2013年1月22日火曜日

 芸術における現実性の強度 ~展覧会「溶ける魚 つづきの現実」に

超現実主義とも訳されるシュルレアリスムsurréalismeとは、第一次世界大戦後1920年代~30年代にかけてヨーロッパで起こり世界中に広がっていった20世紀最大の芸術運動であり、その思想であることは周知の事実である。詩人アンドレ・ブルトンの呼び掛けに同世代の詩人や造形芸術家たちが呼応することでそれは成し遂げられた。
シュルレアリスムの代表的な方法に〈オートマティスム(自動記述)〉があるが、それは方法の発明ではなく、創造というのは程度の違いはあれオートマティックになされるものである、ということの発見であった。
口述にしろ、文章を書くにしろ、デッサンを描くにしろ、予め用意することなしに自動的に手や口が動くものから計画的にことを進めるものまで、その度合いの違いには境界線などはなく、ただグラデーションがあるだけである。
夢や狂気を擁護したブルトンらはオートマティスム(自動記述)を、ジクムント・フロイトが精神分析において開示した〈無意識〉の領域にアプローチする手段として実験したのであった。

ところで〈無意識〉とは端的に言うと〈実存の闇〉のことにほかならず、それ以外のなにものでもない。フロイトの精神分析が、同時代において批判したカール・ヤスパースや68年以降頭角を現したドゥルーズ=ガタリによって乗り越えられたとて、フロイトの言う〈無意識〉という概念が無効になったわけではない。単にそれを把捉する仕方がより深化し、通路が多様化しただけのことである。ここでは、〈実存〉が課題として浮上するということを心に留めておこう。〈実存〉とは、ヤスパースやメルロ=ポンティ、あるいはレヴィナスがいうニュアンスでの〈実存〉、つまり人間の無意識の内奥にある訳の分からないものでありながら、状況の中で(ときに愚かさを伴ったりもする)自己の思考や行動を司っているものを、〈向き合う〉という主体的な位相において捉える概念である、と理解していただきたい。

さて、ブルトンらが実験的に示したオートマティスム(自動記述)やエルンストがコラージュによって示した異質なイメージ同士を組み合わせるデペイズマンなどの〈方法〉は、マルセル・デュシャンが示した〈あり方〉と同様、現代美術の原基としてそれ以後今に至るまで否定のしようもなく展開しており、これからも展開していくはずである。さらには運動としての起源や展開を異にするアブストラクト(抽象)もまた、方法においてシュルレアリスムと共通する要素を少なからずもっている。

つまり、〈現代美術〉と括られるジャンルの芸術は、程度の大小や自覚の有無、思想の深浅があるとはいえ、大半のものが何かしらの意味でシュルレアリスム的であると言っても、過言ではない。

