2012年6月29日金曜日

中島麦 展「僕は毎晩、2時間旅をする -アクリル絵の具の色・瞬間-」 於、サクラアートミュージアム(大阪・森ノ宮)

大判のタブローは夜景を描いたシリーズ「night wandering」の中の一枚。

夜に佇む二人の人影を思わせる構図であるが、元となった風景にあったのは何かの建造物であろうか。

画面を構成する一つ一つの形象は、下地に描かれた絵の上に、絵の具を厚塗りすることで残された「輪郭線」によって浮き出される。
その幅のある「輪郭線」に目を近づけると、風景の中にぽっかりと開いた隙間から、遠い世界を眺めるような、別の風景が現れる。そこで感じられる世界の遠さとは、空間的な距離感(つまり遠近感)によるものなのか、時間的な距離感によるものなのか、判然としない。この隙間は、時空の切れ目のようであり、そこから広がっているのは異なる次元の風景であるような・・・。
構図の中に、すでにして絵画的秩序のズレや乱れが盛り込まれているのだが、それと相俟って・・・なのか、その効果ゆえに・・・なのか、時間や記憶の整序が解体されていく。なのにそれは心地良い。奇妙なまでに。

2階では、イメージを集積することでタブローを制作する麦さんが、その素材として描きためたクレパスによる粗描が多数展示されている。

風景の奥行き、動き、イメージの重なり、など一枚の絵画を構成する秩序の複数性と画材や技法との関係、といった麦さんの絵の魅力、その秘密に迫ることができる展示となっている。

私のお気に入りは、月夜の風景を描いたと思しきこの一枚(シリーズ「night wndering」)。


サクラアートミュージアム 6/26-7/15

2012年6月28日木曜日

HANARART(はならぁと)2011に出展した安藤栄作さんの紹介記事(2011年10月9日付『読売新聞』)


"ヒノキで作られた作品「天と地の和解」を見入る男性"とは私のこと。



2012年6月25日月曜日

大阪名物 五階

三階建てなのに五階という名称であることから、フラヌールの間では謎の大阪名物として知られている(浪速区日本橋4丁目)。
ここにはかつて五階建ての木造高層建築「眺望閣」があった。「五階」というのはその名残りとして伝えられた、この辺り一帯の地名のようなものである。

大正期には、
「歓楽の色彩、深刻なる千日前を横に外(それ)ると、急転直下、奈落の底に突き落とされたか。六道の辻からこの界隈を包む百鬼夜行の大魔窟!」
と恐れられた界隈に位置する。



眺望閣(明治21年〔1888年〕竣工)


酒井隆史『通天閣』(2011,青土社)が引用する『大阪日日新聞』1924〔大正13〕年11月の連載記事「魔窟解剖」より。

2012年6月24日日曜日

安藤栄作 展「鳳凰」 於、ギャラリーあしやシューレ(芦屋)

生木を斧だけで彫り上げる安藤栄作さんの今回の作品タイトルはすべて「鳳凰」。「天と和解した人」の手は鳳凰の翼に、翼は手に、自在にメタモルフォーゼを繰り返す。その円環してゆくイメージにこの上ない魅力を感じた。

 柿。焼けたように黒くなっているのは柿渋が澱んだ箇所。

 松。

彫りの手捌きを再現する安藤さん。

まだ水分を湛えた作品に手をかざすと、たしかに気のようなものが感じられる。

桜。

宇宙のエネルギーが自らの身体に降りてきて、それが手を通じて木に注がれ、木の生気と対話するように斧を振るう。斧のひと振りひと振りが、空と大地との交わりであるかのように。その媒質のような役割を担う安藤さんの手によって。
そうして徐々に姿を現し、形をなす作品から、また宇宙へとエネルギーが還流してゆくようなイメージなのだと、安藤さんはいう。

大地が育んだ木は、ここにおいて、なにか別の生命体へと移行しているのだろう。


2012年6月22日金曜日

谷口和正 展「TRACE -fragment-」 於、橘画廊 (大阪・本町)



正方形や円筒形のオブジェに穿たれた穴は、鉄板をバーナーで溶断することでつくられた言葉の列(なにかの歌詞)を球状に組み上げた(光りを放つ)オブジェが、壁や床に投影した影をトレースしたものである。

