21世紀のシュルレアリスム絵画である。それを条件付けているものがあるとしたら、〈開かれ〉に他ならない。

以下、二つの作品について、リーディングを披瀝することにしよう。

《カメ殺人事件》 水彩画,2014(筆者蔵)

描画された支持体のサイズは縦55㎜×横90㎜とても小さいが、台紙の余白と唐草の額縁が意味への衝動をかき立て、見る度に私の無意識と反応し、本質を同じくしつつも異なる寓意が湧出、結像する不思議な絵画である。

おとなしく殻に籠もって生きているカメが、悪意あるなに者かによって凶器として使われたという寓意的な絵画。実際の殺人事件のニュースがモチーフになっているそうだが、イメージの展開はそこにはとどまらない。長いものに巻かれて殻を固くする生き方をしていると暴力的な秩序に利用され、いつの間にかその秩序に同化し、自らの存在が他者を圧する凶器になってしまう・・・自発的隷従批判・・・などなど。画面の構図左側にいる黒い装束の人物(カメをもっている)が暗示するものが、実はもっとも重要な図像であることがわかった瞬間、激しく鳥肌が立った。
水面下にあって人間をおいつめ、判断を誤らせる構造的なもの一般を象徴しているようだが、殻や甲羅は繊細で壊れやすいものを守るための鎧でもある。
だとすると、カメとは「ありうるかもしれない私」の姿であるともいえる。
反面、「ありうるかもしれない私」とはカメを凶器として使う側、でもありうることがこの作品の強度であろうか。

 《壁》 リトグラフを基調としたミクストメディア版画,2015

支持体のサイズは1000mm×765mm。

画面中央に佇む、流下する滝を衣のようにまとった女性が〈壁〉を象徴している。
その〈壁〉によって人々の心が分断されてある、この世界の様相を描いているのだろうか。滝には魚が流れ落ち、滝壺の回りの沼沢には腹を切り裂かれて死んだ魚が浮かぶ。
沼沢には岩に混じって大きな蟹の甲羅もある。

〈壁〉が分断する両側の人の群れは、異なる装束を纏いながらもみなそれぞれ〈壁〉を象徴する中央の女性と同じ顔をしているのだが、これらの〈顔〉はすべて作家自身の肖像なのだという。
そして蟹や魚などの魚介類は、作家にとっては幼少の頃から身近なものとしてあったそうで、象徴的な意味をもって様々な作品に登場する。それらは制作時点では意味が開示されることなく無意識裡に配されるようだ。

私は作品《壁》を以下のように読み解いた。

ここには複数に分裂してある〈現存在〉、あるいは〈ペルソナ〉が暗示されており、それらを分離している〈壁〉すらもが自らの肖像である。この画面上の事実からは、実存をめぐる様々な相が描き込まれていることを示唆しているように解される。

そして、〈壁〉とは現存在を潜在意識の内奥で統べる上位の存在、つまりスピリチュアリストがいうところの〈大いなる自己〉、もしくはヤスパースやレヴィナスやメルロ=ポンティがいうところの〈実存〉と読める。あるいはニーチェのいう〈エス〉、あるいは〈実存〉に対峙する〈超越者〉とも。

この絵を読み解くための思考のツールは思いつくだけでもレヴィナス、ヤスパース、ユング、フロイト・・・などが挙げられるが、どのようなツールを使うかは各人の自由な選択に完全に委ねられているとしても、深層にあるものは容易には開示されないままにあるだろう。
それでも、視覚的な衝迫力をもって像が脳裏に印象づけられるため、いつか不図したことで明かされるかもしれない、といった期待は持続する。
この写真画像を見る度に、あるいはいつか再会の機に恵まれたときに、印象は何度でも変奏され、明かしえぬものが訪れる解として明かされるかもしれない。

松元さんの作品は反復して鑑賞するにふさわしい絵であり、シュルレアリスム絵画が、内包された実存思想から〈美学〉と〈政治〉へ外延していく好例である。

または、外延から内包へ、逆のベクトルとしても。




2016年7月11日月曜日

加藤巧 展「ARRAY」(the three Konohana/大阪市此花区)