ブルトン自身はロシアの革命家トロツキーと交流したり、つねに政治情勢と対峙したステイトメントを発表するなど「政治的」であったことは有名であるが、運動に参加した者たちの多くも、第二次大戦のナチ占領下でレジスタンスを展開するなどそれぞれに「政治的」であった。それは彼らが政治と美学の不可分性を深く自覚していたからである。シュルレアリスムを〈運動〉と位置付けたことからも、それは窺える。
そこで考えねばならないのは、表現者が作品を他者へと差し向けるという行為は他者の感性を巻き込むことで遂行される、ということである。作品が他者へと差し向けられるとき、受け手は共感であったり反感であったり無視であったりと、何らかの感性的な反応を否応なしに引き起こす。その時、さまざまな美学を条件付けている秩序や規準に何かが触れるのだ。通常、美学の秩序や規準が揺さぶられたり、亀裂が入ったりすることに期待して私は作品を探し求め、そして向かい合うのであるが、そのような作品と出会ったときに揺さぶられるものは何も美術アカデミズムやジャーナリズムを条件付けている権威的な秩序に限らない。〈いい〉〈わるい〉〈美しい〉〈醜い〉〈面白い〉〈面白くない〉といった、我々が作品に知覚を晒す際に下す美的・趣味的判断の規準をも揺さぶるのである。揺さぶりの力には、ラディカルなものから揺さぶりというには大げさなほど予定調和的なものまで、力のグラデーションがあるにすぎない。
ジャック・ランシエールはこのように芸術作品であれ、言論による主張であれ、人が何かを表現し、他者に差し向ける際、受け手の感性が巻き込まれる中で生じるものを〈政治〉と呼び、その構造を解き明かしたわけである(『不和、あるいは了解なき了解』『感性的なもののパルタージュ』)。具体的には、ある作品やある発言を「それは政治的だ」と言って非難する者がいたとして、そのような非難すらもが政治的であることからは決して免れえない、という事実を思索の糸口にしていただければ分かりやすいだろうか。
芸術の場合、作品が及ぼすイメージが剥き出しであるか直示的であるか変成的であるかの違いや、テーマが世俗的な意味で「政治的」であるか否かを問わず、表現者の自覚の有無は作品(作者の真実の結晶)の現実への波及力、作品のもつ現実性に関わってくる。その力とは、換言すると、物事にはつねに別の見方があることを、見る者に提示する力のことである。その力が漲る作品に出会うと、我々の感性は強く肯定的な揺さぶりを感じる。そこには、いわゆるファインアートであるか、繊細な心を保護する壁を重視するフェティッシュアートであるかの別はない。したがって、美学の規準を揺さぶる力の有無は〈芸術作品の現実性〉と関わっている、とひとまずは言っていいと思っている。
つまるところ、表現者が政治と美学との不可分性を自覚しうるか否かは、各自の実存への志向性に関わっているといって差し支えないのではないか。
また芸術作品の現実性について考える上で、ハイデガーが『芸術作品の根源』において展開した議論も参照すべきであろう。ハイデガーは、心や感性に瞬間的にでも擦過を残すもののことを〈衝撃〉と呼び、芸術作品は〈衝撃〉として作用してのみ現実性を持つ、と主張した。存在が唯一無二の仕方で開示されるという非日常的な出来事として自らを表現するような作品こそが現実的であり、その唯一無二の事実性を明確に開示し、それによって存在するものそのものに対する不気味で途方もないパースペクティブを開くような作品のみが現実性という概念に期待される、と。ハイデガーの論考は取り扱いに注意が必要であるし、「現実」という言葉を使用するときに生じる位相の違いにはその都度注意が必要ではあるが、先のランシエールの議論とも重なりをもっている。

前置きが非常に長くなってしまったが、シュルレアリスムとは、本来、〈強度の現実-シュルレエルsurréel〉を志向する思想を意味するものであり、現代美術においてシュルレアリスムを意識するということは、この現実性の強度を高めるということをおいてほかにない。〈強度の現実〉とは、現実を超えた領域へと想念や思考を飛翔させることによって逆説的に得られる現実感覚のことである。
以上のことを念頭において、グループ展「溶ける魚 つづきの現実」を鑑賞するとどうであったか。

展覧会タイトルにある「溶ける魚」とはブルトンがオートマティスムによって制作した散文詩のタイトルであるが、今回の作家主導の企画は衣川泰典さんと高木智広さんの二人が、第一次世界大戦後の荒廃した時代背景とシュルレアリスム運動の勃興という関係性をアクチュアルに捉え直し、現在の日本の社会状況の中で芸術活動を営むことの現実性と向き合う中で生まれたものである。
主催者は普段シュルレアリスムを意識して制作してはいない作家たちを敢えて選び、作家たちにシュルレアリスムと向き合う機会を提供した。そうして作家たちは、作品制作とともにシュルレアリスムについての文章をも作成することになった。主催者の二人もまた、これまでシュルレアリスムを特別意識していた訳ではないという。

会場で配布される、主催者二人による展覧会趣旨文(ステイトメント)にはこう書いてある、
現実から遊離・逃避した空想や幻想でもなく、かといって現実そのものの是認や肯定、複製でもありません
展覧会タイトルの「つづきの現実」という言葉には、作品が立つべき位置の理想を託しました。作家自らが精神の内奥を見つめ、そこから汲み上げた何かに形を与えた表現として、作品を通じて「つづきの現実」を提示することが本展の大きな狙いです。
引用した一文目で言われる「現実」とは、〈現前性の形而上学〉としてのもっとも素朴なニュアンスでの「現実」であるが、あくまで立脚点は〈現実〉である。そして引用した二文目の「つづきの現実」にまつわるくだりを読めば、「つづきの現実」なるものが〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムを指していることは明かだろう。さらに注目すべきは、作家各自の〈実存への志向〉が謳われている点である。

