2010年12月24日金曜日

散文詩誌『サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち』創刊号

小林坩堝(こばやしかんか)さんから届いた散文詩誌『サクラコいずビューティフルと愉快な仲間たち』(編集発行・榎本櫻湖,2010年12月刊)が面白い。

これは小林坩堝、榎本櫻湖(えのもとさくらこ)、望月遊馬(もちづきゆうま)の三氏による同人誌で、同人に課せられた義務は原稿用紙10枚以上の散文詩を提出すること(つまりそうでないと掲載しない)という恐るべきもの。今の自分の生活スタイルから想像すると、仮にそんな作品を期日までに仕上げようと思うと、当分娑婆には戻ってこられないな・・・とため息を吐き出すしかないようなすさまじさです。だから、当然、読者への負担もかなりなもので、読み始め、作品世界に入るには相当なエネルギーを要する作品ばかりですが、それぞれの作品には言葉を膂力でひりだしたというような作り込みの過度な緻密さから来るいやったらしさは微塵もなく、一旦作品のリズムに乗ることが出来ればすいすいとその世界に入り込めるのは魅力といえるでしょう。
それぞれがそれぞれに詩的実践の場をもつ三氏が集まることで形成された、小さな、だが潜勢力に満ちた新たな時空の出現は、イデオロギーですらなかった「ゼロ年代詩」のリセットがすでに始まっていることを窺わせてくれます。小笠原鳥類以後の現代詩が、特殊な表現主義が主流となったことに愛想をつかした人も、閉鎖的なループの中で病める詩壇を唾棄する人も、またその中で揚々とする人も、これまで現代詩に偏見を抱いていた人にとっても、この詩誌は福音になるかもしれません。

榎本櫻湖さんの云う「もはや散文詩を試みるよりほかに、詩的言語の獲得は難しいのではないか」という問題意識によるこのような冒険に対しては、詩誌を発行するという実践的な観点からすれば持続させるのが難しいという意見や、そうはいっても行分け詩を書くだろう、などという意見もあるかもしれません。あるいはこのような問題意識にはそもそも同意できないという人もいるでしょうが、そんなことはどうでもいいことで、これが一つの磁場となり、無数のモナドが吸い寄せられ、痙攣し、そしてあらたなる表現の絶えざる追究という無限運動の連鎖となること、その可能性への開かれが若い詩豪たちによって提示されたことの意義こそが重要なのです。


三氏には失礼ながら、試みに作品の数行をランダムに拾ってみましょう。

透けた身体をもった人々が、飛び出してくる。背景には、崩れた街の燃えるのが視える。人びとの走ってゆく足もとには、たくさんの白い紙片が散乱し、それがかれらの一投足に汚れ、舞い、破れて、燃える借景を覆い尽くした。声にならない歓声をあげ、かれらは何処までも駆けてゆく。沈黙が怒濤の如く、しかし沈黙として無音のまま、騒然と、狂ったように、出自もなく滅するところもない、流れのための流れに流れ、ただ在ること、踏みとどまること、そして燃えている風景、・・・・・・(中略)

舞踏だ。涙するより先に、脚が、腕が、ちぐはぐに踊り出す。踊れない踊りを、踊り続ける。床下にくすぶっている・・・・・・・・

(小林坩堝「叙景――黒く塗りつぶされた「われわれ」のための」より)




瀟洒な変質に凭れて寛ぐ密やかな未明に、そう、一つの雲母のなかで蠢く奇妙な墳墓、その絶えざる沈黙から伸びる卑猥な擬態について、改めて薄暮のうつろいとともに訊ねながら、うらぶれた私淑にもはや臨終を告げ、その上雲海と呼び馴された薄明の淡い光源にに、かえって背ける顔すら剥がれ落ちた今となっては、萎縮する竪琴の弦を模倣する意義もなく・・・・・・・・

(榎本櫻湖「散文と任意の器楽のための協奏曲《絶叫する文字で描かれた三連画》」より)




(ヒト)の絶たれた雨のない葉の表層で、剥離した心理が夥しくうつろい、「折り紙」の線の痕跡にむけて指をおろしていく、深みにすら折りたためない「何か」を実像とはせずに(画)とは思えない紙片をまた畳みかけるような新種の紙でないことを、誰も知らない。沈着しないまま、山折りにならず谷の方へと了解しては(おりていく)という参照的な谷折りの遠慮ですら紙はすでに全体として線のない部分をおりていく。

(望月遊馬「五行目で終えるための」より)


2010年12月15日水曜日

しりあがり寿展「わしはもう寝る」 於、Gallery OUT of PLACE(奈良)

奈良アープトロムで多くの人々を脱力させた「オヤジ山水」から2ヶ月あまり、奈良に再びオヤジの群(ドローイング400点!)が帰ってきました。

しかし、「わしはもう寝る」って・・・
これほど強力な身振りがあるでしょうか?