美学者的、かつ批評家的な眼によって制作された、非常に理論的な絵画だな・・・。

これが初見したときの感想であるが、構造的なものの表徴として絵画を定位しているのだとしたら、その論理はどのように構築されたのだろうか? 鑑賞する私は分析してみたくなった。

絵画をいったん素材のレベルにまで解体して再構築することを制作の基礎とする加藤さんは、顔料に卵黄を混ぜて絵の具をつくり、描画する。卵テンペラという古い技法である。
古い技法であるということは、描画における制約も大きい。絵の具の伸びがよくない、一度に定着できる量に限りがある、すぐに乾く、といったように。

今回展示された支持体のサイズは30×30、10×10、60×2(単位は㎝)の3種類を基調としつつ、別の規格のものも若干ある。

これら、石膏で地塗りされ卵テンペラで描画された絵を眺めていると、そこに何が描かれているのか?という疑問が、第一印象とともに私の意識をしばらくのあいだ引きつけるのだが、その関心は持続しつつも、結局明かされることはない(挫折というよりは宙づりといった感じだろうか)。

オートマティックなドローイングをタブローに起こしたものであろう、といった見込みだけは外れていないのではないか、そんな慰めのような感覚を頼りに、鑑賞はさらに深まる。
描かれた形象はとても素朴で、色遣いも多くは落ち着いている。
そのためなのかどうなのか、しばらく視線を画面に滞留させていると、作家の狙いは色や形象それ自体にはないということだけが、はっきりと了解できる(させられる)。

そうこう考えながらフロアをさまよっていると、これら3種類の規格のタブローが、ある規則なり法則なりをもって並んでいることに、あるとき気づくのだ。

その気づきを伝えると、ホワイトキューブの壁面の長さを総計した数値を各サイズのタブローの枚数(30×30は7枚、10×10は6枚)で均等に割った間隔で配置している、そう説明してくれた。
つまり、三種類の規格のタブローの配列は、それぞれが他に対して少しずつずれたかたちになる。

この配列の論理が、作品を公開するにあたって環境との関係から帰納されたというところがたいへん興味深いのだが、場所や作品の物語性など固有の文脈には依存しないスタイルでありながら、この論理はこのギャラリーでしか導かれ得なかったのではないか、そんな気もしないではない。
他ならぬthe three Konohanaで、といえばもう固有名詞であり、固有の文脈に否応もなく接続してしまうではないか。
果たして人間は固有の文脈から完全に離脱することができるのか? と問われるならば、できない、としか答えられないだろう。しかし、この程度の接続であれば直接制作のスタイルをゆるがすことはないばかりか、固有の文脈からしか絵画と出会えない〈私〉と絵画との通路が確保されている、そんな安心感をももたらしてくれる。
いやいや、文脈を支える固有の条件や制約がなければ展示など成り立たないではないか。そもそもこんなふうに仮定に基づいて仮定を重ねるのは、屁理屈のような遊戯ではないか、とも思ったり・・・。

それはさておき、展示する場所が変ればその空間の寸法によって間隔が伸びたり縮んだりはしても、導かれた論理それ自体はすでに確固としてそこにある。量的には可変でありながら、安定した論理として。

これを、加藤さんは方程式と呼ぶ。

この方程式に代入される個々の絵画を制作する加藤さんは、絵画制作のモチーフや目的や目標といった、創作への意志を前方へと引っ張るものに対し、その手前でつねに踏みとどまっているように見受けられる。

作家を包み、そして越えてありつづけるものの前で、踏みとどまる。

この姿勢からは、超越的なものは表象しない、あるいは超越的なものへの誘惑は断ち切る、そんな慎ましさすら窺えないだろうか。

素材や方法によって制約を課すことで出来上がった展示空間は、理性的であり、論理的もあるが、このスタイルには自己の視座をつねに安定させる意味合いもあるのだろう。
そして、鑑賞する私の無意識を乱暴につらぬくようなことはしない。鋭さがないという意味ではもちろんない。そういう意味では、安心して眺めることのできる優しい絵画である。

