2017年9月18日月曜日

冨士原清一「魔法書或は我が祖先の宇宙学」

見よ 迷宮の縫目から致命傷の漆喰が現はれて神秘な笑を笑ひながら死んでゆく 三角戸棚のなかで逆になつた女魔術師はその九角形の正体を見せてすべての植物性襤褸とともにそれを喝采する ひとりの天使は肉体の内部の見えない螺旋に悩まされて月夜に青い痣の疑問符号をつけた苔蘚類の侵入を許可する これは月夜における青鮫の昇天である 鉛の潜水鳥よ 私は汝を VENUS への全権委員として派遣したのであるが汝は遂に三日月の横顔に到着した これは汝の霊魂論の紛れもない過失であつた 何ものかが壁のなかで汝のために陳述する この陳述は極めて無愛想であるが私を喜ばせるので有利である 地獄は青色の七個の円筒を出して馥郁たる煙を送つてくる けれども氷とその一党は不在である 紅縞瑪瑙は慧星の線条ある軌道を通過せんとして真珠の哨兵に発見される 彼は真珠の優美なる射撃を受けて ZENITH に於て激しく血液を流す このことは日蝕五分前の MUSE の写真には現はれなかつたが日蝕五分後の MUSE の写真のなかに明瞭に反応したのである 私はこの写真を芥子粒の王子に贈つたとき彼は皇族画報を眺めてゐたのであるがこの美しい縞馬の写真を眺めたとき彼のカスケット帽は至極満足に跳ねた このとき蝗の王国は少しくその赤味を帯色する そして香料の雨がこの王国の上を通過して奇態な漂泊作用を行ふ この作業は長時間に渉つて継続する それ故雨彼等の喋る驚くべき言語は月を乾燥させるかと思はれる これらは真実最新の弾型漂泊素であるのか 私は彼等の発展の犠牲である 既に孔雀石の上に縫針の避雷針と截屑の馬具は装塡された これは思想の豪雨の日の細菌類の巧妙なる逃亡である おお太陽も亦彼の若い情婦を殺害して逃亡する 蒼白なる科学者よ あの層雲の伏魔殿に注意し給へよ 最小口径砲と羽飾のついた鳥糞射出口及び潜伏処の望遠鏡 これらは三位一体である この明快な真理の微風の後で科学者は捕虫網の如く微笑する 彼は彼の微笑の網を透して遠く塵埃のなかに跳ねてゐる一個の舞踏靴を認識する この舞踏靴それは全く彼の母親コンパスに相似形 そして彼の微笑の裂目其処から彼の ENNUI は遊歩してこの舞踏靴を食べる 白色の手袋は黒色の手袋と抱擁する そして石綿の裸体はいま一度天使の体内で気絶する ああ今日私が通過したとき飾窓のなかにゐた頭と腕のない MANNEQUIN よ 明日再び私が通過するとき汝は巨大なる截断鋏で飾窓のなかに切腹してゐるのである 宏壮なるスケート場の夜 其処では氷結した人間の影等が氷の喝采のなかを滑走してゐる 死者等は永遠に地下を旅行する 彼等の懐中の緩漫にして正確なる歩度計 それは裏面もない一面の MEDAILLON 完全の法典である 巨大なる OMBRE の胸の鎧戸からは無数の灰色の傴僂達が生まれてくる 彼等は一様に列をなして水流の浅瀬を遊歩するが再び OMBRE のなかへ還つてゆく 風塔の上の風信子よ 彼等はこのことは汝よりも更に優秀なる菫の耳においても同様であつた 果してこれは OMBRE の微笑の幽霊であつた 私の眼球のなかでは熱風の密会が急に静かになる