もはや言葉としての意味をなさず、それがもともとなにかの言葉であり、文字であったであろうことを、辛うじて認知できるにすぎない。
内側に仕込まれたLED光に映しだされる影は流れ、空気にとけてゆく。

立方体、円筒、中空、裂け目、逆光、碧白い光、投影される言葉の痕跡、群像・・・、

そういった属性の一つ一つが、音のない空間に谺しながら、象徴的なものを心に残す。


橘画廊 6/18~6/30

西嶋みゆき 展「うきよのなみま」 於、ギャラリーはねうさぎ(京都・東山三条)


インスタレーション「うきよのなみま」


たゆたう金魚に見立てられたポイ(金魚掬いの道具)のなかには群れる金魚の影像。それらは層をなし、幻視的な光景をかたちづくる。

古来、写経用の料紙として使われてきた雁皮紙(がんぴし)には金魚が刷られ、透明化処理を施した後、光沢は消去される。
それを裏から表から、二枚張り合わせたポイを空間全体に配することよって立ち上がった立体的なイメージが、見る者の知覚を立体的に吸い込み、押し返し、時間のなかで意識に泥んでいく。


そうしてあらわれる、入れ子構造的な世界観。


あるいは、ポイは金魚ではない、とも・・・。


GALLERY はねうさぎ 6/19~6/24






西嶋みゆき 展「こけむすあさ」 於、橘画廊 (大阪・本町)

西嶋みゆきさんの個展は大阪と京都、二箇所同時開催。





どの作品も金魚をモチーフにした一版多色刷り水性木版によるコラージュ。
すべての作品に同じ版が使われていながら、多彩に駆使される演出技法や詩的に付されたタイトルが呼び覚ます想像力によって、印象は自在に変化する。

群れること、重なること、反復すること・・・

その持続的な営みの核にはいつも金魚の影像があり、互いに結び合うそれらは、一つ一つが心にさまざまなものを浸透させていく窓のようなものになる。

金魚の姿をしたモナドには、窓があるようだ。


橘画廊  6/18~6/30

★過去のレヴュー記事はこちら↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/03/gallerism-in-gallery-class.html


2012年6月18日月曜日

酒井龍一 "Primal" (トーキョーワンダーウォール都庁2011入賞者展)


左から"Family"、"私ではない私"、"晩餐" 

"晩餐" 

手前から"閉ざされた世界"、"ここではない風景" 

手前から"悲愴"、"TOHUBOHU2" 

 "TOHUBOHU2" 

 "TOHUBOHU" 

ニコンV1の顔認識AFがバグを起こしたかのように混乱。


"Parasite" 

"Metamorphose"(左)、"Melt"(右) 



薄明かりの画家、酒井龍一さんの作品は東京都庁というロケーションと不気味なほどにマッチしていた。


◆東京都庁第一本庁舎3階南側空中歩廊 2012.5.9~5.30

★過去のレヴューは↓
「幽玄の美と実存の闇 ~酒井龍一の絵」

2012年6月17日日曜日

記憶屋「廃墟」・ドイテフ個展 「廃墟×ポートレート×擬人化」 於、ギャラリー1(神戸・旧居留地)

NPO法人J-heritageの幹部であるドイテフさんの個展は、命懸けで(比喩ではない!)撮影した近現代産業遺跡・廃墟の写真、廃墟化した限界集落で撮影したポートレイト、そして産業遺産や廃墟を擬人化した二次元キャラクター作品から構成されている。
ここではポートレイト作品のひとつを紹介するにとどめておこう。

この写真の舞台は瀬戸内海のとある離島。
数えるほどの高齢者世帯しか残っていない、限界集落。
平坦地の少ないこの島では、坂道を上に行けば行くほど廃屋や草むした更地が目立つという。
セーラー服を着たモデルの女性が顔を覆う文庫本は、文学好きなら誰もがその装幀を一瞥しただけでそれと分かる、あの作家の、あの耽美的小説である。


ところで、廃墟が催す美意識とは、概ね記憶や物語に関わるものである。
あえて本質主義的な物言いをするならば、それらは日本的な美意識と容易にオーバーラップするといってもいい。


