2016年12月6日火曜日

「超現実と実存」(グループ展「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」キュレーターステイトメント)

 〈私〉や〈他者〉を通じて〈世界〉を、あるいは〈世界〉から〈私〉や〈他者〉を知覚したり認識したりすることを通じて、人や人になぞらえられた影像を絵画に描出する行為は古今東西、広く行われていることであり、このような行為は無意識の領域に深く根ざしている。それだけに、感覚だけで了解できることもあれば、描画という行為や絵画における現象を読み解く行為を経なければ意味が浮かび上がらないこともある。
 本企画のタイトルは「私、他者、世界、生――現実を超える現実――」であるが、一人称〈私〉に続く言葉が人称を特定しない〈他者〉であるのは、自我を客観視する〈自己〉であるよりも前に、主体としての〈私〉であることが先立つのに対し、〈他者〉とは〈あなた〉であっても〈彼(女)〉であっても、〈誰〉であっても、〈私〉からは隔たった存在であることによる。ここに何を代入しようと自由なのだ。あるいは、偶然や必然がここに何かを代入する。それならば、〈他者〉とは人形や置物であってもいいどころか、人間や生物の影像である必要すらないかもしれない。

 ところで、日本語ではシュルレアリスム surréalisme(仏語)から派生した「シュール」という言葉が、非現実な、いわくいいがたいものを表す俗語として定着しているが、俗語化したことによってその潜勢力がスポイルされてしまった感がある。しかし一方でその軽さは、〈かろやかさ〉としてもあり、〈遊び〉心に浸透するものや刺激するものを指す言葉として感性になじみやすいものでもあった。それゆえ、ときに私たちの「軽薄さ」にもフォーカスされざるをえない。
 そのような俗語的なニュアンスとは違い、本来、シュルレアリスムとは非現実ではなく現実を超える現実、つまり〈強度の現実〉を志向する芸術思潮であるとされる。これはどういうことか。
 ここでは、身の周りに広がる、あるいは目の前の、いわゆる「現実」を超えてある、画面の中の現実のことをひとまず〈絵画における強度の現実〉とよぶことにしよう。
 そして〈絵画における強度の現実〉はどこまでも〈私〉と〈他者〉、あるいは〈私〉と〈世界〉との関わりのなかにあるため、〈実存〉をめぐる哲学の圏域と否応なく接している。〈実存〉とは事物存在とは異なり、本質に先立つ真実にして現実なる人間存在の独特のあり方、と一般には解説されているが、潜在意識の内奥の、その暗がりにあって人間の判断や行動をつかさどるもの、とするヤスパースやメルロ=ポンティの〈実存〉概念をとりわけ私は想定している。
 ところが、シュルレアリスムを〈実存〉という問題系において思考する議論はほとんど見受けられない。フランス現代思想において「実存主義」の立場からサルトルがブルトンを批判したことの残響を引きずっていることや、美術史が20世紀の出来事として整理していることにもよるだろうが、それよりも何よりも、シュルレアリスムを扱うとき、人はえてして客体として扱える距離を置くという態度を取りがちになる。なぜなら、実存に反照することへの恐れが、それを実存の問題として容易には扱えなくしてしまうという心理に起因するからだ。作品を鑑賞したり作品について語ったりする〈私たち〉が、他人事ではないと感じたり、無意識に跳ね返るものを感知して竦んでしまった経験は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
 だが、五感で感受するインスタレーションとは違い、作品と観者との間に適切な〈心的距離〉を確保しやすいことが絵画の特質であるという点は、シュルレアリスム絵画とて同じである。ただ、シュルレアリスム絵画には境界をゆさぶる力が顕著なため、関心を誘発しながらも最終的には接触させない(できない)距離を置くのがよい、とされるセオリーをも、しばしばゆさぶってしまうのだ。しかし、それでもなお〈遊び〉や〈かろやかさ〉はシュルレアリスムの大きな魅力であり、押しつけがましさ、僭越さとは逆の方を向いている。
 だとすると、ここには絵画の本質に迫る重大な何かが潜んでいるのではないか。これをキュレーターからの問題提起として受け取っていただきたい。

 ともかく、見た目がそれっぽい、といったビジュアルがシュルレアリスムを条件付けているのでないことは、明言しておきたい。また、動きあるものを固定する箍をつねにすり抜けるため、定義付けにもなじまない。ゆえあって定義がなされるとしても、それはいつも仮のものにとどまらざるをえない。シュルレアリスムとは、その人のなかではいつでも始まり、いつでも終わり、そしていつでも何度でも再開するものである。参照項としても生き方の哲学としても。

