世界を触知する
吉野昇平さんが写真に手を加えるのは、写真という手の届かない場所に収められた事物を、こちら側に、つまりヒトの側に接続する行為なのであろうか。
〈在る〉ものを写し取った平面に手を加えることで現前した画像は、私たちの感性に少しの違和を催す。あるいは違和ですらないかもしれない、ほのかな感覚を催す。その現象は、〈自〉と〈他〉の、こういってよければ世界の境界線上で起っている。
以前は植物がモチーフであったが、新しいシリーズでは折り紙である。
折り紙とは、ただ一枚の平面体としての紙に、固い別の平面体に支えられたりしながら、手で力を加えることによって形を現出させる遊び(改めて言葉にする必要がないほど自明ではあるが、現象をなぞってみるならば実はさほど自明ではないことに驚く)。
それを写真に収めたものの表面に、スクラッチやペイントで手を加える。制作のプロセスに、以前にもましていっそうの工程が重なったシリーズといえよう。
このシリーズの鑑賞は、構図や色彩や形象、配されたモチーフにただ自由に感性をさらすこと、ただそれに尽きる。しかし視覚を通じて像が印象づけられるやいなや、色や形、手の動き、といったプロセスをほどいてゆく愉しみが訪れるかもしれない。あるいは少しの謎が、目や心を戸惑わせるかもしれない。鑑賞という行為それ自体が目と心の快楽でありつつ、やがて吉野さんの造形論理を理性的に読み解いてゆく時間が訪れる。情緒的なものが喚び醒まされたり、意味といいうるものが浮かび上がるかもしれない。
ここには性急なものや、鑑賞者を急き立てるものはなにもないが、催された少しの違和(あるいは違和未満のほのかな刺激)が感性に対して効果的な働きを持っていることは確かであろう。
かたどる手とかたどられた形、無機的なものから有機的なものへの生成、その情景。そこから媒介される印象は、客体であるという布置を越えて一方的にこちら側に迫ってくることがない。これは紛れもない優しさである。
ここにある吉野さんの営みは、吉野さん自身にとっての存在証明であると同時に、私たちが世界に日々残してゆく痕跡、その営みの喩でもある。
そうして世界を触知する〈私たち〉という存在の複数性への回路が、ゆっくりと立ち現れるのだ。
そのとき〈私たち〉は、このささやかな営みがもたらすものに、この上ない安心感を覚えることだろう。
京谷裕彰(詩人・批評家)
◆吉野昇平 展 2018.8.20~8.28 ギャラリー風