この急激な変化は一体何の合図であらうか風信子よ 威しい天体の黙示の下に最早私は硫黄の皇帝と硫黄の交換を終了したのであらうか 見えない仙境では一羽の鶯のために造られた代理石の壁が垂直に成長してゐる 垂直の論理は正しいか正しくないかそれが極めて緩漫な速度をもつて天に到着してゆくのが分かる けれどもこの壁の如何なる成長の瞬間においても常に頂上を好む鶯は壁の頂上で鳴く 鶯を理解しない壁のプロフィールは美しい 美しい壁よ 汝の内部は矢車菊と苜蓿と美人相 汝の外部は美人草と苜蓿と矢車菊 そして藁茎の BAGUETTE をもつた仙境の番人は右手の手袋だけで満足する これが簡単の仙境の神秘の完全の永遠 簡単の仙境の神秘 SIMPLICITE の神秘 一個の煙草入のなかの世界 一個の煙草入である 見給へ 北極から還つてきた植物達は私の玄関に到着したとき既に死亡してゐる これは数千年以前の土曜日 SABBAT において既に魔王に依つて決定されてゐた彼等の宿命であつた このことに関しては未だ体内にゐる紅鶴の雛さへも知つてゐる 然し彼等の出発のときよりも遙かに嶄新な流行色を示してゐる 彼等の襟飾の上には美麗なる彼等の鼻が認められた それは彼等の霊魂と等しい色彩をしてゐる そして第一等級の星は何ものもそれを見てゐない時間に彼等の頭上に輝き彼等の肩の上の発見の火災の痕跡を照らす 他の星等は茴香の饗宴に招待される けれども彼等がその席上で見るものは只だ黄色の火災のみである 私は備忘の瓦斯に就て語らんとする そして私は反射鏡の下で偶然に滑り落ちた猥褻なる写真のなかに 黒色の肉襦袢(マイヨオ)をつけた今日の死をば容易に発見する 彼の女の宝石入の爪は瞬間地上を照らす 彼の女の叉になつた銀の足は死後の迷路 そして彼の女の背後に光の尾が遠く天上の星に連なつてゐる 月の花粉が化粧した彼の女の顔は彼の女の思想 最早彼の女の顔と月と判別することは出来ない これは無思想の典型 明日の彼岸の雪崩 そして覆へされた春の寝台の羽毛の散乱のなかに彼の女がローレライの歌を歌ふとき銀河の河底深く逆さに生へた樹木はゆらゆらと彼の女に挨拶する 彼の女は亦人体学の総和が睡眠と水であることを歌ふ このとき彼の女の姿は金字塔の最高処で鳥糞の上に坐つた最新のセラファンである 或る初夏の朝 私は品行優良なる薔薇が羅針盤に採用されるのを目撃した この薔薇の祖先は嘗つての天啓発揚派であつた この私の理解は正当であつた 何故ならこの日祭礼の雲は私の頭上で静かに円舞し五色の雨を降らしたのであつた いま私が開いた鏡の底の AVENTURE の窓よ 私が眼にアネモネの花びらを押しあてて手探ぐりで小鳥の備忘録を探しに出かけるのは此処からである 私は家具の腕をもつた種々なる妖怪達に出会ふが此処は均衡の崩れた精神の城の内部の廻廊である故に彼等は私の忠実なる召使達に相違ないのである 突然私の口のなかで真珠の如き神が蜂鳥の現行犯に向つて頬笑むや否や忽ち溶けてしまつた 暗らい暗らい そしてこの暗黒のなかで廻廊の末端において窪む一個の貝殻は人間の最初の完全な論理を形成する