このステイトメントに参加作家がどう呼応したかが見所なのだが、ひとつひとつの作品を見て、また一人ひとりが書いた文章をじっくりと読むことで分かるのは、どの作家も、シュルレアリスムを意識する機会を得たことで、自らの表現の内側に脈々と流れ込んでいるシュルレアリスム性に多かれ少なかれ気づき、否応なく向き合う羽目になったことである。この否応なさは、作品を鑑賞する上での鍵になるかもしれない。

とはいえ、主催者二人の、また参加作家個々の文章を読まなければ、優れた現代美術家たちが集うグループ展としては楽しめても(それでも充分に素敵なこと!)、なぜ今シュルレアリスムなのか?何が展覧会の狙いなのかを明確に理解することは難しいだろう(それはシュルレアリスムが現代美術の原基であることの裏返しである)。そうなると、ある人にとっては特定の作家の作品を個別に鑑賞する機会にしかならないだろうし、無理解や誤解から生まれる的外れな批判や不当な非難が噴出することもあろうが、これは主催者の責任ではない。またシュルレアリスムの主題を読みとれないからといって、観客を問題視しているわけでもない。シュルレアリスムが理解できなくとも現代美術を楽しめるよう、主催者が敢えてそのようにコンセプトをゆるく設定しているからである。

実のところこの展覧会は、観客の、作品を見る目が問われているのではないか。どのような視点で、いかなる枠組みを通して作品を見るのか、その視点の刷新が賭けられているようにも思える。
見る側がこのことに気付くならば、かつてのシュルレアリスム運動と21世紀10年代の現代美術との距離を測る恰好の機会になるはずである。さらにいうと、この展覧会を見た人の反応さえもが、距離を測る素材になりうるということだ。
ここから見えてくるものは、私たちに多くの課題を投げかけてくれることに違いない。

そして作家たちがこの展覧会を経験することで、今後、作品や制作行為そのものが現実性を増すこと、その強度を高めてゆくことに期待感が膨らむ。現代美術家が〈強度の現実surréel〉としてのシュルレアリスムに気付くことで得られる力には、計り知れないものがあるからだ。
作家個々人の中に、かつてのシュルレアリスム運動に内在していたものと同質か、あるいはそれ以上のラディカリズムを自らの内面に呼び覚ますよすがが生まれれば、それは大いなる成果だといえるだろう。

現実への対峙と実存への志向性、それを21世紀10年代の今、作家主導のグループ展企画で宣言したこと、これこそが「溶ける魚 つづきの現実」の意義として強調すべきことだと私は思っている。
それに応答していくのは、ここに立ち会った一人一人である。作家たちは自らを安全な圏域において語ることをしていない以上、この誠実な態度に面しては、受け手の側も語りのポジションを安全な圏域に置かないことが応答の倫理として要請されるのだから。
これが新たな芸術運動への触媒となるか、あだ花となるかは、私たちにかかっている。


荒木由香里さんの立体作品「Blue」(フロア)、「White」(奥右)、「Red」(奥左)。奥の壁に掛かるのは衣川泰典さんの連作「記憶のかけら」。
衣川泰典さん「スクラップブックのような絵画#7 (無人の風景Ⅱ)」
髑髏に船虫がたかる満田晴穂さん「晩餐」(手前)と、松山賢さんの連作「絵の具の絵」(奥)。
高木智広さん「落鳥の森」。
花岡伸宏さんの作品群。
藤井健仁さんの作品群。
(以上、ギャラリー・フロールでの展示風景)
木村了子さんと安喜万佐子さんによるコラボレーション「君がいた海景」。
麥生田兵吾さんの作品群。
(ギャラリーPARCでの展示風景)

