2012年9月4日火曜日

R18 vol.7の様子 (大阪北浜の10Wgalleryにて)

タブーは欲望にも転化するふしぎなエネルギーだ。
血のタブーにもいちじるしいものがある。
かみの毛が落ちているのはタブー感があるけれども、腋毛や、陰毛も、タブー感のあることはいうまでもない。特に陰毛は、性タブーの一類のように想われているけれども、荒木経惟のしごとのように、陰毛をけずりとったら何がわいせつさとして残るか、という問題がある。陰毛そのものが強力なタブーとしてあったのではないか。
乳房および母乳もタブーである。
性器もタブーだ。

Tr@shさん

にごたらこ、さん

パグ・リーさん

tk4mさん

中村趫さん(左)、中村鱗さん(右)

ナンシーさんのパフォーマンス「悪いお姉さん」


ひとはいったい何のために身を与えられたのであろうか。風や、声ばかりでよかったはずのひとが、昔話の発生のように身を与えられ、何をしようとしているのだろうか。おそらく見てはならないものを見、きいてはならないものをきき、ふれてはならないものにふれようとして、何万年、何十万年をすごしてきた。身のまわりにいっぱいタブーをふりまいてきた。これらのタブーは真の意味で両義的なのである。タブーによって身は安全であろうとする。保護されようとする。だがそれは突破され、冒涜されるものとしてもあるのだった。
言葉がわれわれにとって重大なタブーであることは、それが口をついて身から出てくるものであることを想えば、もう多言を要しないであろう。くちはわざわいのもと、というではないか。そのばあいの「くち」とは言葉という意味だ。言葉は発せられることによって、人間関係をきずつけないわけにゆかない。文字に書きあらわされれば、筆禍といわれる事件になるのでなければタブー本来のちからをまっとうしたことにならない。

(テキストは藤井貞和『言葉の起源』序章より引用。1985年,書肆山田)







クーちゃん(♂)

10Wギャラリー 8/25~9/1

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