しかし制作する人間としての自己を、観察、分析する態度に、徹頭徹尾裏付けられているという点で、実のところ実存的なテーマへの通路はあらかじめ設けられているともいえよう。
鑑賞と思索を重ねることで、やっと私の無意識に、実存に反照するものが立ち現れる、そんなゆっくりとした時間の中でではあるが。
あるいは無意識裏に刻印された印象を、理性で読み解く過程の中で・・・。

だから、「なぜ描くのか」「何を描いているのか」といった問いは、作家においてはすべて現象学的に判断留保されている、そのようにいえるのではないか。

この判断留保(エポケー)によってはじめて「描く」という行為や、「描かれたもの」の根源を辿ることができる、そんな確信が窺える。

そうして、「何を描いているのか?」という問いに、
加藤さんは「描(えが)きを描(えが)いているのだ」、と応答する。

「描きを描く」・・・。

「描き」とは、制作する主体の立ち位置を表す言葉でもあるのだろう。

タブローの点数には依存せず、さらにはタブローの大きさにも影響されない、絵画におけるひとつの美学がここに提示されている。



◆加藤巧 展「ARRAY」 the three Konohana 2016.6.17-7.31

2016年7月8日金曜日

西川茂 展「under construction or destruction」(Gallery OUT of PLACE 奈良)

 《Sealed House 8》
《Sealed House 6》

西川さんの新しい油彩画のシリーズ《under construction or destruction》は、以前から知られる作風とは大きく変化した。
とてもシンプルに、「建築を覆うシート(養生幕)に興味をもった」のだという。

建設中なのか、解体中なのか、いずれかは判然としないが、いずれにもせよ幕の向こう側には建物の一部が垣間見えており、この幕がある種の境界として表象されていることは疑いがない。
また、幕で覆われた建物には奈良の著名な建物が含まれているのではないか、そんな直感が働くが、固有名詞との関係は示唆されない。あくまでも匿名である。

ステイトメントには、以下のように記されている。

「小さな魚の巨大な群れが水中を移動する時、実際には小さな魚の個別の意志の集合体であるはずが、流動する群れ自体が一つの意志を持っているかのように動いている。その絶えず変容していく様態はいつまで見ていても飽きることがない。」

これを読むと、足場の骨組みにcell状に張られた幕が風にはためく様子が、まるで小さな魚の群れのように見えてくる。

作家を想像へと誘い、創作意欲を喚起するものとしての、幕のある風景。

そうして、制作された画面の上で強力な存在感を放つ幕が、作家の精神と環境との"間"を象徴するものとして私たちの前に現前する。

そう考えると、高精細に写実された風景画の上に帯状に落とした絵の具でノイズを表した、以前のシリーズとの連続性を見いだすことも可能だ。筆致においても、新シリーズで描かれる幕と旧シリーズにおけるノイズとの間に近縁性が窺える。

《Kamizono》2012(新宿御苑がモチーフ)

ここでは、美しいスペクタクルな風景(それも人口に膾炙したモニュメンタルな名所)の中で、突如として降り注ぐ違和が描かれていたのだが、このノイズもまた作家の精神と環境とを隔てる結界のようなものとしてあった。

そしてそれらはとりもなおさず、鑑賞する私の精神と絵画の深淵とを隔てるものの象徴へと転位する。

違和の前景化、幕のシンボリズム、組まれた固い足場と柔らかい幕、そして結界・・・。


◆西川茂 展「under construction or destruction」 Gallery OUT of PLACE 奈良 2016.5.20〜6.19

2016年5月12日木曜日

山崎なな「アイデンティティの消失と」(In front of DADA/箕面市桜井市場)

過去にダダカン(糸井貫二)が一万円札五枚を燃やしたメールアートを制作したり、森村泰昌が《森村千円札》と称して紙幣に手を加えた作品を発表したことがあったが、捜査されたとか、逮捕されたとかいう話はとんと聞かない。
そりゃそうだ、硬貨を損壊するのは違法であっても、多くの人の手をわたるうちに自然に傷んでくる紙幣に手を加えたとて法には抵触しないのだから。

