2012年7月7日土曜日

三浦真琴 展「エニグマ」 於、此花メヂア(大阪・此花)

此花メヂアにアトリエを構える三浦真琴さんの個展「エニグマ」は、ガラス板を支持体に、リューター(電動切削工具)で文字を刻印することで製したオブジェを空間の各所に配したインスタレーションである。

ガラスに刻まれた文字は、消すことも修正することもできず、また判読すら困難である。ひらがなで綴られた言葉らしきものである、ということがわかるにすぎない。仮に、それが気に入らないという理由で叩き割ったとしても、文字の痕跡は残る。

ところで、「エニグマ」とは謎めいた言葉や不可解な事物を意味する語であるが、第二次大戦中にナチスドイツが採用していた暗号機にもその名称が付されていた。

ガラス板に文字を刻んでいると、もともと意味ある言葉だったものが次第に意味を失っていくという。その行為の中でオートマティスム(自動記述法)の色合いを濃くしていくのだろう。増殖していく細胞のように刻印された文字は、まるで流れる気のように平面上を踊っている。
それらはすでに言葉としての意味が溶解したただの文字列、あるいは文字ですらなくなったようにもみえるが、制作という行為の中で作家自身の意識に降りてきた〈超越者の暗号〉※のようでもある。

額縁にガラスを嵌め込んだこの作品は、こちら側からだと鏡になっているが、反対側からだと透けて見えるマジックミラーである。

ガラスの周囲にある枠は、窓を意味しているのだろう。

窓とは、こちらとあちらを結ぶ通路であると同時に、遮る壁でもあり、いずれの場合においても境界である。その平面上には、流れる気のように踊る文字列・・・ 

文字そのもの、あるいは文字によって表記された言葉というものも、それを眺めたり読んだりすることで、意識を別の次元へといざなう窓のようなものになる。

私たちは日常と非日常とを問わず、また物資的空間であるとサイバー空間であるとを問わず、夥しいまでの文字に囲まれて生きている。そこにあるのは選択し取り込むべき必要な情報ばかりではなく、またなんでもかんでも意味ある言葉として認識しているわけではない。
見たくもないのに目に飛び込んでくる広告、押しつけがましく送信され投函されるDMや迷惑メールもあれば、情報ですらないものだってあるだろう。
それらの多くは一方的なものである。電話やインターネットを使った通信にしても、他者と対面しての会話であっても、双方向のコミュニケーションに見えながら実際には片方向でしかない、といったことは往々にしてあることだ。あるいは、そもそも文字や言葉というものは意思の伝達不可能性を原罪的に内包している、ということにも思いはおよぶ。

立場の非対称性を作り出すマジックミラーを使ったこの作品は、そのようにさまざまな問題系へと思索の通路をつけてくれた。

三浦真琴さんの個展「エニグマ」は、私たちの意識や身体を丸ごと包摂しているテキストスケープを象徴化したものであると、ひとまずは理解することにしよう。

そこから移行していく意識は、たとえよろめきながらであっても、時空に対して無限に開かれている。
文字によって綴られた書物の中では、あらゆるものがあらゆるものと接続し、連絡する可能性が開かれているように・・・

アトリエの作業台


此花メヂア 7/6-7/15 



※〈超越者の暗号〉・・・・・・哲学者、カール・ヤスパース(1883-1969)が創出した概念。超越者とは、挫折、病、疲労、といった人間にとっての限界状況などにおいて、実存の前にたまさか現れることがあるものだが、それが存在している(はずだ)ということを覚知できるのみで対象的に把握することがけっしてできないもの。学者にとっては真理であり、宗教者や神秘家にとっては神や精霊のようなものと考えていい。とはいえ、超越者は〈暗号〉という形式をとって実存の前に現れるにすぎない。
つまり、〈超越者の暗号〉とは人が覚知することのある超越的ななにものかを形而上学的に把握するための媒介として創出された概念なのである。具体例を挙げるなら、〈暗号〉とは、詩人や芸術家にとっての創造的インスピレーションであり、宗教家にとっての啓示であると理解して差し支えないだろう。
ヤスパースはこれによって無神論と有神論との間に対話の前提となる橋を架け、オカルティズムに陥ることなくインスピレーションの問題を考える糸口を提供してくれたのである。


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