またこの暗黒のなかにおいても右手にプレイアッド星座のみを認識して歩行を続けてゐたひとりの旅行者は数時間の後に神秘な獣帯光の下に彼の左手に砂漠を発見する 彼は異常なる秩序をもつて組織された仙人掌の社会に異常なる緊張をもつて少しく接近する 忽ち彼は仙人掌から黒色の水の射撃を受ける 驚愕して彼は空を見上げる 然し聞くものは只だ彼の発狂せる毛髪と空の円形劇場にみちた星の紳士の笑声のみである おお天上の星星よ 彼の肩の上に刺繍された彼の運命をも判読し給へよ 彼の過去は権門の紋章の上のあの黴の笑靨 そして彼の美しい未来はあの鏡のなかに見える珊瑚礁における見習潜水夫 そして滑石含有料の莫大な石鹸は彼の乳母であつた 私の舌が銀の匙である私は私の舌が銀の匙であるかの如く歌を歌ふ 今日霰は如何なる思想を帯色してゐるであらうか また風の商会は如何なる組織のもとに動いてゐるのであらうか 嘗つて狩猟の女神の衣装に落雷したときその截断された女神の衣装の上に私が雷鳴からの通信を読むだのは事実である 然し最近私が欝金草の秘密結社において受信した稲妻の波長は失語症のそして転倒語法にみちた人間の声に近いものであつた DOUBLE ETOILE 彼も亦最早出現しない 羽毛の小鳥と鉛の小鳥の墜落の等しい現世紀において最早私に親密なるものは汝硝子の ROMEO 汝金剛石の JULIETTE 私の磁針は狂ひ出す 私は太陽のなかに眠る薔薇色の昆虫(実はそれは薔薇色の卵であるのだが)を刺さんとして彼の胸を突き刺す ROMEO を見る 姫蜂よ 私が君に愛想するのはかかるペリカンの時間においてである。それは時間が全く白金線である時間 このときクレオパアトルを乗せて疾走するヨットは白金線の波打際に沿つて岬を旋廻した 春の海洋は白い クレオパアトルの倦怠は白い 私の上方で白色の雲は急速に動く それは虚無の電気である 見よ 真空のなかに犯罪がある 金モオルの王子が白金線で絞殺されてゐる けれども犯罪者が硝子であると考へたのはイオンの女王よ 貴女の早計であつた どうして私が硝子であり得やうか 貴女は私の夢が如何なる指紋をも残さないといふこととこの犯罪にある類似(例へば蝶と花粉の如き)を見出さないであらうか また私の夢がどうして生きてゐないだらうと言へるだらうか 私の夢は私と全く無関係に生きてゐる 私においてさえ屢々彼が私を殺害するのではなからうかと暗示を受ける程である 風の如きまた自在風車の如き彼の理性は全く彼の理性 彼は理性のみである 澄明な発狂の夕暮に彼の光る ABSENCE は彼の真理の汚点である おお眠れ すべてのハムレットの霊魂をもつた草花等よ さて私は七里靴を穿いた そして ZEUS よ 私は汝に面会する((まあ この星月夜に何たる夥しい溶岩の落下))この光景が私に閃いたときそれは汝の巨大なる頭の円筒から生誕するあらゆる天体達であつた 太陽就中太陽は汝の最大の傑作であつた 汝の頭の円筒のなかの凄じい機関よ 汝の巨大なる頭の永遠の CHAOS よ 私は睡眠の青白いトンネルをぬけて汝の頭の永遠のなかに十字の雪の降つてゐるのを認める人間である いますべての不思議なる射撃は行はれる 然しそれらは直ちに理解されるのである