ただの紙とお金の境界を問う山崎さんの作品群は、法や制度や価値観の基準を越え、快不快を感じる私たちの心の閾にストレートに迫ってくる。

閉鎖的なギャラリー空間ではなく、子どもの画塾・アトリエDADAの真ん前、市場の通りに面した(壁のない)開放系の空間であるだけに、笑いや驚きを伴う出会いは、まさにハイデガーが芸術作品の本質であると規定した〈衝撃〉という概念にぴったりとあてはまる(『芸術作品の根源』)。

また、個展タイトルに「アイデンティティ」という言葉が入っているのはとても示唆的で、作品を目の当たりにした〈衝撃〉を機に、それぞれの内面に思索の火を点そうという意図があるのだろう。

というのも、私たちは誰かが流布さた「アイデンティティ」という言葉をよく分からないままに使っているだけなのに、まるでそれが何かの本質を表しているかのように錯覚しているものだ。実のところ、私たちには絶えざるアイデンティフィケーション(自己同一化という行為)があるにすぎない。

お金の有無、貧乏か金持ちかで「アイデンティティ」を強要するなど、社会に構造化された暴力への抗いが籠められているように思える。

そして紙幣もまた、「アイデンティティ」を失っているのだ。

《Fの肖像》


《いちおくえん》


◆In front of DADA 2016.5.7~5.14




2015年6月24日水曜日

岩名泰岳・宮永亮 二人展「Lamellar」 於、ギャラリーあしやシューレ

土俗性と詩性を兼ね備えたスタイルのドローイングやタブローで知られる画家、岩名泰岳さんの新作のモチーフはすべて作家が制作の拠点とする村にゆかりのものである。
 「観音山」
「観音山」とは、三重県島ヶ原村(現・伊賀市)にある正月堂という仏堂の裏山の名前であり、その名は正月堂の秘仏に由来するものと思われる。
この「観音山」と題する四つの連作タブローはどれも同じモチーフ、同じイメージを描いたものでありながら、絵画イメージそれ自体にはひとつひとつに微妙な違いがある。だが、決定的な違いは重量であるという。
塗り重ねられた絵の具の量の違いが、重量に差異をもたらすというわけである。
重ねられる絵の具の層は、時間の積層を意味しており、それは歴史における時間の多層性や、個々人の時間意識の多様性を示唆しているようで興味深い。
また、4枚のタブローに当てられるスポットライトは均等ではなく、画面に反射する光に偏りがあることも暗示的である。
使用された油絵の具の色は、赤、青、黄色、白の4色のみに制限されている。

キャンバスの地の上には詩のようなものが書かれているとのことだが、その上から幾層にも絵の具が塗り重ねられていくため、詩文はやがて絵の具に籠められてしまう。だから何が書かれているのかは、作家にしか分からない。だが、確かにそこにある(あった)のだ。ここには、声というものが発せられた瞬間に消えていく、はかないものであることが暗示されているようである。
分厚く塗り重ねられた絵の具の層は、織豊期に溯るという村の歴史の層をも意味するのであろうか。村で生まれ、生き、死んでいった人や動物や文化の連綿とした営みの厚みを思わせる。

