2012年9月7日金曜日

角谷恭子展「ビオスとゾーエーのあいだ」 於、ギャラリー白3(大阪・西天満)




何が起こったのかわからないままに、この黒箱が生まれたのだと。左耳から右耳へ、"風"が一瞬通り抜けるような感覚を残して。
その感覚を手がかりに、黒箱を再現しようと作業手順をいくら繰り返しても「黒い箱」しかできず、黒箱は生まれなかったのが、ある日不意に二つ目の黒箱が生まれ、あの"風"が再び頭の中を通っていったのだという。


古代ギリシャでは、私たちがふつう〈生vita〉と呼んでいるものを意味する語には、位相の異なる二つの概念に裏付けられた語があったことを、作家は神話学者のカール・ケレーニーから引いている。

ひとつは〈ゾーエーzoe〉、もうひとつは〈ビオスbios〉。
私はこれをジョルジョ・アガンベンを媒介にすることで、個人的に、あるいは社会的にアクチュアルな問題系へと接続するよすがとしたい、そう思ったのだ。

〈ゾーエー〉とは生命あるものの一切が、一切に共通の、たんに生きているという事実を表すだけのような生のあり方。いわゆる〈剥き出しの生〉である。
他方、〈ビオス〉とはそれぞれの個体や集団に固有の、生の形式や生き方を意味する。いわゆる政治的実存であり、また社会的な生のあり方。
それが次第に区別を失い、近代の語彙においてはいかなる差異をも示さなくなった。
例えば〈ビオス〉を語源とするバイオロジーbiologyは〈ゾーエー〉としての生しか扱わず、個としての尊厳や人格といった〈ビオス〉にまつわる生のあり方が括弧に入れられてしまうわけだが、ここに象徴されているのは何なのか? そんな問いが湧き起こる。
あるいは〈ビオス〉としての生が視野から放逐される21世紀の諸現象へと、否応なく私の意識は引きずられていく。

作家固有の物語と切り離しがたくこれらの黒箱は佇んでいるのだが、二つの黒箱が向かい合ったこの空間に足を踏み入れる、まったき他者としての鑑賞者には、それらは意味といえる何ものをも喚起しないかもしれない。しかし、少なくとも私にとっては固有の感情を呼び覚まし、意味の方へといざなってくれる貴重な時間となった。

ただ黒箱がそこにある。それだけのことなのだが。



ギャラリー白 9/3~9/8

※ジョルジョ・アガンベン『人権の彼方に』『ホモ・サケル』(邦訳はともに以文社刊)。

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