(冨士原清一詩集『魔法書或は我が祖先の宇宙学』所収、鶴岡善久 編、1970、母岩社/初出は『詩と詩論』第7号、1930.3)
※本文中のルビはBloggerフォーマットの都合上、当該語彙の直後に小フォントで()に入れて表記した。

今日、9月18日は瀧口修造や山中散生とともに、戦前期の日本にシュルレアリスム詩を普及させた詩人・冨士原清一の命日である。
1908年(明治41)1月10日、大阪市大淀区に生まれ、旧制北野中学、法政大学仏蘭西文学科を卒業。1937年(昭和12)~1942年まで第一書房編輯部に勤務したが、親しい同僚にも自分が詩人であることを語らなかったという。その後、国策調査・研究機関である太平洋協会に勤務。太平洋戦争末期に神戸から出征し、1944年9月18日に戦死した。
瀧口修造、山中散生らとともにシュルレアリスム詩運動の中心にいながら、伝記的事実には分からないことが多い。

暦を調べたところ、冨士原が亡くなった日の月相は新月であった。

※鶴岡善久「冨士原清一論 ー超現実から危機意識へ」(澤正宏・和田博文 編『日本のシュールレアリスム』1995、世界思想社)




2017年9月15日金曜日

瀧口修造「風の受胎」

うつくしい燈のある風が
樹の葉を灼きつくす
夜の巨大な蝶番いが
お前の若さを揺るがす

石花石膏の夜
不滅の若さが翅のように
閉じそして開く

夢がとどろき
星の均衡が小枝から失われた




(『瀧口修造の詩的実験1927-1937』所収、1967、思潮社/初出は詩画集『妖精の距離』1937)

あるとき「おふでさき」のように意識に降下してきたヴィジョンを書き留め、一気に詩作品に仕上げたその中に、「蝶番」という詩語が入っていた。
そのときから10年あまり遡った日に読んだはずのこの詩が、無意識の領野に居場所を定めていたのだろうか。瀧口のこの大部な詩集を最初から最後まで通読したのはその一度きりで、以後は目当ての詩だけを鑑賞したり、そこはかとなくめくったページの詩を読むばかりだったのだが、2017年9月の今日までこの詩のことは記憶から消えていた・・・。






2017年7月31日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』54号


表紙装画:栗棟美里《影のわずらい》

【特集:私の詩と詩法】
平川綾真智
「新しい主体とインターネット ―webと詩の社会学―」(論考)
「遠足」(詩)

【詩】
小笠原鳥類「パンダ、とても安全な」
松尾真由美「霞と霧と森のあたりで」
高塚謙太郎「尖端のふるえ」
広瀬大志「制作」
渡辺めぐみ「昼の岸」
京谷裕彰「ちんぴら鍋」
海埜今日子「海の馬に乗って」」
藤井わらび「天の川」
小島きみ子「走り書きのように」

【書評】
小島きみ子「現代詩というPower」

【あとがき】




◆2017年7月30日発行
 A5判48頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで

2017年7月26日水曜日

ヤスパース形而上学の根本概念、〈包越者〉とは?

私に対して対象的になるものはすべて、われわれが生きているわれわれの世界という相対的に全体的なもののなかで、そのつどつなぎ合わされている。われわれはこの全体者を見、そのなかで庇護されている。この全体者は、われわれのの知のいわば一つの地平のなかに、われわれを包んでいる。
それぞれの地平がわれわれを閉じこめ、それ以上の展望を拒否する。それゆえわれわれはそれぞれの地平の地平をのりこえておし進んでゆく。しかしわれわれがどこに到達しようと、そのつど達成されたものをたえず閉じこめるところの地平が、いわば一緒に進んでゆく。地平はつねに新たに現存しているのであって、それが単なる地平であって終結ではないがゆえに、あらゆる窮極的な滞留を断念することを強いる。われわれは決して、制限づけてゆく地平がそこで終わりになるような立場を獲得することはないし、また、今や地平なしに閉ざされていて、それゆえもはやそれ以上を指示することのないような全体が、そこから概観可能になるであろうような立場を獲得することはない。(中略)存在は、われわれに対しては閉ざされないままであり続けるのであって、それは、すべての方向にわたってわれわれを無制限のところへと引っぱってゆく。存在はつねに繰り返して、そのつど限定された存在としての新たなものをわれわれの方に現れさせる。

われわれの認識作用は、(われわれが直接にそのなかで生きているところの)われわれの世界という無限定の全体から、(世界のなかで現れて世界からわれわれの方に歩み出るところの)限定された対象へと進み、そこから意識的にその諸地平において把握された存在のそのつどの体系の形での世界閉鎖性へと進んできた。この歩みのそれぞれにおいて、われわれには存在が現前しているが、しかしそのいずれをもってしても、われわれは存在そのものを所有しているのではない。というのは、どの場合にも、獲得された存在の現象をこえて存在のなかへとこえ進んでゆく可能性が示されるからである。限定された存在と知られた存在は、それ以上のあるものによってつねに包越されている。どの場合にもわれわれは、ある特殊なもの(存在の全体というそれぞれの思惟された体系もまた特殊である)を積極的に把握するに当たっては、同時に存在自体ではないところのものを経験する。

この経験がわれわれに意識された後で、われわれはもう一度、存在に対して、すなわち、すべてのわれわれの方に現れてくる現象が開顕されるにともなってそれ自身としてはわれわれから退いてゆくところの存在に対して、問いを発する。この存在、(つねに狭隘にする)対象でもなければ、(つねに局限してゆく)地平のなかで形成された全体でもないところのこの存在を、われわれは包越者と名づける。

