2016年8月4日木曜日

冨士原清一『魔法書或は我が祖先の宇宙学』より

「成立」

wir suchen überall das Unbedingte und finden
 immer nur Dinge -Novalis


夜の子宮のなかに
私は不眠の蝶を絞殺する
私の開かれた掌の上に
睡眠の星形の亀裂が残る

   ★

風はすべての鳥を燃やした
砂礫のあひだに錆びた草花は悶え
石炭は跳ねた
風それは発狂せる無数の手であつた

溺死者は広場を通過した
そして屋根の上で生が猿轡を嵌められたとき
夜は最後の咳をした

   ★

かの女は夜の嵐のなかに
鉛の絲を垂れて
かの女の孤独の影を釣る

   ★

泥が泥を喰ふ
石が石を粉砕する
沈黙が沈黙の喉を絞める
不幸が不幸を下痢する

早朝私の影は穴倉から
血の繃帯を顔に巻いて出てくる
蒼白な風の平原
そこで私は風の首を切断する
私の頬は打ち倒された
私は私の顔を喪失する

肉体の周囲に
死は死人のごとく固い

   ★

沼が泥の足で入つてくる
壁のなかで蕈が拍手する
肉体は久しいあひだ
寝台の上に忘却されてゐる
肉体それはつねに荒地である
そこでは臓物の平原のなかを
血尿の河が流れる

私はながい孤独の雪崩の後に
疲労の鏡を眺めて
顔面に短剣で微笑を鏤める

   ★

蛹 それは成立である
蝶 それは発見である

   ★

火薬のごとき沈黙があつた

私の唇は砕けた
そして背後に打ち倒された私の頭は
襤褸屑になつた手たちを眺めた

足はいつまでも立つてゐた
打ち込まれた斧のごとく

   ★

家のなかの見えない岩石
私は衝突する
私は傷つく
私は覆へされる
家のなかの見えない岩石
ただそれが巨大であることだけを
私は知つてゐる



-----------
日本におけるシュルレアリスム詩運動の中心人物だった冨士原清一(1908-1944)は、生前、一冊の詩集も残さなないまま戦争に召集され、ビルマで戦死した。
詩集『魔法書或は我が祖先の宇宙学』(1970年、母岩社、[限定100部])は鶴岡善久の手によって編まれ、瀧口修造が夭逝した友に宛てた序文「地上のきみの守護天使より」を寄せる。
ここに紹介する詩「成立」は1933年[昭和8]6月、雑誌『文学』に掲載された。

シュルレアリスム詩が、〈実存〉をめぐる哲学の圏域と深く交わっていることを窺える佳作である。


見返しに綴じ込まれた深沢幸雄の銅版画(エッチング)


◆冨士原清一詩集『魔法書或は我が祖先の宇宙学』(1970年、母岩社、[限定100部])
序文:瀧口修造
編者:鶴岡善久
オリジナル・エッチング:深沢幸雄
装画・装幀:高橋安子 






2016年8月1日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』51号



表紙装画:つかもとよしつぐ

【巻頭エッセイ】
つかもとよしつぐ「美しいということが、」

【連載詩】
渡辺めぐみ「約束――ルネ・マグリット作『野の鍵』に寄せて」
広瀬大志「魔笛」
伊藤浩子「居室 (#2)」

【詩】
小笠原鳥類「いろいろな生きものの映画」
カニエ・ナハ「座間」
高塚謙太郎「もりあわせ」
藤井わらび「恋文」
森山恵「手のひらの 花びらの」
海野今日子「いざ、ゆかん(ひとをおくる)」
京谷裕彰「ムーミンはカバかな」
小島きみ子「灰色の翼の」「雨の唇」

