予め用意した型に、シャモットとよばれる耐火レンガの粉末(砂)に長石を混ぜて固まるようにしたものと、シャモット単体とを交互に詰め、それを焼成したあと型を割って取り出すと壺の形をした塊が現れる。だが、シャモットだけの層は固まらずに砂のまま残る。この砂を掻き出すことで壺に裂け目が生まれ、このような形象になるわけだが、それでもこれは何かを入れるという実用のための器ではない。
例えば私たちは、壺とか甕とかという言葉を耳にすると、それぞれの言葉が指し示す器の用途と同時に、ある形象をイメージする。器とはなにかを入れるモノであり、入れられるものが散逸せず安定した状態を維持できるよう、外部と画するために造形された境界としての物質である。
だから私たちは、器の中を想像しようとすると普通は境界の内側の空間を思う。それはそれで味わい深い空想の遊戯になるには違いないし、また古来、茶碗や皿といった什器制作においては内側の空間を考える思想があるという。
ところが、かのうさんはそのように外部と画する境界としての物質の、その内側にも世界が広がってあることを、この作品シリーズ「壺中天アリ」によって示しているのだ。
これはどういうことだろうか。
意味するものの広がりは途方もなく、答えらしきものは底のない深みにあるようだが、かのうさんご自身が語ってくれたのは、境界を画することでできる形象や大きさ、つまり外見(形式-フォルム)にはそれほど重要な意味を付与してはいない、ということであった。
砂の掻き出しを体験できるコーナーにあるのは、会期中、多くの人の手が触れることで徐々に形を成していく、その共的な行為それ自体が作品行為であるような作品である。
砂のひと掻きひと掻きが、自己と他者との関係を開いていくように、存在の裂け目をつくり、そして何かを開いていく。だがやがてその行為は、手によってはいかにしても開きえない硬さにぶちあたりあえなく挫折する。それは閉じられにほかならない。かのうさんの作品は、存在の開かれであり、閉じられでもあるということだろうか。
そこに詰まったひと粒ひと粒の砂が有限な存在を象徴するのだとしたら、砂が取り除かれた後に現れた作品が象徴するのは世界の無限であろうか。とはいえ、それもまた一個の有限な存在者であることを静かに、明瞭に、語る。
有限の中に広がる無限・・・。
だが、そのように思索する私の主体が、つねに揺らぎからは逃れられないことに気付かされる。
裂け目に意識が吸い込まれたり、生気的ななにものかに押し返されるように。
◆TANADAピースギャラリー 10/14~10/21
(ギャラリー空間の設計は建築家・山中コ~ジさん)
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