◆カール・ヤスパース『真理について 1』「第二序文」より(林田新二訳,2001年[第二版],理想社[原書は1947年]) ※太字による強調は引用者。





2017年7月20日木曜日

後藤和彦「野原」「未来」(詩集『明日の手紙』所収)

「野原」

レタスを食べ過ぎて
へそからスイカが生えてきたってのは聞いたことあるけど
紙飛行機を作りすぎて
家に帰る道を忘れてしまったなんて聞いたことない
友達になってほしいとは思うけど
カーテンレールでターザンするのはやめてください
ぼくはおこられたくないからね
氷の上をスケートしていく背中を見つめながら
これはもしかしたら恋かしらと思う
だってあのぼんぼりのついた帽子がとってもかわいいんですもの
そう考えてこれはいけないぞと思う
電話をかけてみたらそっちは夏のそうで
ぼくらの見てるものは
虹でもなんでもないそうだ
だったらいい匂いがいっぱいすればいいのに
自分の手がたんぽぽのわたげみたいになるように
はにかんだのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「未来」

地球は遠いから
海の中は青でいっぱい
絵の具の底から
声が沸いてる

未来の中にはみずたまりがあって
そこにちいさなひとひらのような
うすももの花
未来にしか咲かない
ひとつだけの花

今にもきっと声がおちてくる
水いろの炎が街をつつんで
夜になっても月は来なかった
遅れているらしい
だれかがいっても
みんな聞かない
忘れていたから

夜の空は水色だったか
あかねのようなあまさがあったか
しるせないようなきむづかしさもあったか
目を開いているとそのことが聞ける

だれも水たまりの中では 足を動かさない
未来に歩いていると声がふるえる

地球のはしに だれかのための
ちいさな橋が渡されている

まるいようなそうではないこの星の
そのさきまでを歩くには
湿った靴がないとぼくたちは歩けない

靴がほしいと
子どもが泣いてる

きのうに見あげられながら


(後藤和彦詩集『明日の手紙』所収、2016年、土曜美術社出版販売刊)





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(前略)
ここには現存在の夢語りが衰えてしまって久しい世界の、シビアな危機意識と、それでもなお続く人生、そして未来世代への信頼に満ちた落ち着きがある(中略)。
 彼が住処とするのは宮沢賢治のようでいて、グリム兄弟や倉橋由美子のような童話の世界であるのだろうが、いずれにもせよ「レタスを食べ過ぎて/へそからスイカが生えて」(詩「野原」)くるような事態が日常化した世界である。彼の現実感覚が繰り出す言葉は、消え去りゆく現在と、崩れゆく世界への楔でもあることを銘記しておこう。我々、誰しもが目の前にあると信じて疑わない世界と、彼が生きる童話の世界とが重なる時空にぽっかりと開いたのが、彼の詩群である。
 『マルメロ硯友会』『紫陽』『酒乱』などの詩誌で長年にわたってすぐれた活動を続けてきた彼の活動姿勢には、美学的判断の基準として無意識裡に詩人たちの理性を蝕む美学の体制を突き抜ける、潔さが一貫してある。多くの表現者たちが囚われている、権威化した諸価値の体系(オトナの体系)は、そもそも芸術一般が擁護する価値とは真逆を向いているのだから、共感が誘われる地点から我々の実存が問われることになる。
 「未来の中にはみずたまりがあって/そこにちいさなひとひらのような/うすももの花」(詩「未来」)、それが「未来にしか咲かない」ことを我々詩人は誰も疑わないだろう。だが、「だれも水たまりの中では 足を動かさない」のだ。それがなければ歩くことができないという「湿った靴」はどこにあるか?

