2012年10月7日日曜日

藤井貞和『反歌・急行大和篇』より


現代詩は、身も蓋もないことをいってよければ、散文という文体で書かれている。あるいは散文という文体でも書いてもいい詩が現代詩ある。むろん、一般的な散文を詩だというのではなく、あくまで文体としての散文をいうのにせよ、口語自由詩とは散文詩のことにほかならない。これがまあぶっちゃけた話である。
詩かそうでないかはしたがってそれの制作者と享受者とのあいだの了解としてのみ成り立つ。詩として書かれ、詩として読まれるという信頼関係がなければ、詩はそこにはない。一般には詩の雑誌に出ているとか、教科書の詩のパートにあるとか、詩人といわれている人が書いたとかいった作品外の情報と、行分け、署名、題、活字の組み方など内部からの情報とにより詩であることの了解が行われる。
この了解はしかし盤石の基礎の上にある、ゆるぎないものではない。まさに信頼関係という、この世ではこわれ易い部類に属しているので、そこがこわれたら詩なんかけしとんでしまう。その信頼関係は詩人の内部でもたえず危機にさらされている。


◆藤井貞和「現代詩の言葉」(『反歌・急行大和篇』所収,1989年,書肆山田)


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