ドゥルーズ=ガタリ、矢部史郎から松本哉にいたるまで、現代思想・アクティビズムの領域で執拗に論じられそして宣言されてきた脱力すること群れることのススメを、さらなる低みから奏でるイビキと寝言のポリフォニー。

有名人だからといって舐めてはいけません。


気に入ったオヤジが見つかればお手頃価格でお持ち帰りできます。





こんな感じで壁一面オヤジだらけ(クリックすると拡大します)。



会期:2010年 12月2日(木)ー 2011年1月23日(日)
   open : 木−日12:00 - 19:00 月火水休廊
   12月27日(月)−1月12日(水)は休廊

Gallery OUT of PLACE
630-8243奈良市今辻子町32-2
tel・fax 0742-26-1001
mail : contact@outofplace.jp
HP : www.outofplace.jp/
twitter : http://twitter.com/tokiooutofplace

2010年12月8日水曜日

ジャン=リュック・ナンシー/マチルド・モニエ『ダンスについての対話 アリテラシオン』より

ダンスはより多くの両義性を生み出し、単純な決定=決断をますます妨げる(中略)なぜなら、ダンスはそれほど簡単に型どおりのモデルや図式のもとに整序されないからです。たとえさまざまなステップやフィギュア〔全体を形作る動きの総体〕が、あるコンテクストでは完全にコード化されているとしても、それでも、単独の〔独異の、特異なsingulier〕身体、単独の身振りには、固有の何らかの表現性や強度が残っています、それを度外視することはできないし、そうしたものは、翻訳可能な意味作用を欠いたまま、それ自体において「意味をなす」(私の想像を付け加えるなら、実際のところ、われわれにとって最もコード化された、最も形式的なクラシックバレエにおいても、舞踊家にとって、また真の観客にとって、やはり常に、以上のような身体の意味の何がしかが存在したのです)。

ジャン=リュック・ナンシー/マチルド・モニエ『ダンスについての対話 アリテラシオン』(大西雅一郎+松下彩子訳,2007年,現代企画室)26頁、ナンシーの言葉。


これはコンテンポラリーダンサーのマチルド・モニエの質問に対する哲学者、ジャン=リュック・ナンシーの応答から抜粋したものですが、ここでいう「ダンス」は所謂「ダンス」だけにとどまらず、パフォーマンスアートをも含む身体表現全般に当てはまるものと理解していいでしょう。

女子高生版「箱男」  於、京都・三条大橋東詰



先日、三条大橋東で出くわした女子高生による箱男パフォーマンス。芸術系の大学に進学が決まった三人組が入学前の課題としてやっていたものでした。路上で物々交換をする「わらしべ長者」なる課題なんだそうで。これは何度目かの交換で入手した安部公房『箱男』(文庫版)を宣伝することが目的のようです。
あまりに面白かったので、10月に東北大学でやった袋男パフォーマンスの写真を見せたら大喜び!

2010年12月5日日曜日

綿引恒平展「『観音様』Vol.2」  於、立体ギャラリー射手座(京都・三条)

観音様というのは古来、悩める衆生を救済するため様々な姿をとって垂迹するもので、ひろく民衆信仰の対象となってきました。
今回紹介させていただくのは、ストレスに蝕まれた現代人にとっての救済の形というものを、五人編成の戦隊ヒーローになぞらえて偶像化した現代版「観音様」の展覧会です。

五体の「観音様」はすべて陶による造形で、一部のものはミクストメディアになっています。



リーダーとおぼしきマッチョな「馬頭赤観音」・・・競馬に代表されるギャンブルの「観音様」。弥生土器か土師器を思わせる素焼の杯の上に立っています。馬頭観音のパロディでしょうか。