【時評】
小島きみ子「二〇一六年一月から三月までに読んだ詩集・詩誌紹介」


◆2016年8月5日発行
 A5判 54頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで

2016年7月27日水曜日

松元悠《カメ殺人事件》《壁》のリーディング


松元悠(まつもとはるか)さんの絵はいわゆる「絵解き」によって鑑賞が深まる絵であるが、イコンなどのように道徳的な教導を目的としたものとは違い、決まった答えがない。
答えがないから、各人が自由に解釈できる。
しかし好き勝手に解釈、とはいかない。タロットカードやオラクルカードのようなリーディングを促される。
なぜなら、図像は作家の意識的な経験から無意識裡に合成された象徴性の高いものなので、自ずと名指しえぬ領域へと意識が導かれていくだろうから。そして構図には世界観が反映されている。
名指しえぬ領域に鑑賞者の意識が導かれたとしても、美的な、あるいは倫理的な判断の結果は視る度に異なるかもしれない。リーディングは真逆になることもあるだろう。

ここではっきりしているのは、作家の生活における、私的であると同時に社会的な経験がモチーフになっているということ。
一見すると閉じられているようにみえるものでも、つねに外へと開いている。作家の問題意識も、作品も、ともに開かれによって特徴づけられる。

それでありながら、作家本人は制作の過程において象徴物の意味を明確に把握しないため、作家と、鑑賞者による読み解きという行為との間を作品が浮遊する。(悟性による構築という方法を採用していない)ゆえに、作家ですら気づいていなかった恐るべき現実が、鑑賞者との対話によって次々に開示されていくのだ。
見た目は「シュール」だが、一般的な幻想美術の系譜には収まらない(もちろんそこへも広がるが)。
作家の内的世界と、作家を超越してある世界とが同一平面上に描き込まれることで、現実を超えた現実が画面の中に凝縮されている。つまり〈強度の現実〉がそこにあるということだ。

松元さんの作る絵は、紛れもなく21世紀のシュルレアリスム絵画である。それを条件付けているものがあるとしたら、〈開かれ〉に他ならない。

以下、二つの作品について、リーディングを披瀝することにしよう。

《カメ殺人事件》 水彩画,2014

描画された支持体のサイズは縦55㎜×横90㎜とても小さいが、台紙の余白と唐草の額縁が意味への衝動をかき立て、見る度に私の無意識と反応し、本質を同じくしつつも異なる寓意が湧出、結像する不思議な絵画である。

おとなしく殻に籠もって生きているカメが、悪意あるなに者かによって凶器として使われたという寓意的な絵画。実際の殺人事件のニュースがモチーフになっているそうだが、イメージの展開はそこにはとどまらない。長いものに巻かれて殻を固くする生き方をしていると暴力的な秩序に利用され、いつの間にかその秩序に同化し、自らの存在が他者を圧する凶器になってしまう・・・自発的隷従批判・・・などなど。画面の構図左側にいる黒い装束の人物(カメをもっている)が暗示するものが、実はもっとも重要な図像であることがわかった瞬間、激しく鳥肌が立った。
水面下にあって人間をおいつめ、判断を誤らせる構造的なもの一般を象徴しているようだが、殻や甲羅は繊細で壊れやすいものを守るための鎧でもある。
だとすると、カメとは「ありうるかもしれない私」の姿であるともいえる。

 《壁》 リトグラフを基調としたミクストメディア版画,2015

支持体のサイズは1000mm×765mm。

画面中央に佇む、流下する滝を衣のようにまとった女性が〈壁〉を象徴している。
その〈壁〉によって人々の心が分断されてある、この世界の様相を描いているのだろうか。滝には魚が流れ落ち、滝壺の回りの沼沢には腹を切り裂かれて死んだ魚が浮かぶ。
沼沢には岩に混じって大きな蟹の甲羅もある。

〈壁〉が分断する両側の人の群れは、異なる装束を纏いながらもみなそれぞれ〈壁〉を象徴する中央の女性と同じ顔をしているのだが、これらの〈顔〉はすべて作家自身の肖像なのだという。
そして蟹や魚などの魚介類は、作家にとっては幼少の頃から身近なものとしてあったそうで、象徴的な意味をもって様々な作品に登場する。それらは制作時点では意味が開示されることなく無意識裡に配されるようだ。

私は作品《壁》を以下のように読み解いた。

ここには複数に分裂してある〈現存在〉、あるいは〈ペルソナ〉が暗示されており、それらを分離している〈壁〉すらもが自らの肖像である。この画面上の事実からは、実存をめぐる様々な相が描き込まれていることを示唆しているように解される。

