まずは最初に霜田さんがベトナムやビルマ(ミャンマー)で開催したイベントのビデオ上映と霜田さんの解説があり、その後ワークショップ参加者によるパフォーマンス・ライブという段取りでした。
ビデオで印象的だったのは、若い父親と小さな少年が親子で実に楽しそうにパフォーマンスをやっている映像があったのですが、それをみて「人と人との関係を構築する上で、パフォーマンスを実生活で取り入れてみるのもいい」と霜田さんが話したことでした(少年はパフォーマンス初体験だったそうです)。なるほど、人と人との関係を構築/再構築/あるいは脱構築する媒介項にもなるのか、と自らのパフォーマンス未満の諸経験を瞬間的に参照しながら感覚で理解したような気になりました。
パフォーマンス・アートはヨーロッパではアクションポエトリーという捉え方をされることもあるそうです(パフォーマーには詩人が少なくないそうで、霜田さんも詩から表現活動をスタートされた方です)。
そういえば詩人仲間でもパフォーマンスをやる人はいますね。通天閣の下で路上宴会をした時に裸で日本国憲法を絶叫したり、ダンボールを使ったパフォーマンスをする路上詩人・橘安純さんや、パリの街角でランボーの詩を日本語で絶叫してたら日本語の分かる女性から「ランボーは叫ばないでしょう?」と囁かれ、それを傍で見ていた映画監督に声を掛けられそのままフランス映画に出演した、しげかねとおるさんなどは近いものがあるかもしれません。
さて、ライブではワークショップ参加者が、熟練者も初めての人も分け隔てなく演じました。
意味があるのかないのかすら分からないものも多いのですが、何をやっているのか、訳の分からないものをみる面白さは言葉による表象を遥かに越えています。でも実は各自しっかりと構成を練って準備をした上で演じているので、その場ですぐには分からなくとも、後でじんわりと意味が現れてくることもありました。行為と解釈の自由が絶対的に保証されていることが、そのまま多様性の肯定に繋がるということなのでしょう。
芸術でも、非芸術でも、反芸術でもなんでもいいのだけれど、そのような言葉で喚起される、僕らが予め持っている(と思っている)既存のコードを土台から揺さぶり、内側から破砕しつつなにかを創り上げる力がそこにはありました。かのネグリさんがいうところの〈構成的な力〉というやつでしょうか。霜田さんは武蔵野美術大でも講師をされているのですが、「美大というのはアートを創る上では機能していないということが分かった」と話していたのが印象に残っています。
「特別な訓練が必要なジャンルではなく、本人のやる気さえあればできる表現ジャンル」と霜田さんが言うように、入り口は広く奥が深い(たぶん出口はない)パフォーマンス・アートに魅了された一日でした。
僕も何かやりたくなりました。
パフォーマンスは一回性のものであるがゆえに、写真でその魅力を伝えることは不可能ですが、あえて。
machi/さん。断片的な言葉を呟いたり叫んだりしながら、もんどり打ち、のたうつパフォーマンス。圧倒的な迫力。理路整然と語ることなどけっしてできないが何かを発するしかない、うめき、もがきといった限界状況を表象しているのでしょうか。ご本人から後で聴いた話によると、これは誰かがどこかで発した言葉をコラージュしたものなのだと。で、なんか覚えのある言葉があるなあと思っていたら、僕がとある討論の会場でしゃべった言葉も使ったのだと明かしてくれました。(^^;)
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