「3ピース青観音」・・・音楽依存を象徴。

「グラビア桃観音」・・・これが何を象徴しているのかは見たまんまですね。

セクシーな谷間は背中にも。

「カンパイ黄観音」・・・気は優しくて力持ち、でも食いしん坊な黄レンジャーを思い出しました。アルコール依存には気を付けねば、と身につまされる思いがしました。


「マリファナ千手観音」・・・薬物依存を象徴した微妙に緑な「千手観音」。造形的な面白さはこれが他を圧倒しています。



髑髏にしがみつく「観音様」のお顔には麻の葉っぱ模様。



この展覧会のタイトルでは、観音様が「観音様」と「」(鉤括弧)にくくられているところが鑑賞のポイントであるように思いました。敬虔な信仰者からすれば、これらはすべて悪魔だか魔神だかといった感じになるのでしょうか。仏教的には「魔羅(マーラ)」というやつです。
とはいえ、誰もが多かれ少なかれ何かに依存するのが自然ともいえる現代社会において、欺瞞でもなければそんな超越的な審級から見下ろすことなど、そうおいそれとはできないもの。

現代の世界に対する鋭い問題意識をお持ちの作家として綿引恒平さんの名前は記憶にありましたが、昨日ついでがあって立ち寄っただけの射手座で思いも掛けず素晴らしい作品を堪能することができました。

関西にお住まいの皆さんにはぜひ足をお運びいただきたいと思ったのに、残念ながら今日(12/5)が最終日。もう少し早くいくべきだったと後悔・・・。
この「観音様」展はVol.2とあるので、Vol.3があるのかどうか気になるところですが、いずれにせよ今後の展開には大いに期待したいと思います。

2010年12月2日木曜日

祝!ダダカン先生卒寿



今日、12月2日はダダカン(糸井貫二)先

生満90歳の誕生日です!





以上、三枚は黒ダライ児『肉体のアナーキズム』(grambooks)より。



2010年11月28日日曜日

金子光晴「森の若葉」より




なにしろ今の日本といったら

あんぽんたんとくるまばかりだ



※金子光晴詩集『若葉のうた』所収(1976年)

敬愛する金子狒狒爺さんの言葉、まったく古びておりません。




2010年11月26日金曜日

海老優子展「circulation」  於、ギャラリーwks.

「良き日」 

「夏の雲」

「劇場」


「手がかり」


様々なイメージが重なり合う意識のフレームの向こう側に広がる平らな世界を描写した大きなタブローと、行き詰まった壁の前にある一本の白い糸が暗示的な「手がかり」と題された二枚の小品、その対照性がとても面白い展覧会でした。


◆ギャラリーwks.(大阪・西天満)

この展覧会は11/27(土)まで。

2010年11月23日火曜日

T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,岩波文庫)

〈非現実の都市〉
冬の夜明けの褐色の霧の下
ロンドン・ブリッジを群衆が流れていった。たくさんの人、
死に神にやられた人がこんなにもたくさんいたなんて。
短いため息が、間をおいて吐き出され、
どの男もみんなうつむいて歩いていた。
・・・
(岩崎訳『荒地』60-65行…もっともお気に入りの一節)

20世紀モダニズム詩の古典、T・S・エリオットの『荒地 The Waste Land』といえば2003年に『紫陽』を創刊した頃に鍵谷幸信氏や深瀬基寛氏の訳でよく読んだものですが、この度エンプソンの詩論『曖昧の七つの型』の翻訳などで知られる岩崎宗治氏による新訳が岩波文庫から出ました。
以前から『荒地』に入手しやすい版がないことを嘆いていたので、こなれた訳文に膨大な訳註と解説が付され、引用と喩と象徴によって意味の重層性を極限にまで突き詰められたテキストを鑑賞する上で最適な文庫版が出たことは朗報です。

この『荒地』をめぐる僕にとっての最大の関心事は、エズラ・パウンドによる大幅な添削が入る以前の草稿に、エリオットの最初の妻・ヴィヴィアンの影響がどのくらいあるのか、ということ。ヴィヴィアンはエリオットのミューズとして日常的に夫婦間の詩的交感を続けていたわけですが、このあたりのテキストクリティークはどうなっているのか、ということでした。エリオットの全作品の中でも『荒地』だけが突出しているのは不自然だと思っていたので、そのオリジナリティについてはかなり疑問視していたのでした。案の定、本書の解説によると実際にヴィヴィアンの筆が何カ所も入っていたことがわかりますが、草稿にも残らないような精神的な影響関係はかなりのレベルに達しているものと推察されます(ただアカデミックな方法による実証研究ではもう限界にきているので、それ以上のことは作家がなすべき仕事でしょう※)。そこから、『荒地』がエリオット個人の業績であるというよりは、ヴィヴィアンやパウンドとの交わりのなかで成立した作品であったということの意義を肯定的に捉え、読み直しを図るための土台が提供されたということの意義を評価したいと思います。