(京谷裕彰「子どもとオトナ」より[『詩と思想』2017年4月号所収])




自動代替テキストはありません。

2017年3月14日火曜日

詩誌『EumenidesⅢ』53号


表紙装画:栗棟美里《キャベツ/Cabbage

【特集:私の詩と詩法】
平川綾真智
「楽譜という詩学」(論考)
「プレクトラムf」(詩)

【論考と詩】
小島きみ子
「現代詩の広い通路へと」(論考)
「〈他者〉の痕跡」(詩)

【詩】
広瀬大志「最後の詩篇」
小笠原鳥類「安全で安心なアマゾン」
松尾真由美「溶けて泳いで咲いていて」
高塚謙太郎「白い冬」
海野今日子「アブサン土偶」
京谷裕彰「いまにバキュームカーが逆噴射するぞ」
藤井わらび「99%」
海東セラ「羽ばたき」
山本崇太「アンジェイ"セシル"ノワレト自伝」
小島きみ子「僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本」

【詩誌評・詩集評】
小島きみ子「年末から新年にかけて読んだ詩集と詩誌」「未来の読者に手渡す詩集」

【あとがき】

◆2017年3月20日発行
 A5判64頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで

2017年3月8日水曜日

ウィリアム・モリス『民衆の芸術』(1887年)より


芸術がなかったならば、われわれは多くの時代についてほとんど何も知らないことになったであろう。歴史は、破壊を行ったがゆえに、王様や武人のことを記憶している。芸術は、創造を行ったがゆえに、民衆を記憶しているのだ。

◆ウィリアム・モリス『民衆の芸術』(中橋一夫訳、1953年、岩波文庫〈原書1887〉)


2017年3月7日火曜日

「われわれのデモクラート美術家協会について」(1952年)

創造の精神は本来来(くる)ものをも妨げず、何ものにも妨げられない独立と自由の精神から生まれるもので、これこそ形式や流派を離れて本質的に前衛の精神なのである。
われわれがかかる眼で日本の画壇を眺める時、果して画壇はわれわれの創造の精神を、より自由に解放してくれる場所であろうか。
大公募展の組織とその組織が必然的に生み落した政治的な
かけひきはわれわれの独立精神をおびやかし芸術家に自由の放棄を迫って少しも怪しまない状態である。
このような
創造とはおよそ縁のない、むしろ逆方向の精神に依存しながら制作することの如何に困難であり如何に絶望的なものであるかを我々は身をもって体験して来た。
われわれははじめ画壇の中にあって志を同じくするものと協力し、漸進的に組織の上部に働きかけ画壇を少しでもよい方向にむけようと試みた。しかしその考えが如何に甘いものであるかわれわれはやがて知らねばならなかった。こうした世界にあっては善意に根ざす協力は不可能であり、真摯な努力は隠然たる彼等の組織力にいつか併呑され、われわれの叫びは彼等の嘲笑の中にかき消されてしまったのである。そこでわれわれは一歩後退することを余儀なくされ、沈黙と孤立をまもりとうそうと試みた。これはつねにわれわれの良心が許し得る最後の場所でなければならない。しかしここでもわれわれは包囲され、無言のままほうむり去られてしまった。
審査、そして落選、彼等の画風――それは暗黙のうちに会を独裁し、一切の革新的なものを異端視する形式主義あり、すべてを独裁する黙契であるが、その画風にそわないものは会場で民衆の視線と語りあわない前に、闇から闇へとほうむり去られたのである。
もしこれ以上われわれが描きつづけるとすればわれわれは画壇にあって名声を獲るために芸術家の精神を放擲するか、妥協をきらって一生日かげで独り描きつづけるかのいずれかを撰ばねばならないだろう。前者は
創造精神を放棄した以上、画家であることをも放棄したのであり、後者はあまりにも消極的であって、彼の画面からは、恐らく現実逃避の弱々しさと、造形性貧困以外の何ものも生まれないだろう。
そこでわれわれは第三の道を撰んだ。この道こそ条件の中で、積極的な創作活動をまもる唯一の道であることをわれわれは過去の経験と、思索と、魂の希求と、敗れ去ったひとりひとりの歴史から確信するに至ったものである。
われわれは、われわれの創作活動をまもる組織を、最後までまもりとうすため、少しでも多くの協力者と手をつなぎたい。