「溶ける魚 つづきの現実」 京都精華大学GALLERY FLEUR/ギャラリーPARC 1/10~1/26

出展作家:荒木由香里、衣川泰典、木村了子+安喜万佐子、高木智広、中屋敷智生、花岡伸宏、林勇気、藤井健仁、松山賢、満田晴穂、麥生田兵吾

「溶ける魚 つづきの現実」実行委員会(代表 衣川泰典・高木智広)

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【補足】

●サブ会場のギャラリーPARCでの展示は面積にも制約のある街のギャラリーだったため、企画の趣旨が伝わりにくかったのは否めないが、メイン会場である京都精華大ギャラリーフロールではゆったりと作品を鑑賞するための配慮が行き届いている。いくつかに分かれた展示室内では、一室を除けばすべて複数の作家が一つの部屋に同居する形をとっていたが、作品同士の組み合わせは異質な作品同士が連想や連携といった形でイメージを受け渡し合うことができるよう丁寧に配置されている。比較的スタンダードな展示手法なので、そこでは「ミシンと蝙蝠傘が手術台の上で偶然出会う」ような火花はほとんどないが、各作家がいかにシュルレアリスムと向き合ったか、各作品それぞれにいかなるシュルレアリスム性が流れているかを読みとる上では却って好都合だったように思う。

●当展覧会のテーマがシュルレアリスムであることを「古い」とする非難が当たらないことは、ここまで読んでくださった方にはもうお分かりであろう。
ブルトンのアジテーションである『シュルレアリスム宣言』の字面や〈自動記述〉〈無意識〉といった言葉の表層にへばりついた評価や、硬直した美術史的、思想史的位置付けに呪縛された評価をいまだに目にするのは、クレメント・グリーンバーグらの歴史主義的批評理論の影響もあるのだろうが、そのような知を前提にしてのシュルレアリスム批判やシュルレアリスムの美術史的パッケージングは不毛としかいいようがない。シュルレアリスム運動が、フロイトの思想だけではなく、マルクス主義の思想や、同時代に勃興した現象学や実存哲学とも普遍的な問題系を重ね合いながら進展したことを忘れてはならない。

●シュルレアリスムを過去の運動としてパッケージングする見方に対し、近年、仏文学者らが根本的な異議を唱え、その研究成果は続々と刊行されているにもかかわらず、今ひとつ実作者たちの反応は鈍かった。しかし作家の責任であるよりは、表現ジャンルの違いによる棲み分けを自明視する美術アカデミズムやジャーナリズム、マーケットのエートスという問題が大きいのではないかと思っている。


【思索のための参考に】
●アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(巌谷國士訳,1992年,岩波文庫)
●『ブルトン詩集』(稲田三吉・笹本孝訳,1994年,思潮社)・・・ブルトンの主要な詩と散文を集成。
●巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(2002年,ちくま学芸文庫)
●鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(2007年,水声社)
●ジャック・ランシエール『不和、あるいは了解なき了解』(松葉祥一訳,2005年,インスクリプト)、『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳,2009年,法政大学出版局)、『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)
●マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』(関口浩訳,2008年,平凡社ライブラリー)
●ロドルフ・ガシェ「作品・現実性・形態 ~ハイデッガー『芸術作品の根源』に関する覚書」(『いまだない世界を求めて』所収,吉国浩哉訳,2012年,月曜社)

2013年1月7日月曜日

年頭のご挨拶 


糸玉に擬せる蛇玉
睦みつつ
薬玉を編む
髑髏なる猫


2013 癸巳


2012年12月31日月曜日

越野潤"perspective" 






[perspective]
遠近法、透視図法、見取図、眺め、遠景、見通し、遠近感、相対関係、ものの見方、展望・・・

次第に五感が研ぎ澄まされ、それにつれて夢想が訪れる。
窓外の騒音さえもが、なにか自然の音であるかのような風景がまぶたに広がる。

そして数日を経て振り返ってみると、夢想は思索への入り口であったことに気付く。

私の見ているもの、見ている風景、見ている世界、その地平の向こう側へとつねに乗り越えようとする意思があることによって私は生きていることを実感する。その地平の向こう側から私を引っ張ってくれるものにしたがって、向こう側を臨むこと。展望perspectiveとはそういうことではないか。
〈私〉を〈私たち〉と置き換えることで、共にあることをも展望できるはずである。