 今回ここに集う女性作家たちは、シュルレアリスム(的)か否か、という自覚の有無にかかわらず、みな〈絵画における強度の現実〉を制作において実践している。曖昧なままに厳格な、何かを描いているのだ。
 ゆえに、作品が「シュルレアリスムか」「シュルレアリスムでないか」といったことは大した問題ではないばかりか、主眼はそこにはない。
 それぞれの作家の営為を通じて、〈絵画における強度の現実〉、そして〈実存〉について考え、すでにあるものとは異なる視点から世界を再考し、異なる視点へと私たちの問題意識の領野を広げる機会としたい。
 この展覧会の主眼はそこに(だけ)ある。

                                                               キュレーター 京谷裕彰

★cf.谷川渥「美的距離の現象学」(『美学の逆説』所収,2003年,ちくま学芸文庫)






◆「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実」 コンテンポラリーアートギャラリーZone 
2016.12.10~12.27
出展作家:OKA 川崎瞳 松平莉奈 松元悠 百合野美沙子 

2016年11月30日水曜日

行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」(Space31/神戸市東灘区)

 《鱗の家・祝い・パスタ》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス

行さんといえば、ドンゴロスを支持体にパスタなどの食がモチーフになった空想的な油彩画を描く作家として知られているが、神戸にちなんだ新作シリーズはすべてアクリル画でかろやかなマチエールと祝祭的な雰囲気を醸している。
視覚を通じて味覚や嗅覚を幻のなかで知覚し、命を育むものである食物を象徴化して描くというスタイルは変らない。
地平線が描かれた従来のシリーズも会場に並べられており、その対照性も楽しめる。ちなみに、日本の絵画において地平線が描かれるようになったのは、1930年代にダリの絵画(図版)が紹介されたことや満州への進出が契機といわれているが、これは地平線の向こう側にユートピア的なものを夢想する心理があったからだという。
行さんの絵の中の地平線(あるいは水平線)もまた、夢想が赴く彼方にある、理想的ななにがしかを象徴するものとして無意識裡に採用されたのであろう。

さて、そもそもドンゴロスという麻布を支持体に使い始めたもは「どんごろす」という音の響きがとても面白かったからだそうで、その語感が気に入って使い始めたところ、生(き)のままの質感に魅入られていったとのこと。

その行さんの絵は、ドローイングの線から遷移したと思しきパスタがずっとモチーフであり続けているかと思うと、別の絵では蕎麦になったり、リボンになったり、よくわからない装飾的な模様になったり、ひとつの絵の中で展開したり、あるいは別の絵に跨がったりしながら、自在に変化する。
制作時期によって多少違いはあるものの、行さんの絵の中ではモチーフが語感から連想されたり、形象の類似性から連想されたりしながら、イメージは換喩的に転位してゆく。
事物の隣接性をほどいたり開いたりしてゆくこのようなあり方は、20世紀のシュルレアリストたちが用いたデペイズマンとは異なった特徴を持っているようだ。

それらはとりとめもなく心にうつりゆくものであり、(たいていは)ささやかなものたちだ。
だから、ぼんやりと眺めているととても心地がいい。

 《―そして神戸 パスタが空をなでる時》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス


 《酒・肴・松》2015,油彩/ドンゴロス

《縞馬・パスタ・虹》2011,油彩/ドンゴロス

◆行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」 Space31 2016.11.25~12.4


2016年11月28日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』52号

表紙装画:つかもとよしつぐ

【エッセイ】
塚本佳紹「美しいということが、」
小島きみ子「『アシジの貧者』について」

【論考】
京谷裕彰「冨士原清一の詩「成立」とシュルレアリスムの明暗」

【連載詩】
渡辺めぐみ「戻っておいで――ルネ・マグリット作『誓言』に寄せて」
広瀬大志「星への帰還」
伊藤浩子「居室 (#3)」

【詩】
小笠原鳥類「魚の歌」
松尾真由美「たとえば静けさのないところ」
京谷裕彰「蝶の囀り」
北原千代「秋のミモザ」
高塚謙太郎「兵站」
藤井わらび「ある九月のアラン島で」
小島きみ子「彼方へ」

【エッセイ】
松尾真由美「詩と花が溶け合う場として」
小島きみ子「書評・夏に読んだ詩集三冊」

【あとがき】


◆2016年11月27日発行
 A5判68頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで


2016年11月14日月曜日

鍛治本武志 展「鏡の前で」(スペクトラムギャラリー/大阪市中央区)


鍛治本さんは、あらかじめつくっておいたデカルコマニーをパソコンに取り込み、(使う色の種類・数を制限する、デカルコマニーを眺めながら目となる位置が開示されるのを待つ、など)いくつかのルールを決めてオートマティック(自動記述的)な画面の構成を進めていく。

決めておいたルールの階梯を上った時、ぼんやりとしたものに従って感性が適切だと認知するものが降りてくるまでパソコン上での描画と推敲を続けるのだが、ここにはつねに試行錯誤が伴うため作業はパソコン上でなければなしえない。