そして、〈壁〉とは現存在を潜在意識の内奥で統べる上位の存在、つまりスピリチュアリストがいうところの〈大いなる自己〉、もしくはヤスパースやレヴィナスやメルロ=ポンティがいうところの〈実存〉と読める。あるいはニーチェのいう〈エス〉、あるいは〈実存〉に対峙する〈超越者〉とも。

この絵を読み解くための思考のツールは思いつくだけでもレヴィナス、ヤスパース、ユング、フロイト・・・などが挙げられるが、どのようなツールを使うかは各人の自由な選択に完全に委ねられているとしても、深層にあるものは容易には開示されないままにあるだろう。
それでも、視覚的な衝迫力をもって像が脳裏に印象づけられるため、いつか不図したことで明かされるかもしれない、といった期待は持続する。
この写真画像を見る度に、あるいはいつか再会の機に恵まれたときに、印象は何度でも変奏され、明かしえぬものが訪れる解として明かされるかもしれない。

松元さんの作品は反復して鑑賞するにふさわしい絵であり、シュルレアリスム絵画が、内包された実存思想から〈美学〉と〈政治〉へ外延していく好例である。

または、外延から内包へ、逆のベクトルとしても。




2016年7月11日月曜日

加藤巧 展「ARRAY」(the three Konohana/大阪市此花区)



美学者的、かつ批評家的な眼によって制作された、非常に理論的な絵画だな・・・。

これが初見したときの感想であるが、構造的なものの表徴として絵画を定位しているのだとしたら、その論理はどのように構築されたのだろうか? 鑑賞する私は分析してみたくなった。

絵画をいったん素材のレベルにまで解体して再構築することを制作の基礎とする加藤さんは、顔料に卵黄を混ぜて絵の具をつくり、描画する。卵テンペラという古い技法である。
古い技法であるということは、描画における制約も大きい。絵の具の伸びがよくない、一度に定着できる量に限りがある、すぐに乾く、といったように。

今回展示された支持体のサイズは30×30、10×10、60×2(単位は㎝)の3種類を基調としつつ、別の規格のものも若干ある。

これら、石膏で地塗りされ卵テンペラで描画された絵を眺めていると、そこに何が描かれているのか?という疑問が、第一印象とともに私の意識をしばらくのあいだ引きつけるのだが、その関心は持続しつつも、結局明かされることはない(挫折というよりは宙づりといった感じだろうか)。

オートマティックなドローイングをタブローに起こしたものであろう、といった見込みだけは外れていないのではないか、そんな慰めのような感覚を頼りに、鑑賞はさらに深まる。
描かれた形象はとても素朴で、色遣いも多くは落ち着いている。
そのためなのかどうなのか、しばらく視線を画面に滞留させていると、作家の狙いは色や形象それ自体にはないということだけが、はっきりと了解できる(させられる)。

そうこう考えながらフロアをさまよっていると、これら3種類の規格のタブローが、ある規則なり法則なりをもって並んでいることに、あるとき気づくのだ。

その気づきを伝えると、ホワイトキューブの壁面の長さを総計した数値を各サイズのタブローの枚数(30×30は7枚、10×10は6枚)で均等に割った間隔で配置している、そう説明してくれた。
つまり、三種類の規格のタブローの配列は、それぞれが他に対して少しずつずれたかたちになる。

この配列の論理が、作品を公開するにあたって環境との関係から帰納されたというところがたいへん興味深いのだが、場所や作品の物語性など固有の文脈には依存しないスタイルでありながら、この論理はこのギャラリーでしか導かれ得なかったのではないか、そんな気もしないではない。
他ならぬthe three Konohanaで、といえばもう固有名詞であり、固有の文脈に否応もなく接続してしまうではないか。
果たして人間は固有の文脈から完全に離脱することができるのか? と問われるならば、できない、としか答えられないだろう。しかし、この程度の接続であれば直接制作のスタイルをゆるがすことはないばかりか、固有の文脈からしか絵画と出会えない〈私〉と絵画との通路が確保されている、そんな安心感をももたらしてくれる。
いやいや、文脈を支える固有の条件や制約がなければ展示など成り立たないではないか。そもそもこんなふうに仮定に基づいて仮定を重ねるのは、屁理屈のような遊戯ではないか、とも思ったり・・・。

