1Fの白い壁にかけられた作品、2Fの黒い壁にかけられた作品、それらのどれにもタイトルが付けられていない。これまで私たちの前に披露されたどの作品にもあった―詩的な―、タイトルがないのだ。
今回の個展では、椎木さんが自分のためだけに持っていたドローイングをタブロー化したものばかりが展示されているのだが、タブローへと昇華する作業は身を切るような苦行であったという。
それらのドローイングは、時折意識に降りてきそうで降りてこない暗号のようなものを、詩人が微睡みや瞑想の中で筆記するのと似ているかもしれないし、違っているかもしれない。ただ、限界状況に沈潜する中でしか姿を現さない何ものかを粗描したのであろうことが、推し量れるにすぎない。
これまでと同様、意識と無意識の境界領域で制作するという椎木さんの基本姿勢は何も変わらないようである。だが過去に発表された作品のように、詩的言語を添えたり象徴的な図像を配するなど、脱自的な、ある種の醒めた視座から綺麗に構成された画風ではなく、生々しさが剥き出しのままに湛えられた画風になっている。それゆえ、見る者の心が否応のない痛みに苛まれることもあれば、いつも痛みを抱えた者の心には安らぎをもたらしもする。
ところで、実存とは、幾つもに分裂した現存在―別の立場からは〈ペルソナ〉とも―によって形づくられていると言いうるのだが、椎木さんのこれまでの作品が現存在の徴(しるし)を表象したイメージであるとするならば、今回の作品群はさらなる深み、実存のもっとも深い闇の中に分け入り、表象の限界領域から捉えられ繰り出されたイメージであるとはいえないだろうか。
自らの言葉を載せることが可能な深みよりも、より深い闇にいたことを意味する「どうしてもタイトルをつけられなかった」との談話や、すべてが自画像(のような人物像)であるという事実が、そのことを物語っているように思う。
●アートスペース亜蛮人 5/31~6/11
○椎木かなえHP「りんごのイチゴ狩り」
個展「闇む人」には二種類のビラが用意されている。
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