一つの階梯を上って色や形象、象徴物の配置が定まったら、また次の階梯に上って降りてくるものを待つ。
このルールは、オフィスワークにおいて何か問題に直面すると改善策を講じるビジネスマンのエートスと逆向きでありながら、相似的ともいえる対照性をもっていることに瞠目させられる。
というのも、画像を構築していく過程で理性が介在しそうな問題に直面すると、理性で処理できないよう厳しいルールを課してゆくからだ。

そうしていくつものルールの階梯を経て、これ以上は進まない、というところまでたどり着いたところでパソコン上の作業を終える。
そして出来上がった画像を元に、ようやくキャンバスにアクリルで描画していく。しかし、このアクリル描画という作業はあくまでパソコン上で構築されたものの再現であるため、この段階でのオートマティスムは厳禁、というルールを課している。例えば色を置くときにはマスキングテープを利用する、濃淡が出ないようにする、など。
立体作品の場合でも、基本的には同じ論理で制作される(3Dプリンターで出力)。

以上のような制作のプロセスにおいては、逡巡、葛藤、精神的苦痛、といった状況が絶えず作家を襲うため、時間もかかるし、プロセス自体は遅い。

そこで想起されるのが、20世紀にアンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポー、ポール・エリュアールらが試みた詩のオートマティスム(自動記述)の実験である。
詩のオートマティスムによる実験は、記述速度を高速化するに従って一人称「私」が表出された文から減少してゆくことで、主観に基づき幻想を展開するスタイルを離れ、客観が人間に訪れる瞬間を捉えることができるようになる、そういうものだった。詩人から画家へと波及した、絵画におけるオートマティスムも、基本的には速度が鍵となるオートマティスムであった。
鍛治本さんの方法は二十世紀における実験や実践とは外見上もプロセスも異なるのであるが、紛れもないオートマティスムなのだ。

その特徴をひとつだけ挙げるとするならば、何をおいても〈遅さ〉であろう。
制作のプロセスのひとつひとつの階梯において、啓示的ともいえる、超越的なところから降りてくる色や形象の描き留めが行われているのだが、描き留めという行為は、イメージ(というよりも無限へと方向付けられた輪郭のようなもの)を安定させるためのものでしかない。それは、暗号のようなものであるのだろう。

これをひとまず〈遅いオートマティスム〉と名付けることにしたい。

速度へのあこがれと恐怖とがない交ぜになって駆動するグローバル資本主義が発動する強制とは真逆のエートスである。また、真っ向から対立するかにみえてどこか斜な構えでもある。

この〈遅いオートマティスム〉がジャンニ・ヴァッティモらイタリアの思想家たちの提唱する〈弱い思考〉を想起させることは、特筆に値するだろう。
〈弱い思考〉は、目の前にある強制された秩序からの解放を求める人びととの紐帯を生み出す可能性を、つねに開いてゆくのだから。

鍛治本さんは云う、
「私はイタコです」
「自分が間違うことはあっても、絵が間違うことはない」、と。
間違うことのない絵とは、未だ開示されざる、来たるべき絵のことであろう。

鍛治本さんには、速さへの誘惑にたやすく負けてしまう者にはけっして見えないなにかが、見えているに違いない。




◆鍛治本武志 展「鏡の前で」 spectrum gallery  2016.11.11~11.28

2016年10月12日水曜日

小松原智史 展 「コノマエノコマノエ」(the three Konohana/大阪市此花区)

意識にまとわりつく「意味」への縛めから、つねに「無意味」の場へとすり抜けるように描き続ける小松原さんの二年ぶりの個展は、いつも「意味」に固執する私のアタマの中に澱んでいる夾雑物をすっきりとリセットしてくれるような、すがすがしさがあった。
描かれている図像そのものは、目を凝らしてみるとなかなかにおどろおどろしいのだけれど。そのギャップがとても面白い。

ギャラリーを後にするやいなや、その意味を考える時間に戻ってしまわざるをえない私にとっては、たとえつかの間ではあっても、小松原さんが描く場所に共にいる時間はさわやかなものだ。

入り口を入って階段を昇ると開けるホワイトキューブで展開するのは、設営中の期間を含めると約2ヶ月にわたって変化し続けるワークインプログレス作品。点々と設えられたタブローの外側へと増殖するように、壁一面にそれは拡がる。使っているのは墨と付けペン。

 初日(9月2日)の様子。

 10月10日の様子。

奥の和室に設えられた作品。

この奥の和室の壁は何枚ものタブローによって隙間なく埋め尽くされているのだが、ここには私たちの感性をざわめかせる、まるで情念が淵のように滞留したアウラがある。

それに対し、白い静謐な空間に線が引かれ、図像が次々と現れるホワイトキューブでは、アウラは滞留していたものを濯いでくれる、せせらぎのように流れていることが感じられる。
これは描き出された図像という現象、その微細で深い世界から、自然と適度な心的距離がとれることによるのだろう。そこにどんな秘密があるのだろうか。