それはさておき、展示する場所が変ればその空間の寸法によって間隔が伸びたり縮んだりはしても、導かれた論理それ自体はすでに確固としてそこにある。量的には可変でありながら、安定した論理として。

これを、加藤さんは方程式と呼ぶ。

この方程式に代入される個々の絵画を制作する加藤さんは、絵画制作のモチーフや目的や目標といった、創作への意志を前方へと引っ張るものに対し、その手前でつねに踏みとどまっているように見受けられる。

作家を包み、そして越えてありつづけるものの前で、踏みとどまる。

この姿勢からは、超越的なものは表象しない、あるいは超越的なものへの誘惑は断ち切る、そんな慎ましさすら窺えないだろうか。

素材や方法によって制約を課すことで出来上がった展示空間は、理性的であり、論理的もあるが、このスタイルには自己の視座をつねに安定させる意味合いもあるのだろう。
そして、鑑賞する私の無意識を乱暴につらぬくようなことはしない。鋭さがないという意味ではもちろんない。そういう意味では、安心して眺めることのできる優しい絵画である。

しかし制作する人間としての自己を、観察、分析する態度に、徹頭徹尾裏付けられているという点で、実のところ実存的なテーマへの通路はあらかじめ設けられているともいえよう。
鑑賞と思索を重ねることで、やっと私の無意識に、実存に反照するものが立ち現れる、そんなゆっくりとした時間の中でではあるが。
あるいは無意識裏に刻印された印象を、理性で読み解く過程の中で・・・。

だから、「なぜ描くのか」「何を描いているのか」といった問いは、作家においてはすべて現象学的に判断留保されている、そのようにいえるのではないか。

この判断留保(エポケー)によってはじめて「描く」という行為や、「描かれたもの」の根源を辿ることができる、そんな確信が窺える。

そうして、「何を描いているのか?」という問いに、
加藤さんは「描(えが)きを描(えが)いているのだ」、と応答する。

「描きを描く」・・・。

「描き」とは、制作する主体の立ち位置を表す言葉でもあるのだろう。

タブローの点数には依存せず、さらにはタブローの大きさにも影響されない、絵画におけるひとつの美学がここに提示されている。



◆加藤巧 展「ARRAY」 the three Konohana 2016.6.17-7.31

2016年7月8日金曜日

西川茂 展「under construction or destruction」(Gallery OUT of PLACE 奈良)

 《Sealed House 8》
《Sealed House 6》

西川さんの新しい油彩画のシリーズ《under construction or destruction》は、以前から知られる作風とは大きく変化した。
とてもシンプルに、「建築を覆うシート(養生幕)に興味をもった」のだという。

建設中なのか、解体中なのか、いずれかは判然としないが、いずれにもせよ幕の向こう側には建物の一部が垣間見えており、この幕がある種の境界として表象されていることは疑いがない。
また、幕で覆われた建物には奈良の著名な建物が含まれているのではないか、そんな直感が働くが、固有名詞との関係は示唆されない。あくまでも匿名である。

ステイトメントには、以下のように記されている。

小さな魚の巨大な群れが水中を移動する時、実際には小さな魚の個別の意志の集合体であるはずが、流動する群れ自体が一つの意志を持っているかのように動いている。その絶えず変容していく様態はいつまで見ていても飽きることがない。

これを読むと、足場の骨組みにcell状に張られた幕が風にはためく様子が、まるで小さな魚の群れのように見えてくる。

作家を想像へと誘い、創作意欲を喚起するものとしての、幕のある風景。

そうして、制作された画面の上で強力な存在感を放つ幕が、作家の精神と環境との"間"を象徴するものとして私たちの前に現前する。

そう考えると、高精細に写実された風景画の上に帯状に落とした絵の具でノイズを表した、以前のシリーズとの連続性を見いだすことも可能だ。筆致においても、新シリーズで描かれる幕と旧シリーズにおけるノイズとの間に近縁性が窺える。