しかし、今エリオットを読む場合、注意すべき点がいくつもあります。
まず一つ目に思いつくのは批評家としてのエリオットが、それまで支配的だった主観的な印象批評を排したまではよかったものの、それに対するに詩人が持つべきは「伝統」への帰属や「歴史的感覚」であるとし、自らをヨーロッパ文学の正統な継承者であると自負する傲慢さ、それゆえの保守的で硬直した形而上学への回帰が窺えること。それは、ニーチェによって神の死が宣告された(西洋形而上学の破綻)後、オルタナティブなというニュアンスではない形而上学を追求しようとしたその思想が、本来彼が批判しようとしたはずの、文学が擁護すべき価値とは対極のものを引き入れてしまっているという意味でです。
もう一つは、ミューズであったはずの最初の妻ヴィヴィアンを、そのエキセントリシティゆえに冷遇する凡庸な夫として、また自らの名声に傷がつくことを恐れて遺稿・草稿群を非公開にした小心者として、そしてプチブル的リベラリストサークル「ブルームズベリー・グループ」のメンバーであり自らの所属階級を脅かす思想の持ち主であるロマン派の詩人、わけても存在そのものがラディカルだったシェリーを感情的とも言える執拗さで攻撃した権威主義者としてのエリオットの凡庸さ(シェリー批判というか非難からは、判断力批判が不徹底で批評理論としても破綻していることがわかる)。
以上、批評理論から窺える思想の限界、そして凡骨漢としてのエリオットの、その卑小なパーソナリティに対するラディカルな批判を経た上での肯定、という手続きがなければ、今さらいかなる再評価も、また新たな読みの可能性も開かれないのではないかと思うのです。

とはいえ、求めやすい文庫版が出たことの意義はいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。


◆T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,2010年8月刊,岩波文庫,¥840+税)

※エリオットとヴィヴィアンの関係については、マイケル・ヘイスティングス『トム&ヴィヴ ~詩人の妻』(山形和美訳,彩流社)があります(←これを原作にした映画も面白い! もう何年も前、当時の奈良テレビ社長自らがナビゲーターを務める深夜映画の名物番組「ラビリンス・シアター」で見ました)。

2010年11月22日月曜日

奥田エイメイ"浮遊FACTORY"

昨日は奥田エイメイさんのアトリエ"浮遊FACTORY"を訪問しました。
奈良市佐紀町・平城宮松林苑の跡地にあるエイメイさんちまで歩いていくとどのらいかかるか試してみようと、うちを出てならやま大通りを東に進み、そこから歌姫街道を南に歩いていくと35分で着きました。歌姫街道の景色は散歩コースとしてはなかなかのものでしたが、車の通行量が多いのだけが難点。




「水中猫発生プロジェクト」。DNAになぞらえた四つの元基を制作し、それを増殖させることで新たな疑似生命体を創造しようとするものだそうです。

水槽の水を対流させることだけでオブジェを落とさずに浮遊させるしくみ。流体力学の話などもじっくり聴いてみたいものです。

異様な存在感をはなつ水道管オブジェ。


このエイメイさんの分身みたいな方は副社長だそうで。写真には映っていませんが、このテーブルの上にも小さな床と机があり、そこには社長さんが座っていらっしゃいました。



想芸館 浮遊FACTORYのHP
http://huyuu.com/

藤川奈苗展「gateway」 於、ギャラリー白







赤を基調とした画面に、長方形や円筒形、あるいは不規則な線といった象徴を配した作品です。

描いては消し、描いては消し、を繰り返しながら仕上げられた大きな三つのタブローは同時進行で制作したとのこと。遠目でみるとどれも非常によく似た印象を受けるのはそのためなのでしょうか。