いずれの部屋にあっても、絵画におけるオートマティスムを、極めて高い純度で実践する作家の営みに立ち会うことができる。



◆小松原智史 展 「コノマエノコマノエ」(Konohana’s Eye #13) the three Konohana 2016.9.2-10.16

2016年9月24日土曜日

島尾敏雄「非超現実主義的な超現実主義の覚え書」(1958年)より

眼に見えたかたちだけが安らかだと思いたがる傾きがあって、眼に見えないものにはおそれが先立つ。眼に見えたもののようになにかが表現されていなければ、落ち着きを失い、それはじぶんとはかかわりのないどこか違った世界のできごととして避けてきた。理解しようとこころをうごかすまえに、しりごみして、その影響のそとにでたがる。しかし眼に見えたかたちだけでは理解できない無数のものに取りかこまれていることを認めると、足がすくんでくる。それはわれわれをなやまし続けている亡霊のひとつとなった。しかしそれを拒否するだけでは、その知ることのできないゆがんだかたちのものにますますおさえつけられるばかりだから、限りなき小胆が、しかしどこまでも、かたちのはっきりしたものだけを、そうでないものから区別して、じぶんの味方にしようとはたらきはじめ、しかしわれわれは対象を崩したり組みたてたりすることになれていなかったから、対手はおさえようもなく大きくなって行くばかりだ。それらはからみ合っているために、意識すればますます窮屈な場所に身をちぢめこめなければならないことになった。知ることのできないゆがんだかたちのものは、こちらを併呑した。それはどんなにかわれわれを威嚇したことか。区別し隔離することに失敗すれば、われわれは敵のただなかに武者修行をはじめなければならぬはめになった。敵は亡霊のなかだけでなく、その利用者としても現れていた。小胆を表札にかかげておいても、敵は容赦なくひとのみにおそいかかってくる。
 仮に自らを処分しなければ、この無慈悲なこころみのなかで、習熟し馴狎することのないぶざまな舞踏を舞い続けなければなるまい。その舞いも又連続させられず、そのため、ぶざまな状態に習熟することさえない。習熟するかとみえると断絶におそわれそしてその断絶の淵におちこんだまま凍死することもできず、又もや習熟の場にはいあがって行く。それは永久にくりかえされる機構だ。そこから脱けでたいと考えるが、あらゆるつばさはもぎとられているから、脱けでて行く道はふさがれているようなのだ。ひどいはじらいが、対象を切りくずし且つ組みたてる技術に手をつけることをさせず、素朴でおかしな胎内旅行がはじまり、それを続けなければならない。さわやかな光はみな手前でそれて流れて去ってしまい、光の利用者たちが凱歌をあげているおそろしい声からのがれられない。が又してもはじらいが湧きあがり、もはや転身しなければ、効果を期待することはできないと考えても、なおこの場所をぬけ出せない。やがて、天地はくらみ、かすかながら与えられていた、うすぐらい、ごく身の廻りの光をも失ってしまうと、「眼に見えたかたち」は喪失してしまう。当然そこに安らぎが広がり、眼に見えないもののおそれは、その安らぎに場所をゆずる。あれほどおそれていた敵は依然としてあるが、敵の眼の下で、ゆるやかに表現のしみが広がって行く。「かかわりのないこと」がなくなってしまったのではないが避ける気遣いに心くばることなく、表現じしんが、みうちの満ちてくるときめきを覚え、日常は夢の中にも侵入する。しかしもはやその日常は超現実とも言えない。われわれの周囲の「眼に見えたかたち」だけの現実もそこに持ち込まれ、眼に見えたままに表現されていないような装いが生まれてきても、眼に見えないもののおそれをじぶんのうちがわに消化してしまったのではない。それは、つと逃げてなおその外側に、はなれたままぼんやりとそしてはっきり位置をもつ。広がった日常はいっそう危機に追い込まれる。これがわれわれの現実の広がりを獲得するについての理解の程度であった。ついにわれわれはシュールレアリスムをつかみだすしごとに成功しなかった。(以下略)

◆島尾敏雄「非超現実主義的な超現実主義の覚え書」(『非超現実主義的な超現実主義の覚え書』所収、1962年、未來社[初出:『映画批評』1958年2月号])


