2013年3月30日土曜日

高村光太郎のブロンズ彫刻「みちのく」(1953年)  


像が立っているのは、高麗橋3丁目交差点を少し南に下った御堂筋東側歩道。東京三菱UFJ銀行大阪中央支店(この作品を寄贈した三和銀行のかつての本店)のちょうど正面玄関前にあたる。
この界隈は昔から銀行、生保、損保など国内金融資本の西日本における一大拠点として発展してきた。

高村光太郎(詩人・彫刻家/1883-1956)がこの像を制作した1953年は、首相・吉田茂の有名な「バカヤロー」解散、公務員のスト権否認を最高裁が合憲とする判決、石川県内灘演習場無期限使用の閣議決定と激烈な反対闘争、恩給法改正(軍人恩給復活)、武器等製造法公布、防衛力漸増などを決めた池田・ロバートソン会談など、戦後民主主義の芽を次々と刈り取ってゆくいわゆる"逆コース"の時代真っ只中。
この後に高度経済成長が訪れるわけであるが、旧財閥系金融資本は一貫して巨大な貨幣の流れを掌握し、日本の経済を動かしてゆくことになる。

さて、作品タイトルになっている「みちのく」とは岩城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五ヶ国の古称で、現在の福島・宮城・岩手・青森にほぼ該当する地域であるが、東北地方は高度経済成長の波にも乗り遅れ、ひたすら人材供出源としての地位を強要される。それが後の原発受け入れへの伏線となってしまうのだ。

高村の作品「みちのく」は"人間賛歌"をテーマに世界的な作家の彫刻を歩道に配した「御堂筋彫刻ストリート」として大阪市が1992年以降に設置したもののひとつで、パブリックアートとしての文脈のなさはつねづね揶揄されて来た。しかし、こんなかたちで脈絡を想像してしまえるのは皮肉な巡り合せとしか言いようがない。

それでもなおというべきか、だからこそというべきか、人間へのいとおしさがいや増してゆく、そんなつよさを感じさせる作品である。


★「御堂筋彫刻ストリート」HPでの作品解説↓
 http://www.midosuji.biz/map/sculpture/info_08.html

2013年3月29日金曜日

田中智子 乾漆立像展「此方彼方(こなたかなた)」 於、GALLERY wks.(大阪・西天満)

ここにあるのは麻布を漆で張り重ねたり、木粉と漆を混ぜたものを盛って造形する乾漆という技法によって制作された立像ばかり。高価な漆をふんだんに使い、長い時間と膨大な労力をかけて1体の像が仕上げられる。
何かへの入り口で、門番のように佇む像たち。
どこへ通じているのか分からぬこれらの門は、誰かのためにしつらえられたように見え、その実、この前で立ちすくむ、ほかならぬ私に対して開かれたものに思えてくる。
カフカが著した「掟の門」のように。
その場所は、夢と現、意識と無意識、此岸と彼岸のあわいにあるのだろうか。


GALLERY wks. 3/11~3/30

※中国に起源を持ち、7世紀末~9世紀初頭にかけて日本で多用された彫像製作技法。東大寺三月堂の諸仏や興福寺の八部衆像などが有名。


小池茉祐 展「あめふり」 於、アートスペース虹(京都・三条神宮道)

すべて陶によるオブジェで構成された展覧会。
 「ちゃぷん」。これは雨の雫が水面を跳ね上がる様子。
 峻厳な佇まいの、「きりきりと、冷たい」。
冬のつめたい雨がもたらす清冽な静けさと、澄み渡る心と。
「しずく」。壺に見えるが壺ではない。

小池さんは土と火と空気によって水を表象するのだが、これらは西洋の前近代(古代ギリシャ起源)において世界を形づくると考えられた四大元素である。

アートスペース虹 3/26~3/31

山岡敏明 展「GUTIC MERISTEM グチック・メリステム」 於、Gallery PARC(京都・三条御幸町)