ちなみに、檀家をもたない正月堂は住職が高齢で跡取りがいないため、このままでは存続が危ぶまれるとのことだ。

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宮永亮さんの作品は、複数の異なる映像を重ねることで構成される。撮影された映像は特定の地名に結びつけられているようだが、鑑賞にあたってそれが直接示されることはない。
「PEAK」
画面上部には大きな「PEAK」の文字、その下に水平線。さざ波は、ゆったりと流れる時間を表している。この尺の長い映像がしばらく続いた後、その上から先のものより少しだけ短い映像が重ねられ、また不意に変った映像はさらに尺が短くなり、次第に短くなる映像が順々に重ねられていく。後半になるとめまぐるしく変る風景に、前の映像の残像とが不思議な残響を引きずり、気がつくと鮮明だった「PEAK」の文字は判別不能なくらいに薄くなっている。上から重ねられてゆくことでだんだんと緊張感を増してゆく映像の連続を、もしもピラミッド型グラフで視覚化するならば、そのときはじめて「PEAK」の意味がおぼろげに浮かび上がってくるというもの。
水場にはときおり舟や人物が通過する姿も映されているが、映されたものの意味は解明されないままに、しかし、心にかする程度の印象だけが通過しながら、象徴的なものや喩的なものを連想するよすがとなる余韻を残してゆく。映像はエンドレスにループされるため、眺めていると余韻は反復を経て緩やかに強まり、観者の夢想との結びつきは豊かになってゆくことだろう。


展覧会タイトルの"Lamellar"とは水と油という、背反する性質の物質が層構造になった状態を指す言葉である。
二人の作家の作品に内在するなにかが層状に重ねられていくこと、また、重ねられてあるものの、別の二つのあり方が、互いに層をなすように響き合う。


◆ギャラリーあしやシューレ 2015.6.20~7.19

2015年6月21日日曜日

森村誠 展「Argleton -far from Konohana-」 於、the three konohana (大阪・此花)



展覧会タイトルの"Argleton"とは、2008年にGoogleマップ上で発見された実在しないイギリスの町の名である。架空の町でありながら、マップ上に出現後不特定多数の人々が店舗情報などを書き加えていったことによってその現実感が増していったという。

今回の森村さんの新作シリーズは、用途も目的も異なる様々な印刷物に掲載された地図を切り取って、そこから文字情報を修正液で消去した断片を、あるいは文字情報を残したままの断片を、針と糸で縫い合わせていったものによって構成されている。
用いられた地図はすべて関西圏のものであるが、当然のことながら縮尺はばらばらである。ただ、それぞれの断片同士は必ず線路や道路によって接続されるという法則が徹底されているため、連続した地図断片の集積がひとつの世界観を表していると見ることができる。あるいは個々の世界観を投影する大きな地図であるとも。

考えてみれば、私たちの脳内地図というのは、実に個性的で、それは主観によって編集され続けるものであるほかない。町で生活すること、移動することといった、経験と地図イメージとの複合によって、地理感というものが形成されていくからだ。だから、もしも他人の脳内地図を覗き見ることができるとしたら、それが誰のものであれ奇妙奇天烈なものであるに違いない。

そうすると、地図に嵌められた刺繍枠は、人間の意識や主観、あるいは脳を象徴していると読み取ることもできる。

それは、子どもの頃に住んでいた町の道路が、突然、今住んでいる町に繋がっていたりする、夢の中の地理をも彷彿とさせる。

用いられた地図がすべて大阪を中心とした関西圏のものであるという事実に着目すると、ギャラリーが立地する大阪で、ひいては関西圏で現実に進行しているジェントリフィケーションの深刻な問題とも、接点が生まれることになる。実際に、ジェントリフィケーションの象徴ともいえるタワーマンションの広告に掲載された地図が作品に使われているかもしれない。

また、修正液が落とされた地図は電子基板を想起させるが、電子基板とは回路であり、その形態はしばしば都市にも比せられる訳だから、こういった連想はつねに強度の現実を眼前に招来させるステップになる。それは、主観的な造形物がもたらす客観の強度といってもいい。

架空の町でありながら現実味を帯びてしまった"Argleton"の名を冠した展覧会で、森村作品が提示する架空の地図は、鑑賞者との間で意味の創出を喚起するものになるだろう。

不確かな情報が溢れる現代を生きる私たちは、いつも地図を欲している。


◆Konohana’s Eye #8 森村 誠 「Argleton -far from Konohana-」 the three konohana  2015.6.5~7.20


2015年6月10日水曜日

岩田萌 個展「strata」 於、SUNABA GALLERY(大阪・日本橋)


