この展覧会は、現代アートにおいては自明であるともいえる支持体の多様性を提示するものではない。
作風も方法も異なる五人の作家の営為を通じて、支持体の存在を存在論的に問うという試みであるようだ。
●百合一晶(ゆりかずあき)「水平線」
原稿用紙や帳簿用紙などを規則的にカットして束ねたものを、色のついた液体に浸す。数時間浸す間に、色の染みは作家が束を落とした高さよりも上に及んでくる。ただ待つことによって像を得るという不作為こそが百合さんの絵画制作なのだが、百合さんの制作における作為の大半は紙を切って束ねる、この支持体づくりである。
●やまもとひさよ「大川さん」
6月に京町堀のPort Gallery Tで展示されたシリーズ。その時のレヴュー記事はこちら→http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/06/port-gallery-t.html
複製芸術である写真の支持体としての印画紙をどう扱っているか、どう変形させているかに着目することで、作家の私的な主題が、いかにして他者との間に通路を作りうるのかを窺うことができる。
●蛇目(へびめ)「Lab Work」
木製パネルにアクリル絵の具を層状に塗り重ねたものに、彫りや削りを施す。このとき木製パネルは単なる土台でしかなく、絵の具それ自体が支持体になるのであるが、この絵の具を除去するという行為によって像を生みだす営みを、蛇目さんは彫刻ではなく絵画であると位置づける。
そして絵の具の削りくずは別のパネルに塗り込められ、それをまた削って新たな作品が生まれる。
●内山聡(うちやまさとし)「It's growing up」
1本につき1色の色紙テープを延々巻いてゆく。だから1色の同心円は外側になるにつれ徐々に幅が狭まってゆく。内山さんがこの作業を持続する間、視線を落とすのは狭い紙テープの面であり、内山さんにとってはこれが支持体なのである。それゆえこの色とりどりの同心円からなる層は、作家が投じた仕事の総量が窺えるものではあるが、結果として視覚化されたものでしかないという。だがそうはいっても、観者にとってはやはりここが表象の表面であるのだ。
作り手と受け手との間にある、この視線の交錯が非常に面白い。
作り手と受け手との間にある、この視線の交錯が非常に面白い。
●関智生(せきともお)「Many Edges」
穴を穿ったキャンバスの裏側(あちら)から絵の具をスクィーズすることによって、表側(こちら)に絵の具が押し出される。しかし観者が視線を向けるキャンバスの表面に、作家の描画行為としてのスクィージーの痕跡は見えず、それは想像するしかない。
とはいえ、あちら(裏)であってもこちら(表)であっても、その境界に位置しながらキャンバスは支持体としての役割を果たしている。
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視覚芸術は、それを芸術として見るまなざしがなければ存在せず、作家はそれが単なる素材ではなく、芸術であることを示さなければならない(これは触覚芸術、聴覚芸術、言語芸術においても同様)。
ゆえに作家の営為とは、表象の表面とまなざしとの関係における絶えざる投企である、そう言っていいのではないだろうか。
今回の展覧会は"支持体"をテーマとしたことで、芸術の可視性というものがどのように構成されるのか、いかなる創意によってなされるのか、そしてそれがいかに重要な視点であるのかに目を開かせてくれる。
それは、芸術がものの見方を刷新することと、刷新された目に映る芸術とが開く可能性への、果敢な賭けでもあろう。
支持体の多様性が自明などではないということは、5つの考察を経てようやく浮かび上がってきた。
◆Gallery Out of Place 9/7~10/7
※展覧会を見てジャック・ランシエール『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)を思い出し、付箋を入れり傍線を引いた箇所をすずろながら読み直すことになったのは幸いである。このレヴューを書く気になれたのは、そのお陰かもしれない。
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