日本におけるシュルレアリスム運動の挫折、それへの批判を、実存の問題として語る。






2016年8月1日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』51号



表紙装画:つかもとよしつぐ

【巻頭エッセイ】
つかもとよしつぐ「美しいということが、」

【連載詩】
渡辺めぐみ「約束――ルネ・マグリット作『野の鍵』に寄せて」
広瀬大志「魔笛」
伊藤浩子「居室 (#2)」

【詩】
小笠原鳥類「いろいろな生きものの映画」
カニエ・ナハ「座間」
高塚謙太郎「もりあわせ」
藤井わらび「恋文」
森山恵「手のひらの 花びらの」
海野今日子「いざ、ゆかん(ひとをおくる)」
京谷裕彰「ムーミンはカバかな」
小島きみ子「灰色の翼の」「雨の唇」

【時評】
小島きみ子「二〇一六年一月から三月までに読んだ詩集・詩誌紹介」


◆2016年8月5日発行
 A5判 54頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 購読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで

2016年7月27日水曜日

松元悠《カメ殺人事件》《壁》のリーディング


松元悠(まつもとはるか)さんの絵はいわゆる「絵解き」によって鑑賞が深まる絵であるが、イコンなどのように道徳的な教導を目的としたものとは違い、決まった答えがない。
答えがないから、各人が自由に解釈できる。
しかし好き勝手に解釈、とはいかない。タロットカードやオラクルカードのようなリーディングを促される。
なぜなら、図像は作家の意識的な経験から無意識裡に合成された象徴性の高いものなので、自ずと名指しえぬ領域へと意識が導かれていくだろうから。そして構図には世界観が反映されている。
名指しえぬ領域に鑑賞者の意識が導かれたとしても、美的な、あるいは倫理的な判断の結果は視る度に異なるかもしれない。リーディングは真逆になることもあるだろう。

ここではっきりしているのは、作家の生活における、私的であると同時に社会的な経験がモチーフになっているということ。
一見すると閉じられているようにみえるものでも、つねに外へと開いている。作家の問題意識も、作品も、ともに開かれによって特徴づけられる。

それでありながら、作家本人は制作の過程において象徴物の意味を明確に把握しないため、作家と、鑑賞者による読み解きという行為との間を作品が浮遊する。(悟性による構築という方法を採用していない)ゆえに、作家ですら気づいていなかった恐るべき現実が、鑑賞者との対話によって次々に開示されていくのだ。
見た目は「シュール」だが、一般的な幻想美術の系譜には収まらない(もちろんそこへも広がるが)。
作家の内的世界と、作家を超越してある世界とが同一平面上に描き込まれることで、現実を超えた現実が画面の中に凝縮されている。つまり〈強度の現実〉がそこにあるということだ。

松元さんの作る絵は、紛れもなく21世紀のシュルレアリスム絵画である。それを条件付けているものがあるとしたら、〈開かれ〉に他ならない。

以下、二つの作品について、リーディングを披瀝することにしよう。

《カメ殺人事件》 水彩画,2014(筆者蔵)

描画された支持体のサイズは縦55㎜×横90㎜とても小さいが、台紙の余白と唐草の額縁が意味への衝動をかき立て、見る度に私の無意識と反応し、本質を同じくしつつも異なる寓意が湧出、結像する不思議な絵画である。

おとなしく殻に籠もって生きているカメが、悪意あるなに者かによって凶器として使われたという寓意的な絵画。実際の殺人事件のニュースがモチーフになっているそうだが、イメージの展開はそこにはとどまらない。長いものに巻かれて殻を固くする生き方をしていると暴力的な秩序に利用され、いつの間にかその秩序に同化し、自らの存在が他者を圧する凶器になってしまう・・・自発的隷従批判・・・などなど。画面の構図左側にいる黒い装束の人物(カメをもっている)が暗示するものが、実はもっとも重要な図像であることがわかった瞬間、激しく鳥肌が立った。
水面下にあって人間をおいつめ、判断を誤らせる構造的なもの一般を象徴しているようだが、殻や甲羅は繊細で壊れやすいものを守るための鎧でもある。
だとすると、カメとは「ありうるかもしれない私」の姿であるともいえる。
反面、「ありうるかもしれない私」とはカメを凶器として使う側、でもありうることがこの作品の強度であろうか。

 《壁》 リトグラフを基調としたミクストメディア版画,2015

支持体のサイズは1000mm×765mm。

画面中央に佇む、流下する滝を衣のようにまとった女性が〈壁〉を象徴している。
その〈壁〉によって人々の心が分断されてある、この世界の様相を描いているのだろうか。滝には魚が流れ落ち、滝壺の回りの沼沢には腹を切り裂かれて死んだ魚が浮かぶ。
沼沢には岩に混じって大きな蟹の甲羅もある。

〈壁〉が分断する両側の人の群れは、異なる装束を纏いながらもみなそれぞれ〈壁〉を象徴する中央の女性と同じ顔をしているのだが、これらの〈顔〉はすべて作家自身の肖像なのだという。
そして蟹や魚などの魚介類は、作家にとっては幼少の頃から身近なものとしてあったそうで、象徴的な意味をもって様々な作品に登場する。それらは制作時点では意味が開示されることなく無意識裡に配されるようだ。