《Kamizono》2012(新宿御苑がモチーフ)

ここでは、美しいスペクタクルな風景(それも人口に膾炙したモニュメンタルな名所)の中で、突如として降り注ぐ違和が描かれていたのだが、このノイズもまた作家の精神と環境とを隔てる結界のようなものとしてあった。

そしてそれらはとりもなおさず、鑑賞する私の精神と絵画の深淵とを隔てるものの象徴へと転位する。

違和の前景化、幕のシンボリズム、組まれた固い足場と柔らかい幕、そして結界・・・。


西川茂 展「under construction or destruction」 Gallery OUT of PLACE 奈良 2016.5.20〜6.19

2016年5月13日金曜日

ゲーリー・スナイダー「アボカド」(ナナオ サカキ訳)

ゲーリー・スナイダー
「アボカド」

なんとまあ よく似たものよ
仏 法 と ア ボ カ ド
どこか熟しすぎ だめと見えても
チャーンといける
まだ固く青すぎ
香りの若いとこだって
固茹で卵好きには たまらない

その皮うすくとも
真中に でっかく丸い種子ひとつ
これぞまさしく 汝本来の面目――
穢れなく 滑らか
だが 割ってみようとするものも
芽生えを試すものだって
まず いない

この種子 固く つるつる
植えよといわんばかりなれど
いざ 手に取らんとすれば
たちまち 指の間をすべり抜け
逃れ去るよ 彼方へ



"Avocado"   by Gary Snyder

The Dharma is like an Avocado!
Some parts so ripe you can't believe it.
But it's good.
And other parts hard and green
Without much flavor,
Pleasing those who like their eggs well cooked.

And the skin is thin,
The great big round seed
In the middle,
Is our own Original Nature-
Pure and smooth,
Almost nobody ever splits it open
Or tries to see

If it will grow.
Hard and slippery,
It looks like Your should plant it - but then
It shoots out thru the
fingers-
gets away.




◆ゲーリー・スナイダー『対訳 亀の島(Turtle Island)』所収(ナナオサカキ訳,1991年,山口書店)。

2016年5月12日木曜日

山崎なな「アイデンティティの消失と」(In front of DADA/箕面市桜井市場)

過去にダダカン(糸井貫二)が一万円札五枚を燃やしたメールアートを制作したり、森村泰昌が《森村千円札》と称して紙幣に手を加えた作品を発表したことがあったが、捜査されたとか、逮捕されたとかいう話はとんと聞かない。
そりゃそうだ、硬貨を損壊するのは違法であっても、多くの人の手をわたるうちに自然に傷んでくる紙幣に手を加えたとて法には抵触しないのだから。

ただの紙とお金の境界を問う山崎さんの作品群は、法や制度や価値観の基準を越え、快不快を感じる私たちの心の閾にストレートに迫ってくる。

閉鎖的なギャラリー空間ではなく、子どもの画塾・アトリエDADAの真ん前、市場の通りに面した(壁のない)開放系の空間であるだけに、笑いや驚きを伴う出会いは、まさにハイデガーが芸術作品の本質であると規定した〈衝撃〉という概念にぴったりとあてはまる(『芸術作品の根源』)。

また、個展タイトルに「アイデンティティ」という言葉が入っているのはとても示唆的で、作品を目の当たりにした〈衝撃〉を機に、それぞれの内面に思索の火を点そうという意図があるのだろう。

というのも、私たちは誰かが流布さた「アイデンティティ」という言葉をよく分からないままに使っているだけなのに、まるでそれが何かの本質を表しているかのように錯覚しているものだ。実のところ、私たちには絶えざるアイデンティフィケーション(自己同一化という行為)があるにすぎない。

