2017年7月31日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』54号


表紙装画:栗棟美里《影のわずらい》

【特集:私の詩と詩法】
平川綾真智
「新しい主体とインターネット ―webと詩の社会学―」(論考)
「遠足」(詩)

【詩】
小笠原鳥類「パンダ、とても安全な」
松尾真由美「霞と霧と森のあたりで」
高塚謙太郎「尖端のふるえ」
広瀬大志「制作」
渡辺めぐみ「昼の岸」
京谷裕彰「ちんぴら鍋」
海埜今日子「海の馬に乗って」」
藤井わらび「天の川」
小島きみ子「走り書きのように」

【書評】
小島きみ子「現代詩というPower」

【あとがき】




◆2017年7月30日発行
 A5判48頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで

2017年7月26日水曜日

ヤスパース形而上学の根本概念、〈包越者〉とは?

私に対して対象的になるものはすべて、われわれが生きているわれわれの世界という相対的に全体的なもののなかで、そのつどつなぎ合わされている。われわれはこの全体者を見、そのなかで庇護されている。この全体者は、われわれのの知のいわば一つの地平のなかに、われわれを包んでいる。
それぞれの地平がわれわれを閉じこめ、それ以上の展望を拒否する。それゆえわれわれはそれぞれの地平の地平をのりこえておし進んでゆく。しかしわれわれがどこに到達しようと、そのつど達成されたものをたえず閉じこめるところの地平が、いわば一緒に進んでゆく。地平はつねに新たに現存しているのであって、それが単なる地平であって終結ではないがゆえに、あらゆる窮極的な滞留を断念することを強いる。われわれは決して、制限づけてゆく地平がそこで終わりになるような立場を獲得することはないし、また、今や地平なしに閉ざされていて、それゆえもはやそれ以上を指示することのないような全体が、そこから概観可能になるであろうような立場を獲得することはない。(中略)存在は、われわれに対しては閉ざされないままであり続けるのであって、それは、すべての方向にわたってわれわれを無制限のところへと引っぱってゆく。存在はつねに繰り返して、そのつど限定された存在としての新たなものをわれわれの方に現れさせる。

われわれの認識作用は、(われわれが直接にそのなかで生きているところの)われわれの世界という無限定の全体から、(世界のなかで現れて世界からわれわれの方に歩み出るところの)限定された対象へと進み、そこから意識的にその諸地平において把握された存在のそのつどの体系の形での世界閉鎖性へと進んできた。この歩みのそれぞれにおいて、われわれには存在が現前しているが、しかしそのいずれをもってしても、われわれは存在そのものを所有しているのではない。というのは、どの場合にも、獲得された存在の現象をこえて存在のなかへとこえ進んでゆく可能性が示されるからである。限定された存在と知られた存在は、それ以上のあるものによってつねに包越されている。どの場合にもわれわれは、ある特殊なもの(存在の全体というそれぞれの思惟された体系もまた特殊である)を積極的に把握するに当たっては、同時に存在自体ではないところのものを経験する。

この経験がわれわれに意識された後で、われわれはもう一度、存在に対して、すなわち、すべてのわれわれの方に現れてくる現象が開顕されるにともなってそれ自身としてはわれわれから退いてゆくところの存在に対して、問いを発する。この存在、(つねに狭隘にする)対象でもなければ、(つねに局限してゆく)地平のなかで形成された全体でもないところのこの存在を、われわれは包越者と名づける。

◆カール・ヤスパース『真理について 1』「第二序文」より(林田新二訳,2001年[第二版],理想社[原書は1947年]) ※太字による強調は引用者。





2017年7月20日木曜日

後藤和彦「野原」「未来」(詩集『明日の手紙』所収)

「野原」

レタスを食べ過ぎて
へそからスイカが生えてきたってのは聞いたことあるけど
紙飛行機を作りすぎて
家に帰る道を忘れてしまったなんて聞いたことない
友達になってほしいとは思うけど
カーテンレールでターザンするのはやめてください
ぼくはおこられたくないからね
氷の上をスケートしていく背中を見つめながら
これはもしかしたら恋かしらと思う
だってあのぼんぼりのついた帽子がとってもかわいいんですもの
そう考えてこれはいけないぞと思う
電話をかけてみたらそっちは夏のそうで
ぼくらの見てるものは
虹でもなんでもないそうだ
だったらいい匂いがいっぱいすればいいのに
自分の手がたんぽぽのわたげみたいになるように
はにかんだのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「未来」

地球は遠いから
海の中は青でいっぱい
絵の具の底から
声が沸いてる

未来の中にはみずたまりがあって
そこにちいさなひとひらのような
うすももの花
未来にしか咲かない
ひとつだけの花

今にもきっと声がおちてくる
水いろの炎が街をつつんで
夜になっても月は来なかった
遅れているらしい
だれかがいっても
みんな聞かない
忘れていたから

夜の空は水色だったか
あかねのようなあまさがあったか
しるせないようなきむづかしさもあったか
目を開いているとそのことが聞ける

だれも水たまりの中では 足を動かさない
未来に歩いていると声がふるえる

地球のはしに だれかのための
ちいさな橋が渡されている

まるいようなそうではないこの星の
そのさきまでを歩くには
湿った靴がないとぼくたちは歩けない

靴がほしいと
子どもが泣いてる

きのうに見あげられながら


(後藤和彦詩集『明日の手紙』所収、2016年、土曜美術社出版販売刊)





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(前略)
ここには現存在の夢語りが衰えてしまって久しい世界の、シビアな危機意識と、それでもなお続く人生、そして未来世代への信頼に満ちた落ち着きがある(中略)。
 彼が住処とするのは宮沢賢治のようでいて、グリム兄弟や倉橋由美子のような童話の世界であるのだろうが、いずれにもせよ「レタスを食べ過ぎて/へそからスイカが生えて」(詩「野原」)くるような事態が日常化した世界である。彼の現実感覚が繰り出す言葉は、消え去りゆく現在と、崩れゆく世界への楔でもあることを銘記しておこう。我々、誰しもが目の前にあると信じて疑わない世界と、彼が生きる童話の世界とが重なる時空にぽっかりと開いたのが、彼の詩群である。
 『マルメロ硯友会』『紫陽』『酒乱』などの詩誌で長年にわたってすぐれた活動を続けてきた彼の活動姿勢には、美学的判断の基準として無意識裡に詩人たちの理性を蝕む美学の体制を突き抜ける、潔さが一貫してある。多くの表現者たちが囚われている、権威化した諸価値の体系(オトナの体系)は、そもそも芸術一般が擁護する価値とは真逆を向いているのだから、共感が誘われる地点から我々の実存が問われることになる。
 「未来の中にはみずたまりがあって/そこにちいさなひとひらのような/うすももの花」(詩「未来」)、それが「未来にしか咲かない」ことを我々詩人は誰も疑わないだろう。だが、「だれも水たまりの中では 足を動かさない」のだ。それがなければ歩くことができないという「湿った靴」はどこにあるか?

(京谷裕彰「子どもとオトナ」より[『詩と思想』2017年4月号所収])




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