デモクラート美術家協会
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※漢字・仮名遣いは現在通用のものに改め、読みやすくするため()内に読みを補ったり、明らかな誤植を改めるなどしている。

写真は久保貞次郎『瑛九と仲間たち』(1985年、叢文社)より。

2016年12月6日火曜日

「超現実と実存」(グループ展「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」コンセプトテキスト)

 〈私〉や〈他者〉を通じて〈世界〉を、あるいは〈世界〉から〈私〉や〈他者〉を知覚したり認識したりすることを通じて、人や人になぞらえられた影像を絵画に描出する行為は古今東西、広く行われていることであり、このような行為は無意識の領域に深く根ざしている。それだけに、感覚だけで了解できることもあれば、描画という行為や絵画における現象を読み解く行為を経なければ意味が浮かび上がらないこともある。
 本企画のタイトルは「私、他者、世界、生――現実を超える現実――」であるが、一人称〈私〉に続く言葉が人称を特定しない〈他者〉であるのは、自我を客観視する〈自己〉であるよりも前に、主体としての〈私〉であることが先立つのに対し、〈他者〉とは〈あなた〉であっても〈彼(女)〉であっても、〈誰〉であっても、〈私〉からは隔たった存在であることによる。ここに何を代入しようと自由なのだ。あるいは、偶然や必然がここに何かを代入する。それならば、〈他者〉とは人形や置物であってもいいどころか、人間や生物の影像である必要すらないかもしれない。

 ところで、日本語ではシュルレアリスム surréalisme(仏語)から派生した「シュール」という言葉が、非現実な、いわくいいがたいものを表す俗語として定着しているが、俗語化したことによってその潜勢力がスポイルされてしまった感がある。しかし一方でその軽さは、〈かろやかさ〉としてもあり、〈遊び〉心に浸透するものや刺激するものを指す言葉として感性になじみやすいものでもあった。それゆえ、ときに私たちの「軽薄さ」にもフォーカスされざるをえない。
 そのような俗語的なニュアンスとは違い、本来、シュルレアリスムとは非現実ではなく現実を超える現実、つまり〈強度の現実〉を志向する芸術思潮であるとされる。これはどういうことか。
 ここでは、身の周りに広がる、あるいは目の前の、いわゆる「現実」を超えてある、画面の中の現実のことをひとまず〈絵画における強度の現実〉とよぶことにしよう。
 そして〈絵画における強度の現実〉はどこまでも〈私〉と〈他者〉、あるいは〈私〉と〈世界〉との関わりのなかにあるため、〈実存〉をめぐる哲学の圏域と否応なく接している。〈実存〉とは事物存在とは異なり、本質に先立つ真実にして現実なる人間存在の独特のあり方、と一般には解説されているが、潜在意識の内奥の、その暗がりにあって人間の判断や行動をつかさどるもの、とするヤスパースやメルロ=ポンティの〈実存〉概念をとりわけ私は想定している。
 ところが、シュルレアリスムを〈実存〉という問題系において思考する議論はほとんど見受けられない。フランス現代思想において「実存主義」の立場からサルトルがブルトンを批判したことの残響を引きずっていることや、美術史が20世紀の出来事として整理していることにもよるだろうが、それよりも何よりも、シュルレアリスムを扱うとき、人はえてして客体として扱える距離を置くという態度を取りがちになる。なぜなら、実存に反照することへの恐れが、それを実存の問題として容易には扱えなくしてしまうという心理に起因するからだ。作品を鑑賞したり作品について語ったりする〈私たち〉が、他人事ではないと感じたり、無意識に跳ね返るものを感知して竦んでしまった経験は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
 だが、五感で感受するインスタレーションとは違い、作品と観者との間に適切な〈心的距離〉を確保しやすいことが絵画の特質であるという点は、シュルレアリスム絵画とて同じである。ただ、シュルレアリスム絵画には境界をゆさぶる力が顕著なため、関心を誘発しながらも最終的には接触させない(できない)距離を置くのがよい、とされるセオリーをも、しばしばゆさぶってしまうのだ。しかし、それでもなお〈遊び〉や〈かろやかさ〉はシュルレアリスムの大きな魅力であり、押しつけがましさ、僭越さとは逆の方を向いている。
 だとすると、ここには絵画の本質に迫る重大な何かが潜んでいるのではないか。これをキュレーターからの問題提起として受け取っていただきたい。