私は作品《壁》を以下のように読み解いた。

ここには複数に分裂してある〈現存在〉、あるいは〈ペルソナ〉が暗示されており、それらを分離している〈壁〉すらもが自らの肖像である。この画面上の事実からは、実存をめぐる様々な相が描き込まれていることを示唆しているように解される。

そして、〈壁〉とは現存在を潜在意識の内奥で統べる上位の存在、つまりスピリチュアリストがいうところの〈大いなる自己〉、もしくはヤスパースやレヴィナスやメルロ=ポンティがいうところの〈実存〉と読める。あるいはニーチェのいう〈エス〉、あるいは〈実存〉に対峙する〈超越者〉とも。

この絵を読み解くための思考のツールは思いつくだけでもレヴィナス、ヤスパース、ユング、フロイト・・・などが挙げられるが、どのようなツールを使うかは各人の自由な選択に完全に委ねられているとしても、深層にあるものは容易には開示されないままにあるだろう。
それでも、視覚的な衝迫力をもって像が脳裏に印象づけられるため、いつか不図したことで明かされるかもしれない、といった期待は持続する。
この写真画像を見る度に、あるいはいつか再会の機に恵まれたときに、印象は何度でも変奏され、明かしえぬものが訪れる解として明かされるかもしれない。

松元さんの作品は反復して鑑賞するにふさわしい絵であり、シュルレアリスム絵画が、内包された実存思想から〈美学〉と〈政治〉へ外延していく好例である。

または、外延から内包へ、逆のベクトルとしても。




2016年7月11日月曜日

加藤巧 展「ARRAY」(the three Konohana/大阪市此花区)



美学者的、かつ批評家的な眼によって制作された、非常に理論的な絵画だな・・・。

これが初見したときの感想であるが、構造的なものの表徴として絵画を定位しているのだとしたら、その論理はどのように構築されたのだろうか? 鑑賞する私は分析してみたくなった。

絵画をいったん素材のレベルにまで解体して再構築することを制作の基礎とする加藤さんは、顔料に卵黄を混ぜて絵の具をつくり、描画する。卵テンペラという古い技法である。
古い技法であるということは、描画における制約も大きい。絵の具の伸びがよくない、一度に定着できる量に限りがある、すぐに乾く、といったように。

今回展示された支持体のサイズは30×30、10×10、60×2(単位は㎝)の3種類を基調としつつ、別の規格のものも若干ある。

これら、石膏で地塗りされ卵テンペラで描画された絵を眺めていると、そこに何が描かれているのか?という疑問が、第一印象とともに私の意識をしばらくのあいだ引きつけるのだが、その関心は持続しつつも、結局明かされることはない(挫折というよりは宙づりといった感じだろうか)。

オートマティックなドローイングをタブローに起こしたものであろう、といった見込みだけは外れていないのではないか、そんな慰めのような感覚を頼りに、鑑賞はさらに深まる。
描かれた形象はとても素朴で、色遣いも多くは落ち着いている。
そのためなのかどうなのか、しばらく視線を画面に滞留させていると、作家の狙いは色や形象それ自体にはないということだけが、はっきりと了解できる(させられる)。

そうこう考えながらフロアをさまよっていると、これら3種類の規格のタブローが、ある規則なり法則なりをもって並んでいることに、あるとき気づくのだ。

その気づきを伝えると、ホワイトキューブの壁面の長さを総計した数値を各サイズのタブローの枚数(30×30は7枚、10×10は6枚)で均等に割った間隔で配置している、そう説明してくれた。
つまり、三種類の規格のタブローの配列は、それぞれが他に対して少しずつずれたかたちになる。

この配列の論理が、作品を公開するにあたって環境との関係から帰納されたというところがたいへん興味深いのだが、場所や作品の物語性など固有の文脈には依存しないスタイルでありながら、この論理はこのギャラリーでしか導かれ得なかったのではないか、そんな気もしないではない。
他ならぬthe three Konohanaで、といえばもう固有名詞であり、固有の文脈に否応もなく接続してしまうではないか。
果たして人間は固有の文脈から完全に離脱することができるのか? と問われるならば、できない、としか答えられないだろう。しかし、この程度の接続であれば直接制作のスタイルをゆるがすことはないばかりか、固有の文脈からしか絵画と出会えない〈私〉と絵画との通路が確保されている、そんな安心感をももたらしてくれる。
いやいや、文脈を支える固有の条件や制約がなければ展示など成り立たないではないか。そもそもこんなふうに仮定に基づいて仮定を重ねるのは、屁理屈のような遊戯ではないか、とも思ったり・・・。