お金の有無、貧乏か金持ちかで「アイデンティティ」を強要するなど、社会に構造化された暴力への抗いが籠められているように思える。

そして紙幣もまた、「アイデンティティ」を失っているのだ。

《Fの肖像》


《いちおくえん》


In front of DADA 2016.5.7~5.14




2016年3月14日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』50号

詩誌『EumenidesⅢ』50号

表紙装画:つかもとよしつぐ

【巻頭エッセイ・美術と言葉が集う】
つかもとよしつぐ「美しいということが、」

【連載・詩】
渡辺めぐみ「小箱の秘密――ルネ・マグリット作『王様の美術館』に寄せて」

【エウメニデス記念五十号に寄せて】
平林敏彦 山田兼士 松尾真由美 京谷裕彰

【詩】
野村喜和夫「薄明のサウダージ(散文篇)」
松尾真由美「不明と自明と彷徨と」
たなかあきみつ「[遺失物は不特定多数の時計だとしたら・・・・・・]」
小笠原鳥類「アオサギ、湖の怪異」
広瀬大志「ミステリーズ」
海埜今日子「翡翠によせて、よ」
高塚謙太郎「わたしは本ののどになりたい」
森山恵「蔓草にせよ」
伊藤浩子「居 室(#1)」
京谷裕彰「チンアナゴとカエルウオ」「り」
作田教子「餓鬼道」
平野光子「苦汁」
藤井わらび「羽衣」
海東セラ「春のルーバー」
山本崇太「アンジェイ”セシル”ノワレト自伝」
小島きみ子「(放棄の美学)と(暗黒の土地)」

【エッセイ・シュルレアリスム特集を終えて】
小笠原鳥類「謎の鳥の声とシュルレアリスムについて?」
京谷裕彰「そして、モナドは拡散される」
平川綾真智「「シュルレアリスム運動と音楽」の交差」

【あとがき・言葉を差し出す集い】



◆2016年3月15日発行
 A5判 70頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで




2015年12月27日日曜日

詩誌『EumenidesⅢ』49号

『EumenidesⅢ』49号

【詩】

高塚謙太郎「あなたと傘のしたで」
海埜今日子「傘鳴ればいい。」
広瀬大志「パルス」
渡辺めぐみ「習熟祭」
長田典子「ツリーハウス」
京谷裕彰「駱駝のコブ 亀の腹甲への間」
漆原正雄「シュルレアリスム日記 (三) ―鳥景―」
勅使河原冬美「"ベトナム ハノイ市午前一時に於ける繰り返される沈殿 1983 7/15 01:45"」
小島きみ子「あなたへの秋の長い手紙」

【高原の朗読会作品抄】

伊藤浩子「In The Room」
生野毅『魄―はく ばつ―魃』より

【シュルレアリスム論考Ⅲ・最終回】

〈連載〉
京谷裕彰「シュルレアリスムの二十一世紀 (三)」
平川綾真智「なぜ「シュルレアリスム運動」は音楽を扱いこなせなかったのか (三)」



◆2015年12月15日発行
 A5判 104頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで



詩誌『EumenidesⅢ』48号

『EumenidesⅢ』48号

【詩】

広瀬大志「頭蓋穿孔」
海埜今日子「宵闇仮面祭」
森山恵「アリオーゾ―我が片足は墓に入りぬ」
京谷裕彰「壺焼きの怪」
海東セラ「夏の家」
勅使河原冬美「電子オルガンによるパタフィジーク音階 第二回"ヴェトナム、ホーチミン市の冷製フォー 1983,7/5 19:23"」
小島きみ子「(Hard・Bの鉛筆で描かれたスケッチ)

写真詩コラボレーション
漆原正雄・詩/小島きみ子・写真「EPITAPH(0)~(1)」 

【考察・シュルレアリスム】
高良留美子「シュールレアリスムと児童筆記について」
小島きみ子「二〇一五年四月二日マックス・エルンストからのメール」
 
〈連載〉
漆原正雄「シュルレアリスム日記 (二) ―魚景―」
京谷裕彰「シュルレアリスムの二十一世紀 (二)」
平川綾真智「なぜ「シュルレアリスム運動」は音楽を扱いこなせなかったのか (二)」




◆2015年7月31日発行
 A5判 55頁 600円
 編集発行人:小島きみ子 
 (品切れ)