ボール紙にパステルで描画し、それを消しゴムで消してはまた描き直す、という行為を何度も繰り返す様子を撮影した映像を八つ継ぎ合わせたもの。

ドローイングを通じた探求は、作家がかつて目にし無意識裏に蓄積された形をめぐる記憶の海から、意識のフィルターを通すことで「あるべきカタチ/GUTIC」が現れるまで続く。
世界に存在するあらゆる形からカタチを抽出するGUTICへの生成変化は、ヴィジョンに導かれたオートマティスムなのだろう。
そしてGUTICから、また別のGUTICへ・・・。オルタナティブを求めての逡巡と打開は延伸されてゆく。
展覧会リーフレット掲載のテキストによると、「MERISTEM」とは植物の茎や根の先端部にある肉眼では見難い微小な組織の名称。この組織は細胞分裂を繰り返しながら様々に分化し、植物の各種器官を形成・成長させていく。

「GUTICとは何か?」とのアンケート用紙には、その場で以下のように回答した。

現象するモノやコトの彼方から意識を引っ張る力。あるいはその力がたまさか表した形相(けいそう)


Gallery PARC 3/19-3/31

2013年3月21日木曜日

杉山卓朗"untitled" ~Visual Sensation vol.5より


赤、白、黒、青、黄、緑という6色の図形は色ごとにそれぞれ統一されたパターンで配列されているため、離れた場所から眺めてみると無機質で暗示性の消去された幾何学模様として認知される。
ところが近づいてみると、赤い図形に自然と視線が合わされ、赤い図形とその他の図形がすべて異なった接し方をしていることに気づく。
すると、赤い図形を一つの単位とした、有機的な"個"が立ちどころに現れる。
離れた場所からだと無機的で没個性的な図形の集合としか思えなかったものが、局所的に"見る"という行為を通じて個性を備えたものに変貌する。この位相の差異や対照性が一つの平面から生み出されていることがわかれば、それ以上の解釈や贅言などはなにも必要なくなるのだ。あとはもう喚び醒まされる情緒に心を委ねてしまえばいい。

杉山さんのこの絵は「青い家」の母屋ではなく、本来展示場所とは想定されていなかった掘っ立て小屋に展示されているのだが、小屋には扉もなく吹きさらしなので、場違いなほど周囲の景観とは調和しない。だが、それが却って画面への意識の集中を容易にしてくれた。
これはある種の錯視芸術だと言えるのかもしれない。

Gallery Den mym/AIR南山城村「青い家」 Visual Sensation vol.5 3/17~4/6


2013年3月19日火曜日

美学の攪乱、の変調。あるいは・・・ ~Visual Sensation vol.5を見て

京都府南山城村のGalleryDen mym/アーティスト・イン・レジデンス「青い家」で開催中の「Visual Sensation vol.5」を見て、現代美術を条件付けている美学の規準をめぐって非常に興味深いことに気づいた。この展覧会はギャラリーオーナーの手島美智子さんが選抜した平面作家のみで構成されている。

近年、歴史的な街並みが残る地域や、高度経済成長期の開発からも取り残され過疎化した農村でのアートプロジェクトは続々と催されるようになり、美術作品はホワイトキューブに安住できなくなったことは今や周知のことである。町屋・古民家や耕作地、あるいは廃墟などこれまで現代美術が前提としてこなかった場所に展示されることで、作品を展示・鑑賞する環境の選択肢が大きく増えた。屋外への恒久設置を目的とするエンバイロメンタル・アートや、設置する建物の設計と合わせて制作される屋内のサイトスペシフィック・アートとも違い、日本独自の歴史的環境に影響されるサイトスペシフィックな展示を通じて、現代美術であることを条件付ける美学の規準が大きく揺らいでいるのである。
美しい/美しくない、面白い/面白くない、を判断する美学の規準は本来、多元的・多層的であり、それこそが現代美術であることを条件付けているはずなのだが、ジャーナリズムやアカデミズムが制度化されマーケットが確立されると、美学の規準はいつしか硬直しはじめる。ところがサイトスペシフィックな展示によって、美学の規準が多元的・多層的であることを否応なしに再認識させられるようになるのだから、そこで起こっていることは既存の立場に立てば攪乱ということになるのだろう。