それはさておき、展示する場所が変ればその空間の寸法によって間隔が伸びたり縮んだりはしても、導かれた論理それ自体はすでに確固としてそこにある。量的には可変でありながら、安定した論理として。

これを、加藤さんは方程式と呼ぶ。

この方程式に代入される個々の絵画を制作する加藤さんは、絵画制作のモチーフや目的や目標といった、創作への意志を前方へと引っ張るものに対し、その手前でつねに踏みとどまっているように見受けられる。

作家を包み、そして越えてありつづけるものの前で、踏みとどまる。

この姿勢からは、超越的なものは表象しない、あるいは超越的なものへの誘惑は断ち切る、そんな慎ましさすら窺えないだろうか。

素材や方法によって制約を課すことで出来上がった展示空間は、理性的であり、論理的もあるが、このスタイルには自己の視座をつねに安定させる意味合いもあるのだろう。
そして、鑑賞する私の無意識を乱暴につらぬくようなことはしない。鋭さがないという意味ではもちろんない。そういう意味では、安心して眺めることのできる優しい絵画である。

しかし制作する人間としての自己を、観察、分析する態度に、徹頭徹尾裏付けられているという点で、実のところ実存的なテーマへの通路はあらかじめ設けられているともいえよう。
鑑賞と思索を重ねることで、やっと私の無意識に、実存に反照するものが立ち現れる、そんなゆっくりとした時間の中でではあるが。
あるいは無意識裏に刻印された印象を、理性で読み解く過程の中で・・・。

だから、「なぜ描くのか」「何を描いているのか」といった問いは、作家においてはすべて現象学的に判断留保されている、そのようにいえるのではないか。

この判断留保(エポケー)によってはじめて「描く」という行為や、「描かれたもの」の根源を辿ることができる、そんな確信が窺える。

そうして、「何を描いているのか?」という問いに、
加藤さんは「描(えが)きを描(えが)いているのだ」、と応答する。

「描きを描く」・・・。

「描き」とは、制作する主体の立ち位置を表す言葉でもあるのだろう。

タブローの点数には依存せず、さらにはタブローの大きさにも影響されない、絵画におけるひとつの美学がここに提示されている。



◆加藤巧 展「ARRAY」 the three Konohana 2016.6.17-7.31

2016年7月8日金曜日

西川茂 展「under construction or destruction」(Gallery OUT of PLACE 奈良)

 《Sealed House 8》
《Sealed House 6》

西川さんの新しい油彩画のシリーズ《under construction or destruction》は、以前から知られる作風とは大きく変化した。
とてもシンプルに、「建築を覆うシート(養生幕)に興味をもった」のだという。

建設中なのか、解体中なのか、いずれかは判然としないが、いずれにもせよ幕の向こう側には建物の一部が垣間見えており、この幕がある種の境界として表象されていることは疑いがない。
また、幕で覆われた建物には奈良の著名な建物が含まれているのではないか、そんな直感が働くが、固有名詞との関係は示唆されない。あくまでも匿名である。

ステイトメントには、以下のように記されている。

小さな魚の巨大な群れが水中を移動する時、実際には小さな魚の個別の意志の集合体であるはずが、流動する群れ自体が一つの意志を持っているかのように動いている。その絶えず変容していく様態はいつまで見ていても飽きることがない。

これを読むと、足場の骨組みにcell状に張られた幕が風にはためく様子が、まるで小さな魚の群れのように見えてくる。

作家を想像へと誘い、創作意欲を喚起するものとしての、幕のある風景。

そうして、制作された画面の上で強力な存在感を放つ幕が、作家の精神と環境との"間"を象徴するものとして私たちの前に現前する。

そう考えると、高精細に写実された風景画の上に帯状に落とした絵の具でノイズを表した、以前のシリーズとの連続性を見いだすことも可能だ。筆致においても、新シリーズで描かれる幕と旧シリーズにおけるノイズとの間に近縁性が窺える。

《Kamizono》2012(新宿御苑がモチーフ)

ここでは、美しいスペクタクルな風景(それも人口に膾炙したモニュメンタルな名所)の中で、突如として降り注ぐ違和が描かれていたのだが、このノイズもまた作家の精神と環境とを隔てる結界のようなものとしてあった。

そしてそれらはとりもなおさず、鑑賞する私の精神と絵画の深淵とを隔てるものの象徴へと転位する。

違和の前景化、幕のシンボリズム、組まれた固い足場と柔らかい幕、そして結界・・・。


西川茂 展「under construction or destruction」 Gallery OUT of PLACE 奈良 2016.5.20〜6.19

2016年5月13日金曜日

ゲーリー・スナイダー「アボカド」(ナナオ サカキ訳)