タイトルの"gateway"とは、入り口、門のある通路といった意味以外に、異なるコンピュータネットワークの間を相互に認識可能な通行データに変換する役割を持つ装置やソフトなどの総称という意味がありますが、位相の異なる記憶の象徴を、一つの画面上に描き込むことに成功した藤川さんの作品を鑑賞する上でメタフォリックなキー概念になっているようです。


◆NAPグループ展レビュー

2010年11月20日土曜日

大橋範子パフォーマンス「自殺者追悼の儀」(2010.5.15,SoHoアートギャラリーでの擬態美術協会個展会場)

5/15に擬態美術協会さんの個展会場で行われた大橋さんのパフォーマンス動画を見つけました。

http://www.youtube.com/watch?v=E0Is7_Y5kvo

擬態美術協会さんの定番・録音用と再生用の二つのカセットデッキを使ったサウンドオブジェを背景に、大橋さんの叫ぶ声が遅れて会場に響き渡る、深い思索にもとづくパフォーマンスの記録です。
映像には川野安曇さんやmachi/さん、倉田めばさんに混じって僕の姿も(笑)。


ところで今朝、ダダカン先生に紹介していただいた黒ダライ児『肉体のアナーキズム ~1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks)を読み終えました。
これまで何千冊もの本を読んできましたが、これほどの衝撃と感動を得られる本というのはそう簡単に出会えるものではなく、僕にとってここ数年間では間違いなく最高のもの。この本が地下水脈を知る霜田誠二さんを経てmachi/さんや大橋さんら新世代のパフォーマーに手渡されたことの意義、その計り知れなさを思うと、感動のあまり震えが走ります。

2010年11月14日日曜日

藤川奈苗展「gateway」、11/15からギャラリー白にて

NAPグループ展2010で好評を博した藤川奈苗さんの個展"gateway"が11/15(月)~11/20(土)の日程で開催されます(11:00-19:00,土曜は-17:00まで)。場所は大阪・西天満のギャラリー白。




ギャラリー白
http://galleryhaku.com/

藤川さんのレヴューを含む過去の記事
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/10/nap2010great.html

2010年11月7日日曜日

福森創「developing」 (木津川アート2010 於、八木邸)

福森創さんとは昨年の12月、CASOで開催されたNAPのプレ展覧会で知り合い、それ以来ずっと注目しつつもなかなか適切な言葉が見当たらず、このブログで紹介できずにいましたが、木津川アートでは圧倒的な存在感を放っていました。

福森さんはアルミやステンレスなどの金属板を基底材として、それにひたすらドリルで穴を穿ち続けることによって造形していきます。最近は平面から立体へと表現の領域が拡大しつつあるので、今後の展開が本当に楽しみな作家です。


門を入ってすぐ右手にある蔵の内部が展示空間。正面奥に一枚、両側の壁に向かい合わせにそれぞれ一枚ずつ平面作品が掛けられ、床には球体が安置されています。展示空間との相性は最高。


正面奥の作品。下の二枚は向かい合わせになったもの。見事なライティング。



まるで月のよう。



画像をクリックすると細部を観察できます。


昇る太陽を宇宙空間でみるとこんな感じなのでしょうか。


「繰り返す事、集合させる事、合わせる事、つなげる事、などの連鎖的な行為によってその行為以前のモノやコトが変化し 新たなポジティブなイメージが現れてくる」
「小さなパワーが集合する事で大きなパワーへと変化していく様は、自分自身を創り上げていく過程の様なものであり、それらはいくらでも大きくなり得ると思います。」
と作家本人がキャプションで語るように、単純で些細な行動の反復、そしてその行為の集積が生みだすポジティビティ、その力能への深い信頼に裏付けられた作品は、鑑賞者を恍惚とさせる至高の美というにとどまらず、それが宇宙をイメージさせることからそのまま無限へのポジティブな志向性へと導いてくれます。



木津川アート2010は11/14まで、詳しくはHPをご覧ください。
http://kizugawa-art.com/
  

萬谷和那「spirit」 (木津川アート2010 於、八木邸)

スコットランドに伝わる死を知らせに来る精霊にインスパイアされたという作品。

二つの蔵の狭い隙間で自らの心の中に立つことを、作家は促します。赤い線が見えるというのですが、どこにその線があるのかすぐには分からず戸惑ってしまいました。でも、その戸惑い自体にも意味がありそう。