黒電話、壁掛け時計、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』、ピアノの鍵盤、ダイヤル式の錠前、羽根付のボルト、それぞれが別個に、あるリズムをもって動くオブジェの映像を組み合わせたインスタレーションである。

オブジェの動作に音声がともなっているからだろうか、一見したところそれぞれの映像同士の間には規則性があるように見受けられ、そのような期待のもとに見入ってしまうのだが、実のところないことがわかってくる。
ないのだけれども、ひとつひとつは規則的な動きをもって反復しているので、無秩序的でありながらも、明らかに調和性をもった秩序が立ち現れる。ないのにある、なにかが。

すると、たとえば鍵盤と『はてしない物語』とが、あるいは時計の針と黒電話のダイヤルとが、相似形をなしていることにも意識は赴いてゆく。

"strata(ストラータ)"とは、stratum(層、地層)の複数形で具体的なモノとしての層、抽象的な意味での層、双方の意味をもつ、とのことだ。

◆SUNABA GALLERY 2015.6.6-6.17






2015年5月23日土曜日

抽象絵画の根源性 ~渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」からの覚え書き (於、2kw gallery/大阪)

色彩同士の、さらには画面と言葉との距離による発光現象を捉える渋谷信之さん。

始点と終点とが繋がった一筆書きのような線の重なりによって、円環する存在を力動的に描く中井浩史さん。

補色関係にある二つの色と刷毛のストローク、内在的に制限された方法のみをもって光を表象する中島一平さん。



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戦争の世界化によって人間の存在条件が問われた第一次大戦が、アブストラクト(抽象)、シュルレアリスム、マルセル・デュシャンという現代美術の原基を胚胎させ、二度目の世界戦争を経て現在に続く展開がある。もちろん、美術に限らず現代ナントカの多くが戦間期に基礎を築くのであるが、緩慢な戦争前夜になるかもしれない今、その一角である抽象の強みはどこにあるのか?

私はこの抽象絵画三人展の初日トークイベントで司会を務める機会をいただいたのだが、以下はその経験を通じて考えたことのメモである。
(メモなのでまとまりのなさはご容赦いただきたい)


意味と無意味

抽象絵画にとって、無意味であることの強みとは何か?

たとえば、意味性が消去された抽象絵画があるとする。
それが即自的には(作品それ自体としては)無意味であったとしても、作品が観者へと差し向けられ受け渡される過程にあって、観者にとって作品は何かしらの意味を生成せしめる触媒にはなりうる。その場合、意味はつねに副次的、あるいは漸次的に生成されるだろう。
その一方で、作家にとって意味が開示されるのは作品を介した他者との交わりにおいてであったり、作品に面しての深い内省であったり、年月を経て自身の仕事を振り返る時であったり、あるいは開示されることはないかもしれない。
しかし、一般に特定の固有名詞とは関連づけられない抽象絵画は、何事も意味を見いださねば落ち着かない理性の桎梏から、人間を解放してくれる窓にもなりうるのは確かである。

それでも厳密にいうならば、何かしらの意味は〈ある〉はずだ、という希望的観測への誘惑は禁じ得ない。もしも〈ある〉としたら、それは観者にとって未だ開示されないものとしてあるような、そんなあり方であろうか。
もちろん、抽象絵画にはいくつものスタイルがあるのは承知しているが、このことは作品に添える言葉(タイトル)の有無には拘わらないのではないか。

この〈意味〉と〈無意味〉の関係は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉の関係とも相似形をなしているように思う。

では、作品が特定の名詞と結びつくことで初めて鑑賞が成立するケースだとどのようなあり方であるのか?
その名詞とは、作家が作品に付けるタイトルの場合もあれば、観者固有の記憶と結びつく場合もあるだろう。
いずれの場合においても、〈意味〉は観者にとって内的なものとしてしかありえないのではないか。だがそこに、鑑賞という行為がもたらす夢想のゆたかさがある。