 ともかく、見た目がそれっぽい、といったビジュアルがシュルレアリスムを条件付けているのでないことは、明言しておきたい。また、動きあるものを固定する箍をつねにすり抜けるため、定義付けにもなじまない。ゆえあって定義がなされるとしても、それはいつも仮のものにとどまらざるをえない。シュルレアリスムとは、その人のなかではいつでも始まり、いつでも終わり、そしていつでも何度でも再開するものである。参照項としても生き方の哲学としても。

 今回ここに集う女性作家たちは、シュルレアリスム(的)か否か、という自覚の有無にかかわらず、みな〈絵画における強度の現実〉を制作において実践している。曖昧なままに厳格な、何かを描いているのだ。
 ゆえに、作品が「シュルレアリスムか」「シュルレアリスムでないか」といったことは大した問題ではないばかりか、主眼はそこにはない。
 それぞれの作家の営為を通じて、〈絵画における強度の現実〉、そして〈実存〉について考え、すでにあるものとは異なる視点から世界を再考し、異なる視点へと私たちの問題意識の領野を広げる機会としたい。
 この展覧会の主眼はそこに(だけ)ある。

                                                               キュレーター 京谷裕彰

★cf.谷川渥「美的距離の現象学」(『美学の逆説』所収,2003年,ちくま学芸文庫)






◆「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」 コンテンポラリーアートギャラリーZone 
2016.12.10~12.27
出展作家:OKA 川崎瞳 松平莉奈 松元悠 百合野美沙子 

2016年11月30日水曜日

行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」(Space31/神戸市東灘区)

 《鱗の家・祝い・パスタ》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス

行さんといえば、ドンゴロスを支持体にパスタなどの食がモチーフになった空想的な油彩画を描く作家として知られているが、神戸にちなんだ新作シリーズはすべてアクリル画でかろやかなマチエールと祝祭的な雰囲気を醸している。
視覚を通じて味覚や嗅覚を幻のなかで知覚し、命を育むものである食物を象徴化して描くというスタイルは変らない。
地平線が描かれた従来のシリーズも会場に並べられており、その対照性も楽しめる。ちなみに、日本の絵画において地平線が描かれるようになったのは、1930年代にダリの絵画(図版)が紹介されたことや満州への進出が契機といわれているが、これは地平線の向こう側にユートピア的なものを夢想する心理があったからだという。
行さんの絵の中の地平線(あるいは水平線)もまた、夢想が赴く彼方にある、理想的ななにがしかを象徴するものとして無意識裡に採用されたのであろう。

さて、そもそもドンゴロスという麻布を支持体に使い始めたもは「どんごろす」という音の響きがとても面白かったからだそうで、その語感が気に入って使い始めたところ、生(き)のままの質感に魅入られていったとのこと。

その行さんの絵は、ドローイングの線から遷移したと思しきパスタがずっとモチーフであり続けているかと思うと、別の絵では蕎麦になったり、リボンになったり、よくわからない装飾的な模様になったり、ひとつの絵の中で展開したり、あるいは別の絵に跨がったりしながら、自在に変化する。
制作時期によって多少違いはあるものの、行さんの絵の中ではモチーフが語感から連想されたり、形象の類似性から連想されたりしながら、イメージは換喩的に転位してゆく。
事物の隣接性をほどいたり開いたりしてゆくこのようなあり方は、20世紀のシュルレアリストたちが用いたデペイズマンとは異なった特徴を持っているようだ。

それらはとりとめもなく心にうつりゆくものであり、(たいていは)ささやかなものたちだ。
だから、ぼんやりと眺めているととても心地がいい。

 《―そして神戸 パスタが空をなでる時》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス


 《酒・肴・松》2015,油彩/ドンゴロス

《縞馬・パスタ・虹》2011,油彩/ドンゴロス

◆行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」 Space31 2016.11.25~12.4