隙間の奥の土壁には模様を形作った圧痕がありますが、これはこの建物由来の意匠。


視線を上にやるとこんな感じで、二つの蔵の高さは微妙に違っています。迫り合った切り妻の軒の隙間からは淡い光が線のように差し込んでいます。

振り返ると向かいの建物の壁に一本の赤い線が見えました。この一本の線が萬谷さんの設えたインスタレーション。

壁板の隙間に赤い粘土が埋め込まれ、一本の線が形成されていますが、左側に茶色い雨樋が寄り添っているのも意味深です。

萬谷さんは制作のモチーフとして常に個と社会との関係を考えている作家ですが、今回のインスタレーション「spirit」は、バランスの悪い二つの建物の隙間に立って隙間を埋めるという意味があるそうで、この展示場所の選定、建物の隙間に立つこと、など全てひっくるめて一つの作品行為になっているようです。古い庄屋建築である八木邸という場が放つアウラを、その違和をも含めて感受し、ここしかないという場所に作品を定位したその見事さに唸らされました。

そして、テーマは
「そうではなかったはずの現在」で、自分自身を心の暗闇に誘い込む内なる囁き。

そこにたつと空気の佇まいが外とは違うことにすぐ気づく場所で、深い内省へと誘われた精神に、赤い一本の線がまるで超越者からの暗号のように訪れます。



僕はこのようなコンセプチャルな作品に出会うと感度が一気に昂進するようです。









2010年11月1日月曜日

月刊『あいだ』153号「特集:いまこそ糸井貫二」

ラディカルな美術批評雑誌・月刊『あいだ』が153号(2008年10月)で《いまこそ糸井貫二》という特集を組んでいます。2008年秋のダダカン米寿記念「鬼放展」に合わせた特集なのですが、商業誌では不可能な内容なので、ご興味のある人はぜひBNをご購読ください。


【目次】
『あいだ』153号 (2008年10月20日発行/総44ページ)

•特集=《いまこそ糸井貫二》1 開かれたダダカン  小坂 真夕 ……2
•特集=《いまこそ糸井貫二》2 全裸のハプニング天使がやってきたこと――〈鬼放展〉について  鳥水亭 木呂 ……8
•特集=《いまこそ糸井貫二》3 普通の人,本物の人――〈ダダカン・シンポジウム〉報告 ……19
•あいだのすみっこ不定期漫遊連載60 華厳経と現代美術 相互照射の試み(その2)第2回国際華厳会議(フランス・ベレバ)発表論文  稲賀繁美 ……25
•≪連載≫ 戦時下日本の美術家たち 26 「新聞も兵器なり」――朝日新聞と戦争 [1]1937年-42年  飯野正仁 ……30
    (表紙写真:栃木県那須塩原市 photo. Akiba Sari)



ご購読は月刊『あいだ』HPから。

2010年10月29日金曜日

雑誌『ART CRITIQUE』創刊号

風の噂で聞き、創刊を楽しみにしていた批評雑誌『ART CRITIQUE』no.1が今日、届きました! 
80年代前半生まれの若い批評家たちによるゴリゴリの文章満載の誌面は相当な読み応えです。



《コンテンツ》
  序    技術/芸術としてのクリティーク
[interview]  絵画とモダン――この時代の表現の基盤を問う ――松浦寿夫さんに訊く
[art review] ・記憶が受肉する場――曺徳鉉曺(チョウ・ドッキョン)展「FLASH BACK」
        ・フラットであることの豊かさ 
            ――ヨックム・ノードストリュームの絵本 「セーラーとペッカ」      
[interview]  西宮船坂ビエンナーレ――藤井達矢ディレクターに訊く
[theory]   ・〈市場社会〉の隠された諸前提をめぐって  
          ――交換不可能性、主権、親密なるもの

特集 ネグリ/ハート『〈帝国〉』の現在
 [interview]  ネグリで何を語れるか?――市田良彦さんに訊く
 [discussion 1]―――生成する自由と恊働の未来
 [discussion 2]―――生きることの時代、死の場所はどこにあるのか?
 [book review]  ネグリ/ハート新著『コモンウェルス』

.etc

2010年10月21日刊
編集発行:ART CRITIQUE編集部 artcritique2010◎gmail.com (◎→@に)
定価:750円+税
http://artcritique1.blog29.fc2.com/

購入はこちらから↓
http://artcritique.cart.fc2.com/