ART SPACE ZERO-ONE  11/17~会期延長中



2012年12月28日金曜日

鎮座する機械、拡散するミーム、回帰するイメージ ~金理有のオブジェ 

オルタナティブスペース・Factory Kyotoの奥の院に、ほんの束の間現れた祭壇。
現代陶芸家・金理有(きむりゆ)さんのオブジェを特徴付ける幾何学的文様は、ミーム(meme)を象徴的に視覚化したものであろうか。
作品は欲望する〈機械〉であり、闘争する〈機械〉であり、抑圧や封鎖を制度化する動きに対し、つねに新たな空間を拓いていく力の源として、また異次元に引き裂かれた世界の断片を溶け合わせる溶剤のようなものとして存在するようだ。

強烈に放射されるアウラは〈衝撃〉をもって鑑賞者の知覚に到達し、イメージは脳裏に深く刻印される。そして即座に強い引力によって意識が動員される。にもかかわらず、主体を犯すことはない。それどころか、〈衝撃〉の反作用として主体の力を引き出し、内側から何かを漲らせる。
また、〈衝撃〉は鑑賞者と作者とを差別しない。なぜなら、射貫かれるのは鑑賞者の実存だけでなく、作者である金さんの実存でもあるからだ。そして、凶暴な外見に具現化された〈強さ〉はそのまま〈弱さ〉の逆説としてもあり、〈弱さ〉と〈強さ〉はいつでも自在に入れ替わりうる。

金さんがあやつるイメージの詩学は、穏やかなアウラで引力と斥力の間にイメージを定位させる作風の作家とは一見異質のように見えるが、インタラクティビティ(双方向性)という点では本質において何も異なるものはない。

そんな金さんは、材料の陶土や釉薬のブレンドなどを秘匿せず、オープンソースを信条としている。

奥の院に足を踏み入れた筆者は、こんな荒療治ともいえるやり方によってしか癒されないものとは何か?を考えることを、今後の課題として与えられたような気がする。
あまた氾濫する生やさしい「癒し」ではない。


※ミームとは文化を形づくる様々な情報であり、人々の間で心から心へ、習慣や技能、物語といったかたちをとってコピーされる情報のこと。会話や文字、振る舞い、儀式等によって人の心から心へとコピーされていく、いわば文化的遺伝子ともいうべきもの。生物学者リチャード・ドーキンスが提唱した形而上学仮説。

Factory Kyoto 「金師範の"寺子屋FACTORY"」 12/21~26

2012年12月23日日曜日

テーマ展"AGING"より 於、コンテンポラリーアートギャラリーZone (箕面)  

"AGING"(歳を重ねること)をテーマに、20人の作家が集う展覧会の様子。

 バロー・リベルト「URASHIMA TARO RETURNS WITH GUEST WORKERS」。
浦島太郎の載せるカメはウミガメではなく、しっかりと大地に足を踏みしめるヌマガメである。
太郎が手にする籠には果物・・・ではなく赤ん坊がぎっしり。

ヤマダヒデキ「大切な物は何か考えてみる part7」。
漆黒の液体に浮かぶ百合の花。つぼみと花とは同じ水面にならぶ。 合成写真ではない。つぼみと花とは、対立してはいない。空間を表象しているのでもない。これは一人の人物の、人生の時間を表象したものであると同時に、異なる時間を生きる者同士が、共にあることをも意味しているように思う。

しまだそう「見てnight Y」「見てnight O」。
この世界の自由と不自由、その両方に彫られたような、あるいはこれから彫られるであろうような表情の二人(一人?)。

入江陽子「inside out」。
二重螺旋状のバネから跳び出さんとしているのは、裏返ったサッカーボール。
球の内側の虚空だけを包んでいたボールは、反転することで宇宙をすべて包みこもうとするが、割れ、ほころび、しぼみ、バネの上でたたずむ・・・


コンテンポラリーアートギャラリーZone 12/20~12/29


通常、ホワイトキューブといえば閉鎖系6面体かそのヴァリアントであるが、このギャラリーは外部との境界となるはずの壁が1面存在せず、古い市場の路地に溶けている。


北夙川不可止×田面遙華「伯爵と魔女」 於、Gallery1(神戸・旧居留地)