この、モナドが共鳴し合うような効果には唸らされた。


ギャラリー1 6/13~6/25


2012年6月16日土曜日

上前智祐 展 於、ギャラリー勇齋(奈良市旧市街)




髪を切りに行った帰りにふらりと立ち寄ったら、具体美術協会の上前智祐(うえまえちゆう)さん(93歳)の個展に出くわした!
事前にチェックしていたわけではなかったので、これは空から降ってきたような僥倖である。
上前さんの作品について、私ごときがこんなところで批評めいたことを書くのは野暮というものであろう。
ただただ素晴らしかった。それだけである。

ギャラリー勇齋 6/5-6/17

2012年6月15日金曜日

瀧口修造「寸秒夢、あとさき」より

マルセル・デュシャンという人は、死んだとき、遺言により葬儀もせず、公の死亡通知も出さなかったらしい。それでもルーアンの家族の墓地に葬られて、墓石には故人の意志により、こんな意味のコトバが刻まれたという。

さりながら死ぬのはいつも他人なり。

こんな川柳ぶしの訳ではデュシャンも地下で泣くであろうが、泣くデュシャンなど想像できぬことも事実である。それにしても「語っているのはつねに死せる人である」の感もなくはない。永遠の語りと永遠の沈黙との同存である。良心のために原文を。
D'ailleurs c'est toujours les autres qui meurent.


(瀧口修造『寸秒夢』所収,1975年,思潮社)



今城理江 展 於、番画廊 (大阪・西天満)


「逃げていく蝶々」と題されたリトグラフ。

箱から浮き上がるように並べられた蝶は、同じ版でトレーシングペーパーに刷ったもの。




魂、死、再生、復活、不死、愛、うつろい、軽率、気楽さ、はかなさ、など様々なイメージを表すシンボルとして使われてきた蝶をモチーフにした版画が印象的な今城理江(いまじょうまさえ)さん。

どの作品も夢からインスパイアされたものだそう。

それゆえに、作家本人にも読み解けない意味を包み込んでいることを思わせる。

夢を記述するとは、現実と非現実との架け橋を渡ることにほかならない。



番画廊 6/11~6/16

2012年6月14日木曜日

丸尾那海 展 於、2kwギャラリー(大阪・京町堀)



白く塗られた爪楊枝、素地のままの爪楊枝がフロアいっぱいに散乱するインスタレーション。

「情緒はいらない。感傷もいらない。ただそこに在る。空間と対話する。
意味を削ぎ落とす。ただそれだけでありたい。」

とは作家のコメント。だが意味を削ぎ落としても爪楊枝は爪楊枝であり、本来の用途から切り離されたそれを眺めていれば否応なしに情緒は喚び醒まされる。
舗道に堆積した針葉樹の落ち葉のように見えることもあれば、打ち棄てられた卒塔婆が山のように積まれた荒れ墓場のように見えることだってある。

制作の過程で意味性や作為性を削ぎ落とせば削ぎ落とすほど、鑑賞における自由度が増大し、見ることによって喚起されるものがゆたかになる事例なのだろう。

2kwギャラリー 6/11~6/23

やまもとひさよ写真展「大川さん」 於、Port Gallery T (大阪・京町堀)





やまもとひさよさんといえば、自身の内面にあるコンプレックスをテーマに、金髪のカツラを被り泡風呂の中でエディット・ピアフの著名な楽曲をたからかに、そして調子っ外れに歌った映像作品"La Vie en rose"(映像コテンパンダン展2011)が強い印象を残しているが、今回の写真展のタイトルは「大川さん」である。
しかし、大川さんとはいかなる人物なのか、あるいは非人物なのか、作品からは何も手がかりが得られない(ように私にはみえた)。作家も語ってはくれない。
火で炙ったり、破いたりした、戯画的な写真の大半は作家自身が被写体となっている(ように私にはみえた)。すると、制作の動機やテーマはやはり一貫している(ように思える)。
吃音や訥弁、沈黙によってしか示しえないものを、潔さと不安との揺らぎの中で、(自覚のないままであっても)どうにか示そうという意志がたしかに存在している。

Port Gallery T 6/11~6/16