2012年4月30日月曜日

千光士誠「DRAWING」 (Radio Days Bar/神戸・三宮)

Radio Days Barでの個展開催に合わせ、4月29日18:30~阪急三宮駅北側広場で決行されたゲリラライブ。

キング・クリムゾンの凶暴なサウンドにシンクロする木炭ドローイング。手の動きの鋭さは圧巻。

壁面の溝がフロッタージュのように浮かび上がる。

開始早々、人だかりができてゆく・・・。

2曲目に入ると、紙は2枚目に。



拳のような・・・









ライブは約1時間。観客は最大で7~80人はいただろうか。皆、通りすがりであるが、訳の分からないものに出くわしとまどいながらも好奇心を掻き立てられた様子で、ポカンとした顔つきで、真剣な眼差しで、あるいは次の瞬間起こる出来事への期待感を湛えた表情で、多くの人が見入っていた。

近頃はすっかり珍しくなってしまったフォーブな画家である千光士誠(せんこうじ・せい)さんは声援を送る観客にも一切媚びず、ダサイこともクールなこともすべて剥き出しなのが潔い。

ライブ終了後、千光士さんのぶ厚い手は炭鉱労働者のように真っ黒であった。


ライブ終了後は個展会場であるRadio Days Barへ。

千光士さんといえば、このポートフォリオにあるように、見る者からペルソナを引き剥がし、己を剥き出しの存在として晒すことを促す強力な人物画で知られるが、今回の個展では三宮駅前で最近行われたライブでのドローイング作品と、その様子を映像に収めたビデオインスタレーションの展示に特化されている。






◆Radio Days Bar  4/28-5/13
神戸市中央区中山手通1-13-9 山手三角ビル2F 
Tel.078-331-9228  Charge ¥500

2012年4月29日日曜日

藤原チムチム展「特別便所」 (Gallery1/神戸・旧居留地)

神戸は旧居留地、旧チャータード銀行ビルの貴賓用トイレ「特別便所」で開催されている藤原チムチムさんの個展タイトルはそのまま「特別便所」。
展示内容は、王子動物園や伊丹市立昆虫館の協力のもとに制作された動物の排泄物標本である。

馬糞。

牛糞。

人糞。
チムチムさんご自身が排泄なさったものをDMの写真として採用。

身近な里や山の動物たちの糞。キツネの糞はノネズミの毛や歯などが未消化のまま排泄されるなど、大変興味深い。イタチの糞はひどく臭かったそうな。

昆虫の排泄物標本。ショウリョウバッタ(最上段左から二番目)、カブトムシ(その右)。三段目左からオオスカシバ、蚕(幼虫)、オオカマキリ、オオゴキブリ、ミノムシ、ダンゴムシ・・・。

マサイキリン。シカのにそっくり。粒は小さいものの、一度に排泄される量は大変なものだそうで。

ミナミシロサイ。粒がでかい。アジアゾウのはさらに巨大だったが、いい写真がとれず。

ジャイアントパンダ。

ジャイアントパンダと同じく笹を食する動物、シセンレッサーパンダ。
チムチムさんはジャイアントパンダとレッサーパンダの糞の薫りの素晴らしさをウグイスパンに譬えていた。一度じっくりと嗅いでみたいものである。

アムールトラ。肉食動物の糞の臭さはかなりのもの。
赤ポチがついている!

藤原チムチムさん。

われわれ動物はみな毎日ご飯を食べ、そして毎日でなくともウンコを排泄することで生きている。それが日常である。ところがフツーはだれもわざわざウンコを標本になどしない。
そこから、ウンコ=日常、標本=非日常、ひいては日常を非日常化する媒体としてウンコ標本を位置づけているとのことだ。
だが生物学者の学術研究のように、動物=まったき他者をただ客体化して記述するというのではなく(生物学者の生はこの限りにあらず)、その時々の体調や食生活の質によって変化する自身の排泄物を子細に観察・分類しつつ人糞標本まで制作するチムチムさんの営みは、間違いなく実存的である。

そして、われわれはウンコについて語り合える共同性を見出したとき、表情はほころび、普段膠着していたさまざまなものが溶けていくような解放感に包まれる。

それゆえ、古今東西、排泄物をめぐる随想を好んでしたためてきた文人たちが数多いることには、根拠があるのだ。

ウンコには、現前性の秩序を揺るがす大きな力が秘められているからだ。



Gallery1 4/25-4/30


※これらの排泄物標本は実物標本ではなく、すべて造形作品である。腐敗、乾燥などの劣化防止処理の困難さという問題もあるが、たとえ処理可能な場合でも新鮮な質感が失われてしまうからである。リアルな質感から喚起されるものこそが、作家の狙いなのであろう。