庭石の下には龍の干からびて輕(かろ)き木乃伊(ミイラ)となり果ててをり
「この木乃伊どこで見つけた?」「庭石の下にはいつも龍が棲んでいる」

 夏至の夜龍の鱗の飛び散りて数千万の水溜りとなる

人形(ひとがた)の吐息に揺るる燈火よ約束はまだ果たされぬまま


Gallery1 12/7~12/27

歌・北夙川不可止(きたしゅくがわふかし)
書・田面遙華(たづらようか)

2012年12月18日火曜日

ヘアピンのシャンデリア (Gallery1/神戸・旧居留地)





突撃洋服店から譲り受けた古いシャンデリアに、チェーンで緯(よこいと)を差し渡し、それに数万本のヘアピンを引っ掛けた蜘蛛の巣状のシャンデリア(八木智弘さんが制作)。

ここは神戸の旧居留地、1938年に竣工したチャータード銀行ビル。この堅牢な建物は1995年1月の震度7をも耐え抜いた。

2012年12月17日月曜日

「アブストラと12人の芸術家」展クロージングパフォーマンス 於、大同倉庫(京都)20121216

出展作家の田中和人さんとマイアミ君によるパフォーマンス「出会い」。
カンディンスキーの肖像写真や絵画作品が随所にモンタージュされた映像が、シェーンベルクの音楽とともに壁面に投影され、始まる。



 映像が終わるとステージがライトアップされ、マイアミ君と田中和人さんによる朗読劇に移る。カンディンスキーやシェーンベルク、あるいはどこかの教授様にさしあてた(ほとんど)一方通行の手紙を朗読するという内容。写真はマイアミ君。
 田中和人さんは自身の連作「モダンアートのゴースト」が貼られた壁の端に終始座ったまま。
 ステージの光を受ける八木良太さんの「CD(Black)」。
この写真を撮影していた時、マイアミ君が朗唱する以下のような言葉に耳が惹きつけられた。
「いたるところで、新しい芸術家達が挨拶をおくり合う。
分かり合うためには、まなざしと握手で充分だ。」
このフレーズは、会場に集う人々とともに唱和し、何度も反復された。
そしてこの日(12月16日)146歳の誕生日を迎えたカンディンスキーを祝うケーキが振る舞われ、パーティへ。

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「アブストラと12人の芸術家」展 11/11~12/16


2012年12月9日日曜日

加世田悠佑「,1秒先の観測点 -コンマいちびょうさきのかんそくてん-」 於、Factory Kyoto

budと名付けられたキューブ状のオブジェ群が配された暗闇の中を、懐中電灯をもってめぐるというインスタレーション。
コンクリート製のキューブにはどれも穴ぼこがあり、それは弾孔のような、穿孔のような、あるいは岩窟や坑道のようにも見える。
穴ぼこの底からは、何かが芽ぐむようにせり出している。
どうやらそれはガラスのようだ。

 コンクリートもガラスも、近現代文明を構成する代表的な建築資材であり、それゆえ身のまわりにありふれたものである。この角度からライトを当てると、まるで都市の廃墟を思わせる影がなびく。

 手に載せると重く、掌に冷たさがしみわたるが、眺めていると温かみが体の内側からこみ上げてくる。そのとき、無機物であるはずのガラスの芽は、ゆたかな表情を湛えだす。
(手に取ることを推奨される、スペース中央に積まれた5㎝立方のbudたち)
ガラスとは、壊れやすく繊細な性格でありながら、酸によってもアルカリによっても腐食しないつよさを備えた物質である。
光を受けたガラスの、やわらかくしなやかな芽が生気的に放つアウラは、視線をやさしく引き寄せ、ほどよい位置で意識とつりあう。
ここではアウラの属性である引力と斥力とが、絶妙な関係を保っているようだ。

すぐれた象徴性と、豊潤なイメージの詩性を感じさせる加世田さんの作品は、他者の感性に一方的に覆い被さる〈こけおどしのサブライム〉とは全く別の志向性に貫かれている。
その、柔和なる美学・・・。


