2011年3月4日金曜日

福永宙展「גולם‎ -golem-(ゴーレム)」 於、ギャラリーwks.

ゴーレムとは東欧ユダヤ人の間に伝わる伝説で、粘土など無機物によってつくられた人形に、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が神の名を唱えることによって命が吹き込まれたもの。それは作った者の命令だけを忠実に実行する召し使いのような存在ですが、取り扱いには厳しい制約が数多くあり、それを守らないと手が着けられなくなるという、危険な偶像信仰でもありました。ギリシャ神話や旧約聖書、その他ヨーロッパの伝説には金属や石で作られたゴーレムもあり、それらに倣って幻想文学やゲーム(ドラクエなど)などにも数多く登場します。

今、大阪・西天満のギャラリーwks.で開催されている福永宙(ふくなが おき)さんの個展では、象徴的、隠喩的に様々な意味を重ねられた鉄のゴーレムたちが、静かに佇んでいました。
どのゴーレムもレンガブロック状の塊を積み重ねた原型から作った鋳型に鉄を流し込んだ鋳鉄の技法によるもので、眺めているとその独特の質感からは様々な詩情が喚起されます。ブロックの一粒一粒が人間の手による仕事、あるいは人類の歴史とともに変遷してきた技術の蓄積を象徴しているかのようです。


入り口を入って最初に出くわすのは、福永さんが最初に制作したgolem #1 (2009年)。えもいわれぬ悲哀を感じました。

golem #1の右肩部分。表面にはワックスを塗っているそうですが、この作品は制作から二年を経ることで微妙な錆びが浮き出ており、まるでテクノロジーの廃墟にうち捨てられた建造物を思わせます。



頭があるのかないのかわからない(多分ないか、あっても極めて小さい)、手は長いが指はなく、人間とは似て非なる形姿。自信に満ちた存在感と、愚鈍で不器用な印象とが併存しています。表情はありませんが、しかし無表情とも言い切れません。

動物とも怪獣ともつかない四つ足のものが1体。愛玩用ロボットを連想しました。



福永さんのゴーレムは、人間が生活を豊かにする目的で創造され、その時その時代、確かに大きな意味を持っていたはずのものでありながら、いずれ朽ち果て忘れ去られる技術や道具の象徴のように思えました。それは現代のフェティッシュ(呪物)ともいうべきスマートフォンかもしれず、あるいはハイブリッド自動車かもしれず、あるいは薄型テレビかもしれません。
その一方で、破壊や脅迫を目的とする方向に技術が応用された、拳銃などの武器、あるいは戦闘機や核兵器、そして疲弊した地球と人類を救うかのような欺瞞によって稼働している原発など、手に負えない危険な技術の象徴であるようにも思えます。

人類が鉄を手にしたことで農業生産が飛躍的に拡大し、その結果人口も増加して文明の礎が築かれたわけですが、その反面、武器の高性能化など負の側面も増大しました。そのように新しい技術の発明は、歴史上、常に新しい災いをも発明するというパラドックスを原罪のようにまとわりつかせてきました(ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』を想起)。

ですが今回出会った福永さんのゴーレムたちは決して声高に技術信仰への警鐘を発するようには見えず、むしろ静かに何かを語っているようで、その姿、その佇まいは人がモノを作ることで積み上げられてきた文明、それを支えてきた無名の人々への敬意をも感じさせるものでした。

「ゴーレム」というテーマは僕らが今立っている10年代のとば口にふさわしい、非常にタイムリーなものなので、可能な方はぜひ足をお運びください。

ゴーレムをみて本当にいろいろと思いめぐらせることがありました。
つい最近、パーシー・ビッシュ・シェリーの妻、メアリー・シェリーが1818年に発表した小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』の新訳が出たので、それを読みながらまたいろいろと考えてみたいと思います。





※この展覧会は3/12(土)まで。

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