2012年4月28日土曜日

「へうげもの」 (ART KYOTO/ホテルモントレ京都)

優美さと猥雑さとが渾然となったホテルモントレ510号室、「へうげもの」の展示風景。いろんなものを詰め込んで、ごちゃごちゃしてしまった雰囲気は僕のツボにぴったりはまる。


春名祐麻さんのFRP彫刻の奥でダンディな陶芸家・かのうたかおさん(右)と増田敏也さん(左)が談笑。窓際には増田さんのローピクセル陶オブジェ、その手前にかのうさんの器。いい光景です。

作品の足元に添えられたエロ本は、前の宿泊客が部屋に残していったものが、搬入作業時にひょっこりみつかったものだそうで。

井桁裕子「枡形山の鬼」 (ART KYOTO/国際会館)

京都国際会館アネックスホール32番ブース「ときの忘れもの」で展示されている井桁裕子さんの「枡形山の鬼」。

この作品は舞踏家・吉本大輔さんを等身大に写し取った肖像人形で、桐のおがくずを糊で練って塑造した桐塑(とうそ)と呼ばれる、古来雛人形などに用いられた技法によって制作されている。
だが、吉本さんをただそのまま模したというものではない。それは、異様に変形された形象というにとどまらず、吉本さんの影像を通じて、精霊らしき不可思議な存在を召喚する依り代のように思えるのだ。この作品が「鬼」と称されることの意味は多義的で、そして深い。

繊細な感覚に裏付けられた高い技術と緊張感の長期にわたる持続を必要とする、その作業工程を想像すると、気が遠くなってしまう。

悠久の時の流れの中で厳しい風雪に耐えてきた老樹を思わせる、その存在感に言いしれぬ畏怖の念が喚び醒まされた。

長く延びた異形の右手、その末端。大地の奥深くを指し示す太い人差し指。


吉本さんの存在からして、すでにこの世のものを超越している。


2012年4月23日月曜日

竹中郁「留針(ピン)で捕へた煤ら ~デッサン集」




沈黙が凍りついてゐる
部屋は四角だ
花があって
顔があらはれて





空気は動かない
摩天楼(スカイスクレエパア)の間で
仮死のやうに
人が膚もあらはに流れる






地図はにじむ
とある時間を示す
赤い斑点
若さを記すもの






煤が紙のうへにとまる
小さな運命だ
指をよごす
黒い煙幕





軍用鳩の雲垢(ふけ)のやうな塊り
恐怖は建物の中にある
胸の笛を鳴らして
うろたへる彼等





鋏は夜を裁つ
上着を吊す壁の正しさ
うつむく女の肩に
時間はとまる





造園学校をめぐる朝餐
空にあがるタイプライタアの声声
桑の木がゆれる
支配人(マネエジヤア)の髭に


雨と闘ふバラの花
蹴合ひをした鶏の抜け落ちた羽を吹いて
風は
透きとほる雨外套(かっぱ)の中に女学生をみつけた


インクに影がある
森のやうに
電灯(でんき)をつけて
獣(けもの)たちもかけ廻る

10

電球の光を近づける
花の呼吸を調べる
夜を読む
深さを測る
時間(タイム)の秤のうへのこと

11

たち割れたコツプの極寒地帯に沿って
折れて支へる花の頭

12

夜は熱い紅茶茶碗の縁(ふち)に集まる
口唇(くち)を近よせながら
眼と時間とをはからつて
さつと一匙の雲をすくひあげる




(詩集『一匙の雲』〔1932年〕所収、ボン書店刊。テキストは『竹中郁全詩集』〔1983年〕より


『一匙の雲』初版書影(表紙写真はモホイ=ナジ)。編集・鳥羽茂、発行・ボン書店。



竹中郁「赤い蛾」

 机の上で、ラムプの位置を近よせたり遠のけたりする。壁にうつつてゐる自分の影が伸びたりちぢんだりする。
 影の中に、先刻(さっき)から、赤い蛾が一匹動こうともしない。丁度僕の心臓を食ひやぶってでもゐるかのやうだ。ラムプを消すと、僕の動悸のはばたくのがきこえる。暗闇にはつきりと、はげしく何ものかに負けてゐる音がきこえる。



(詩集『象牙海岸』〔1932年〕所収。テキストは『竹中郁全詩集』〔1983年〕より、ルビは一箇所を覗いて省略)


 