Factory Kyoto 11/30~12/9 
加世田悠佑展「,1秒先の観測点」(小島健史キュレーション)


2012年12月8日土曜日

【覚書】ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』




ジョルジョ・アガンベンが来たるべき民主主義のために書いた『到来する共同体』(上村忠男訳,2012,月曜社)では、〈何であれかまわない存在〉が共同性の(非)主体として想定されている。

すなわち、アガンベンのいう〈到来する共同体〉とは、〈何であれかまわないもの〉たちの共同体、ということになるのだが、〈何であれかまわないもの(存在)〉とは何なのか? 
それをアガンベンは、いつものように古今の哲学・宗教・文学・言語学などを縦横無尽に行き来しながら、晦渋な論調で一冊まるまる使ってレリーフのように彫り進めていく。それはこの概念が明確に定義付けるということとはそもそも馴染まない性質のものだからである。それでもアガンベンの他著作と関連の深い文脈では、簡潔な言葉でその属性が明かされる。

存在しないでいることができる存在、自ら無能力であることができる存在」(50頁/9節「バートルビー」)

何であれかまわないものというのは単独性に空虚な空間が加えられたもの、有限でありながら、ある概念によっては限定されえないものである」(86頁/16節「外」)

ブランショ『明かしえぬ共同体』、ナンシー『無為の共同体』という共同体の(不)可能性をめぐる問いの系譜を同じく引き継いだリンギスの『何も共有していない者たちの共同体』に比べると、悟性的にも感性的にもすっきりとは理解しづらい。苦しみの中で求め、読み、この本に行き着いた人たちであっても、やはりそのように思う人は少なくないだろう。それがアガンベンの不人気の理由なのだろうが、すっきり晴れやかにはけっして語り得ないものの中にこそ価値をみるというのがアガンベンのこだわりなのだから、仕方がない。それでもやはり、実践を見越した思想書である以上は使えないと意味がないので、アガンベンからこの本を受け取った私たちは〈何であれかまわない存在〉を具体相においてどのような存在に当てはめて語るかを考える必要がある。それが、この本を道具として実用化する上での鍵になることは間違いない。
「不法」就労者、薬物中毒者、失業者、ニート、フリーター、知的浮浪者、芸術的浮浪者、有象無象など、思い当たるフシのある人にとっては大した話ではないかもしれないが、語ることで実用化するためには、あえて文学作品から例示するのもちょっとした面白みになろう。

私が最初に思いついたのは、寮美千子さんの『星兎』(1999年,パロル舎)に出てくるぬいぐるみのような生身の生き物「うさぎ」であった。

以下は、「うさぎ」と主人公の少年・ユーリとの会話。

「ところできみ、名前は?」
「えっ」
「なんて呼んだらいいのかな、きみのこと」
「あ、ぼくユーリ。ユーリって呼んでよ。きみのことは、なんて呼ぼう」
「『うさぎ』でいいよ」
「名前は、いらないの?」
「どうして名前なんかいるの? 『うさぎ』って呼んで、ぼく以外のうさぎが返事をすると思う?」
ぼくは、首を横に振った。
「ぼく、なんにもいらないんだ。例え名前だって、持たなくてもすむものは、いらない。家だっていらないし、記憶だとか、過去だとか、そんなものだって、なくたっていいって思っているのさ。実際、ないんだけどさ。だからって、やせ我慢してるわけじゃないんだ。これはこれで、さっぱりしていて気持ちがいいよ。いくところもないし、帰るところもない。でも、どこへでも好きなところへいけて、好きなところへ帰れる。ぼくは、誰のものでもない。ぼくは、ぼくのものなんだから」
ぼくは、びっくりしてうさぎの顔を見た。
こんなふうにいうのはおかしいかもしれないけれど、その時のうさぎの顔は、すごくきれいだった。夕陽がうさぎの顔を照らして毛の尖(さき)がきらきらと光り、うさぎは遠くを見ていた。どこか、すごく、すごく遠くを。薄紫に煙る半島に太陽が沈もうとしていた。その反対の海から、月が顔を出そうとしていた。