時間の存在論

絵画に限らず、抽象芸術とは、個人的、個別的なものを超える普遍性への導きとなると同時に、個人的、個別的なものへと環流する径を鑑賞者に提示するメディウムとなる。
それは時にあえかで、時に複雑さや単純さの奥に隠れたものであるゆえに、見ることを通じて径が開明されるには、ある契機と時間とを必要とする。その契機とは、ハイデガーが『芸術作品の根源』でいう〈衝撃〉という概念で説明することに差し支えはないだろう(『芸術作品の根源』関口浩訳,2008,平凡社ライブラリー)。〈衝撃〉とはすなわち、作品が観者の視覚に、ひいては感性的なものに衝迫する力のことである。
そして〈衝撃〉の後には感性的なものになじむための時間を経ることが不可欠なのであるが、その時間を経ることで観者にとっての生きられた時間としてのカイロスが開かれる。計量可能な時間としてのクロノスを経ることで開かれるカイロス、これが〈衝撃〉とともに必要となる内的な時間である。それは可変的なものである。
つまり、抽象芸術とは空間に置かれるものでありながら、時間の秩序を束の間変成する装置となるのだ。
とりわけ絵画の場合、鑑賞は作品と対峙する形をとる。
そこでは、作品の色彩や形象、あるいは大きさを前に、まずは視覚を通じて何かが始まり、やがて時間の整序が変調するころに、心身の様々な感覚が作品との間で受容と排除の機制を発動させる体験となる。
この〈見ること〉への意志を通じて開示されるものを、軽視してはならない。
そして、夢想とはつねに目を通して作用するということも。

以上のように抽象芸術の強みとして述べた事柄は、実のところ程度や様相の違いを問わなければ広く芸術一般にも適用できる。
ここから、ハーバート・リードの〈すべての芸術は本来抽象的である〉という命題が導かれるのだが(『芸術の意味』瀧口修造訳,1966,みすず書房,29頁)、リードの意図は次の言葉に言い表されている。
「抽象の能力を低く評価しないようにしよう。なぜなら抽象能力は、美術のみならず、論理の、科学の、あらゆる科学的方法の基礎であったからだ。homo fabor(ものをつくる人間)とhomo sapiens(ものを知る人間)との間に区別がつけられうるならば、その区別は、この抽象の能力に存する。」(『イコンとイデア』宇佐見英治訳,1957,みすず書房,34頁)


現代美術の表現方法の多様化や、デジタル・メディアが社会を席巻し始めた90年代半ば~ゼロ年代頃には絵画の不利が指摘されたようだが、一通り社会に浸透し、情報の過剰と感性の高速化が強要される現在にあっては、〈見ること〉をめぐる状況は切実さを増している。不利な状況が一変したわけではないが、絵画であることの強みが〈見ること〉に関わっている以上、そのアクチュアリティはむしろ強くなっていると言っていい。

抽象絵画を鑑賞することは、様々なメディアによる下意識や無意識へのすり込みで害されてしまった認知や情動の回路を組み替える、"はじまりの場所"にいつでも戻れるきっかけになるはずだからだ。

過剰さに、豊穣さが飲み込まれないために。



◆渋谷信之・中井浩史・中島一平 絵画展「はじまりの応答」 2kw gallery 2015.5.18~5.30
 

2015年5月5日火曜日

ART SPACE ZERO-ONE企画展#5 「かつらをかぶった雀蜂」 (大阪・豊崎)

自らの身体組織の一部を素材にアクセサリーを製作するKatie Funnellさん、

バイオモルフィックな形象をオートマティックに構想しながら驚異的な精度で細密に描画するマリアーネさん、

他者との交わりのなかで生じた廃物を美しい花輪に仕上げる池内美絵さん、

人形の衣服をひたすら切り刻む様子を映像に収めた春名ゆまさん(下掲の写真)、

四者四様に力を秘めた作品ばかりである。

人間存在の、えも言われぬ恐ろしさを否応なしに突きつけられる思いがした。

その反面、作品とまみえる立ち位置が異なれば、痛快きわまりないと感じる人も少なくないだろう。



◆ART SPACE ZERO-ONE (大阪市北区豊崎) 2015.5.3-5.24