2012年4月22日日曜日

河野滋子展「ココロノオクノソコノソコ」 於、Gallery OUT of PLACE(奈良)







目を瞑ると
光の帯が瞼に残り
音の余韻と混ざり合う
空気の底に滞る 記憶の欠片
落ちた葉群の一葉一葉に
印画されたスナップショット
欠けたトルソの寛ぐ午後
苦と快との入り混じる
標本壜の離る空

クリプトン灯

垂れ下がる複数の 





ゆらめき 行き交い こだまする 
点を求める 視線の群れ

薬品棚の剥げ落ちたペンキ

音は
吸い取り 塗り直す

鼓膜の叫びを 優しく宥め 白い背中を愛撫する

引き延び 響き 重なる音と つま弾く指の舞う陰に
静もる靴群のかすかな寝息

光の波に洗われる 古い傷に被さる瘡蓋の瘤
皮膚に染み入るピアスのまばたき

天使の横顔 翳る髪 薄いレースの向こう側 火照る肌の白い息 

複写される思い出と 塗り変えんとする力の波に
包まれる

気体の粒

光の壁

音の雫

したたり落ちる 床 に佇む 靴の群 立ち上る 人いきれ

天使の髪の匂いに噎せる トルソ 

光の雫 浴びる息

次第に重なる 欠けた 知覚




・・・4.21、会場で催された音のイベント「コロコロコロガル...どこへ...どこまで」(演奏:いいだむつみ)にて、演奏中に降ってきた言葉。 


◆4/13(金)-5/13(日) Gallery OUT of PLACE(奈良)  
http://www.outofplace.jp/G.OoP/Gallery%20OUT%20of%20PLACE.html




2012年4月16日月曜日

佐川好弘展「orz」 於、GALLERY wks.(大阪・西天満)

佐川好弘(さがわたかひろ)さんが個展のタイトルにしている「orz」とは、落胆、失意、などのネガティブな心理状態を表すウェブ上で生まれた絵文字であるが、これまで感嘆詞か何かだと思っていた(音読すると感嘆詞的にもなるのでそのような意味もかけられているかもしれない)。なるほど、oが頭、rが腕と体、zが跪いた腰から脚になっている。

大量に並べられた「orz」型のオブジェは粘土を焼いて作られたもので、形や色、どれ一つとして同じものはなく、それはそのまま人の個性の喩となっている。ある「聖地」の土が練り込まれているそうな。

奥に立てられたベニヤ板のパネルの裏側には、陸上のトラック競技に使われるスターティングブロックが設置されているのだが、ここに足をかけて顔の前の小穴から外を覗いてみるとこの作品の印象が反転するという仕掛け。何がどう反転するのかは、体験してみるにしくはない。

ベニヤ板の裏側から見た光景。


これはイスラムの礼拝を思わせる光景である。
イスラムは神と人間とが一対一で向き合うことを通じて、自己の内面と向き合う宗教であるが、佐川さんもまた、今や得体の知れぬ神と化した資本主義に傷つき塗れながらも向き合うことで、自己の内面と向き合っておられる。そのアナロジーがまた興味深い。


それにしても、このorz、クッキーなどの焼き菓子に見えて仕方がなかった。美味しそうなのである。ふむ。型抜きして焼く、という点ではクッキーと同じではないか。



GALLERY wks. 2012.4.9~4.21

(撮影:片山和彦さん)

2012年4月14日土曜日

neutron night vol.2 「宣戦布告」 於、UrBANGUILD(京都・三条木屋町)2012.4.13

オープニング。仕掛け人の石橋圭吾さん(アートギャラリーneutron代表)によって画家の冬耳(ふゆじ)さんとザッハトルテのチェリスト、ヨース毛(よーすけ)さんが紹介される。舞台後ろの壁に用意された冬耳さんの絵はこの後様相が一変することに。

照明が落ちると紫外線ランプによって蛍光色の線が浮かび上がり、青く光る少年と暗く佇む少女の首とが赤い線で結ばれる。

少女の顔からは唐草様の蔓、そして体幹を徹った根。矩形に広がるオレンジの線・・・。

ゆらめきふるえるチェロの旋律が、移ろいつつ視覚化される絵との間に物語を差し渡す。

そして、二人の間に果実が生る・・・


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谷口和正さんによるインスタレーションと長谷川健一さんのアコースティックライブ。

溶断した鉄板で製した文字列を円形に曲げ、それらを溶接により球状に組み上げ、表面を研磨したり錆びさせるなどして仕上げた谷口さんのオブジェ。球状に凝集した言の葉が、内部から発せられる光によって歌声の響く空間に投影される。