ゲーリー・スナイダー
「アボカド」

なんとまあ よく似たものよ
仏 法 と ア ボ カ ド
どこか熟しすぎ だめと見えても
チャーンといける
まだ固く青すぎ
香りの若いとこだって
固茹で卵好きには たまらない

その皮うすくとも
真中に でっかく丸い種子ひとつ
これぞまさしく 汝本来の面目――
穢れなく 滑らか
だが 割ってみようとするものも
芽生えを試すものだって
まず いない

この種子 固く つるつる
植えよといわんばかりなれど
いざ 手に取らんとすれば
たちまち 指の間をすべり抜け
逃れ去るよ 彼方へ



"Avocado"   by Gary Snyder

The Dharma is like an Avocado!
Some parts so ripe you can't believe it.
But it's good.
And other parts hard and green
Without much flavor,
Pleasing those who like their eggs well cooked.

And the skin is thin,
The great big round seed
In the middle,
Is our own Original Nature-
Pure and smooth,
Almost nobody ever splits it open
Or tries to see

If it will grow.
Hard and slippery,
It looks like Your should plant it - but then
It shoots out thru the
fingers-
gets away.




◆ゲーリー・スナイダー『対訳 亀の島(Turtle Island)』所収(ナナオサカキ訳,1991年,山口書店)。

2016年5月12日木曜日

山崎なな「アイデンティティの消失と」(In front of DADA/箕面市桜井市場)

過去にダダカン(糸井貫二)が一万円札五枚を燃やしたメールアートを制作したり、森村泰昌が《森村千円札》と称して紙幣に手を加えた作品を発表したことがあったが、捜査されたとか、逮捕されたとかいう話はとんと聞かない。
そりゃそうだ、硬貨を損壊するのは違法であっても、多くの人の手をわたるうちに自然に傷んでくる紙幣に手を加えたとて法には抵触しないのだから。

ただの紙とお金の境界を問う山崎さんの作品群は、法や制度や価値観の基準を越え、快不快を感じる私たちの心の閾にストレートに迫ってくる。

閉鎖的なギャラリー空間ではなく、子どもの画塾・アトリエDADAの真ん前、市場の通りに面した(壁のない)開放系の空間であるだけに、笑いや驚きを伴う出会いは、まさにハイデガーが芸術作品の本質であると規定した〈衝撃〉という概念にぴったりとあてはまる(『芸術作品の根源』)。

また、個展タイトルに「アイデンティティ」という言葉が入っているのはとても示唆的で、作品を目の当たりにした〈衝撃〉を機に、それぞれの内面に思索の火を点そうという意図があるのだろう。

というのも、私たちは誰かが流布さた「アイデンティティ」という言葉をよく分からないままに使っているだけなのに、まるでそれが何かの本質を表しているかのように錯覚しているものだ。実のところ、私たちには絶えざるアイデンティフィケーション(自己同一化という行為)があるにすぎない。

お金の有無、貧乏か金持ちかで「アイデンティティ」を強要するなど、社会に構造化された暴力への抗いが籠められているように思える。

そして紙幣もまた、「アイデンティティ」を失っているのだ。

《Fの肖像》


《いちおくえん》


In front of DADA 2016.5.7~5.14




2016年3月14日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』50号

詩誌『EumenidesⅢ』50号

表紙装画:つかもとよしつぐ

【巻頭エッセイ・美術と言葉が集う】
つかもとよしつぐ「美しいということが、」

【連載・詩】
渡辺めぐみ「小箱の秘密――ルネ・マグリット作『王様の美術館』に寄せて」

【エウメニデス記念五十号に寄せて】
平林敏彦 山田兼士 松尾真由美 京谷裕彰

【詩】
野村喜和夫「薄明のサウダージ(散文篇)」
松尾真由美「不明と自明と彷徨と」
たなかあきみつ「[遺失物は不特定多数の時計だとしたら・・・・・・]」
小笠原鳥類「アオサギ、湖の怪異」
広瀬大志「ミステリーズ」
海埜今日子「翡翠によせて、よ」
高塚謙太郎「わたしは本ののどになりたい」
森山恵「蔓草にせよ」
伊藤浩子「居 室(#1)」
京谷裕彰「チンアナゴとカエルウオ」「り」
作田教子「餓鬼道」
平野光子「苦汁」
藤井わらび「羽衣」
海東セラ「春のルーバー」
山本崇太「アンジェイ”セシル”ノワレト自伝」
小島きみ子「(放棄の美学)と(暗黒の土地)」

【エッセイ・シュルレアリスム特集を終えて】
小笠原鳥類「謎の鳥の声とシュルレアリスムについて?」
京谷裕彰「そして、モナドは拡散される」
平川綾真智「「シュルレアリスム運動と音楽」の交差」

【あとがき・言葉を差し出す集い】



◆2016年3月15日発行
 A5判 70頁 600円+ 送料180円
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで