2012年3月16日金曜日

伊達風人詩集『風の詩音』(思潮社)



触れたことのない大地や
色彩も芳香も抱かない花や
風を知らないアゲハや
雨粒に打たれないテントウムシや
誰にも蹴飛ばされない空き缶や
草むらに消えない野球ボールや
抜き差しならない駆け引きや
利己心が秘められた優しさや
虚栄心に満ちている言葉や
情念を喪失したこころや
純度を失ったそれら一切に付随する
いくつかの美徳の何者でも
わたしを満たすことは
決してできないだろう


したがって
わたくしは からっぽである
しかし 
からっぽであるがゆえに


水分の滑らかに滴るてのひらや
アスファルトを泳いでいく鳥影や
腹を抉られている 干からびた魚や
サイレンに呼応する犬の遠吠えや
プールに飛び込む前の子供のためらいや
水門に辿り着いた長靴の旅の物語や
朽ち果てた後で咲き誇る花の情熱や
優しいがゆえに拭われることのない涙や
それでも 人間として正直に生きようとする
人の率直さや 強さや 美しさや
言葉に還元されえず しかし嘘のない
それら一切が与えてくれる
確かな感覚に付随するいくつかの真実の
何もかもが このからっぽのわたしを
十全に満たしていく


川を歩けば 川になる
空を仰げば 空になる
いま あなたを思うから
わたしは あなたになる
そして満たされた数々の瞬間
わたしの心に溢れているもの
それが わたしの詩になる


こうして
からっぽのわたしは
からっぽであるがゆえに
真実の魂に触れた あらゆる瞬間
そこにおける美しい世界で
限りなく満たされている




(「感覚に付随するいくつかの真実」全文,2004年)


伊達風人(だてかざと)は、詩的なるなにものかが言葉と結びつき、詩語として明瞭化していくその道行きを、そこに何かが滞留しつつゆっくりと動いてゆく時間を、大切にしていたのだろう。僕が伊達風人の名前を知ったのは詩誌『kaderOd(カデロート)』の創刊号(2007年8月)であったが、その名前、掲載された「鼓吹器」という作品は確実な印象を残していた。

夜空。
月虹の音、その時制なき非論理的な夜空の外壁に内在する朽ち果てた散光痕〈しみ〉は、眼底パレイスに灯る一筋の神経。散光痕を再照射する影ばかりが濡れていて、光に攫まれたいつかの太陽を流しこむだけのやわらかな海がまだ鼓吹器内部にあることを知る。濡れた億年の不在を払拭する指紋のような言説で原形質に未記入された孤説。複数の鼻骨を貫いて。
(「鼓吹器」より)

2011年2月に33歳で夭逝してしまった伊達の作品が一冊の詩集として編まれたことで、かかる彼の詩想が極まってゆく有様を窺うことができる。


君の影を見よ
はるか宇宙を越えて
何者にも遮られること無く
届いた この光を
君が いま
宇宙で初めて 遮ったのだ


君よ
これが存在なんだ


(「影」全文,2003年)

広田修はこの詩を引用して云う、
「伊達にとって、詩とは、宇宙で初めて存在を直接感知するものであった。そして詩は、存在を直接把握し、その存在の影をつくるために、何億光年という宇宙の真空を通過しなければならないものである」と。(詩集に付せられたリーフレットより)


愛に包まれた子供が回したのだろうか
いま 帰り道の真ん中で 青い独楽がひとつ
地球の一点だけを見据えて
美しく回転している
動かず という真実の姿――煌めく生の至宝
それは恐らく この独楽のように
一瞬も留まらないということなんだ


(「C」最終連,2004年)



存在の真理を、そのビジョンを見ていた伊達の言葉は、僕らの実存の暗闇を照らす光源として輝き続けることだろう。



◆伊達風人詩集『風の詩音(かぜのしおん)』(2012.2,思潮社)

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。