それは、内なる光によって言葉を、思想を、作品を、あるいは未だ形ならざる何ものかを世界へと解き放つ人間存在の隠喩なのだろうか。光を発する者と、発せられた光を浴びる者、受ける者、それらの間にしか存在しない大切なものがある。
モノ、人、世界、地球、惑星、宇宙・・・、ミクロからマクロまでさまざまな位相に広がる想像力を受け容れてくれるインスタレーションである。


創造的感性ゆたかな人たちでいっぱいの室内には、静けくありながらも熱いアウラがみちていた。



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シンポジウム 「3.11後の世界で表現すること」 
~SNSとローカリズムとJAPANOLOGYの地平に~

左から、石橋圭吾(nuetoron代表)、大槻香奈(美術作家・イラストレーター)、金理有(陶芸作家)、酒井龍一(美術作家)、海野貴彦(画家・「生きてる実感」主宰)、任田進一(美術作家)、小吹隆文(美術ライター)、の諸氏。


3.11以降の作家としての主体のゆらぎ、どの街で、どんな部屋で制作するかという制作と場所をめぐる葛藤、ケイタイ・ネット・SNSの普及によるメディア空間の変容と知覚の変容、グローバルとローカル、メディアリテラシーなど、多岐に渡って展開していく議論を石橋さんが見事にコーディネイト。
打ち合わせなしのぶっつけ本番ながら、カオスに流れることもなく、フロアとの距離感はほどよかった。パネリストの皆さんは創造的で礼儀正しく心優しい人たちばかりなのだろう、愛のある交わりには心を打たれるものがあった。

ギャラリスト、作家、ライターというそれぞれの立場の違いによって際立つものを読むということが、こういったイベントの楽しみであるが、立場と個性をめぐってとりわけ対照的だったのは石橋さんと金さんと小吹さんである。

石橋さんは日本の資産家層に根強くはびこる文化の貧困、顕示的消費、資産運用といった問題への透徹した批判から、美術市場の変革に取り組んでいる。ここで注意が必要なのは美術市場の変革というのは、あくまで手段であってそれ自体が目標ではないということ。石橋さんが見据えているものはずっと遠く、そういった現前しているものの彼方にあるのだろう。
しかしギャラリストである立場上、ご本人の意図を超越したところで市場原理主義という原理主義を核とする新自由主義(ネオリベラリズム→以下「ネオリベ」)に回収されるリスクを背負っている。だが、そのようなリスクなど厭うことなく文化と芸術の復権に賭けている。存在を賭けているのだ。その果敢さ、意志の強さはそのまま石橋さんの個性を基礎づけているように思えた。

その一方、陶芸作家の金理有さんは議論の中で「新自由主義」という言葉を口にしていることからわかるように、ネオリベに対する批判的視座を自覚的に持っている。だがやはり造形作家である。言葉も口にはするが、それよりも何よりも、見る者の実存の闇を射貫く鋭い一つ眼で知られる作品によってその立場を表明しているのだ。ナショナリズムやリージョナリズム、あるいはアイデンティティをめぐる上からの安直な表象には決して還元されえないということを、金さんが作った作品そのものが物語っている。それは、表象のレベルで他者から主体化を強要されるという、現代社会で広く見られる抑圧をはねのける潜在的な力を宿しているようだ。それを基礎づけているのは、金さんの作家としての存在論的強度であろう。(下の写真は「陶芸の提案2011」にて撮影)

もう一人、小吹隆文さんは美術ライターとして関西一円、津々浦々、どんな無名の作家の展示であろうと差別無く足を運び、長年にわたって作家たちの仕事を紹介してきた草の根のライターである。まさに草の根という言葉がぴったり。その仕事は多くの作家やギャラリストから絶大な信頼を得ており、それゆえの存在論的な説得力がある。
ただ批評行為という言説のレベルで小吹さんをみると、実に控えめな印象を受けるが、それはご自身の立場と個性に基づいて選ばれた態度なのだろう。


今回のイベントでひとつだけ物足りなかったのは、相手の立場性を揺るがすほど寸鉄の利いた言葉を投げかけ、それに対して己の実存を賭けて反論する、といったスリリングな場面がなかったこと。

無い物ねだりかもしれないが、もう一人二人暴れん坊がいてくれたらさらに面白かったろうに、と思ってしまうのはしょうがない。

電車の時間が気になり、終了少し前に帰らねばならなかったので質疑応答や打ち上げに参加できなかったのは残念至極。