しかし、今回の展覧会で分かったのは、攪乱の中で認識されるようになった価値観さえもが変調を来しているということだった。あるいはつねに刷新され続ける美学が、ときには何か望ましいものへの回帰という様相をとっているのかもしれない。

地域型アートイベントを通じたサイトスペシフィックな美学の"発見"は、一方で派手なインスタレーションやオブジェなど、視覚的な衝撃をねらったものでなければ"弱い"とする風潮をも生み出したように思う。展示点数が多すぎたり、会場となるエリアが広すぎる場合、(私は全て巡回できなくても群の力を感じられればいいという立場だが)普通は短時間でせわしなく巡回することになってしまう。そうなると、たしかに強い印象を瞬時に残す作品でなければ"弱い"となる。しかし、それだと枠の中の絵を集中して鑑賞する平面作品にとっては明らかに不利であるし、"強い"ものばかりがもてはやされるとすれば、それは芸術が擁護すべき価値とは反対のものを何の批評性もないままに引き寄せてしまう。3/17のアーティスト・トークでは出展作家の杉山卓朗さんが「その場限りのインスタレーションが求められるようなイベント性ばかりが強調されるのは恐ろしい」と発言していたように、実際、平面作家にとっては不利なのである。たしかに所与の条件の下で見てもらうには"強さ"が不可欠だが、外見上の"強さ"と作品としての"強さ"は必ずしも一致しないばかりか、本質においては別である。このことには何時でも何処でも何度でも注意せねばならない。(ここにはハイデガーのいう〈衝撃〉という概念に関わる問題や、芸術における超越性と内在性の葛藤などややこしい問題があるが、深入りはしない)。

それに対しこの展覧会Visual Sensationでは敢えて平面作家ばかりが集められているのだ。
会場がある高尾地区は小学校もすでに廃校となり、路線バスも走っていないいわゆる限界集落である。電化していない関西本線の最寄り駅には1時間に1本しか列車はこない。
だから京阪神からここに行くとなると、朝早く家を出て帰宅するのは夜になってしまう。それでもここは空気が美味しく風光明媚な山村なので、都会の暮らしで錯雑してしまった身心は、心地よく癒される(軽薄で月並みな表現ではあるが)。
あの山奥に6人の優秀な作家が集い、作品を見に多くの人々が遠路はるばる訪れる。有り難い神様や仏様を拝むために山奥の神社仏閣へ参詣するように・・・。
昼食には地元産天然イノシシの赤ワイン煮込みパスタを食べ、お茶を啜りながらみんなでのんびりと過ごしていると、そこに居合わせる人たちとの間に親近感が生まれるのに時間はかからない。顔見知り程度だった人と親しくなったり、これまでなんとなく苦手だと思っていた人とうち解けたり。
すると絵画に自然と集中できるようになり、鑑賞がよりいっそう楽しくなる。これは限られた時間でせわしなくあちこち回らねばならないアートイベントや、やはりせわしなく動き回る普段のギャラリー巡りとも明らかに違っている。
そこで思ったのは、この展覧会のねらいは平面作品を落ち着いた環境でじっくりと心ゆくまで鑑賞するための条件を設える、ということではないのかと。
敢えて山奥の古民家に平面作品ばかりを展示するということの面白さは、地域型アートイベントの観客がサイトスペシフィックな展示に要求するものとは違っているように思えるが、ここに身を置くと地域型アートイベントは今のままでいいのか?という疑問も即座に湧き起こる(これまで自分が考えてきたことも、やはり揺らぎからは免れない)。それはそれでいいという考えもまた相応の根拠があれば然り。

だが、そもそも絵画とは枠の中に意識を集中させて鑑賞する芸術なのだから、外の空間と絵画が表象する世界とは、隔絶したものとしてある。そのことを思い出せば、必ずしも外の空間に作品を溶け込ませなくてもいいということに気づく。もちろん、絵画をインテリアとしてみた場合、展示場所との調和は大切な要素ではある。
ところがここでは空間と作品との関係を超えて、作品を見に足を運んだ人の心への繊細な配慮が、物心両面においてなされているのだ。
それにより浮かび上がるものこそが、この展覧会の意義だと思った。

ギャラリーオーナーの手島さんと南山城村に惹かれて作家が集まり、作品を見に人々が遠くから集まる。
この出来事は、グローバル資本主義が荒廃させた限界集落で、それに対抗するような〈共 the common〉が芸術を触媒として立ち上がっていることを意味するのだろう。

それを手島さんは、確信をもって実行しているに違いない。
さながら"開拓者"のように。

 「青い家」でくつろぐ参加者。縁側に並ぶのは、夢の情景などを描き留めた上田章子さんの作品。
鏡に映るのは酒井龍一さんの新作。

ギャラリー・デン南山城村 Visual Sensation vol.5 3/17~4/6
出展作家: イシカワタカコ/上田章子/酒井龍一/杉山卓朗/奈良田晃治/西川茂




2013年3月18日月曜日

片山滋啓・池田友里 二人展"LIFE beyond LIFE" 於、spectrum gallery (大阪・空堀商店街脇)

 片山さんの作品シリーズ"Sanctuary"の1枚。画面中央に立っているのはフランスパン。パンとは命を支える糧であり、キリストの血肉をもあらわす。
立っているパンは生きる人間を象徴しているのだろうか。それは作家自身のセルフポートレートにさえ見える。
 堆くつまれた産業廃棄物(何世代も前のストレージシステム?)に捧げられたパンを画面中央に配した「Requiem」。
キリスト教において、パンは死者への慰めとして贈られる葬送の供物でもあるが、この光景は供犠(生け贄を供する儀式)のようにも見える。
立っているパンと横たわるパンとでは象徴としての意味が異なる訳だが、この二つのイメージの移行を辿るための手がかりは明示されない。


スーパーのチラシをスキャニングした池田友里さんの作品。
この世界に明確な色と形を備えた対象をスキャナーで読み込む際、デジタル信号によって肉眼では目にすることのできないイメージの転送が行われている。池田さんはそこに特別な意味を見出し、読み込まれる対象と、読み込まれた後に姿を表すイメージとの間、まさに現実を超越した次元にある移行中のイメージを視覚化する。

片山さんの写真には立つパンと横たわるパン、その二つの間の移行を意味するイメージの視覚化が省かれているのに対し、池田さんの写真では間のイメージだけが視覚化される。

片山さんと池田さん、二人の写真作家が駆使するイメージの詩学の異質性、その対照性が語るものこそがこの展覧会の見どころだろう。


spectrum gallery 3/15~3/26

2013年3月15日金曜日

浮田要三「『きりん』の話」より

竹中郁と井上靖が主宰した児童詩誌『きりん』(1948年創刊)は戦後民主主義を背景に、具体美術協会のメンバーや文学者、教育者が数多く関わることで詩と絵を通じて子どもの創造性をはぐくむ運動を広げてきたわけですが、編集の中心人物であった浮田要三さんは大きな困難を引き受けていました。その浮田さんが綴ったエピソードを紹介します。

少数ではありましたが、頑固な『きりん』の支持者に支えられて星さん※1も浮田もなんとか『きりん』の刊行を続けてまいりましたが、打っても響かない現象は、ボクにはどうしようもないと考えて、ある日嶋本さん※2に止めようとするボクの心境を話しました。その時、嶋本さんから「浮田さん、役に立たない本をつくろう」と真顔でいわれたのには、ドギモを抜かれた想いがいたしました。考えてみれば、文化は眼前の事態に、すぐには役に立ちません。文化はそれ自体、金儲けもいたしません。それこそが文化であると、改めて悟ることができました。また嶋本さんがそんな大切なことを教えてくれたように思いました。まもなく駄目になるであろうと予測はしておりましたが、ボクは二年分の元気をもらいました。そして、その後二年間『きりん』をつづけました。「役に立たない雑誌」とは旨いこといわれたものです。そして、またボクの脳裡に思い出されたのが井上靖さんのコトバです。「世界でいちばん美しい雑誌をつくりましょうや」ということです。
この嶋本さんの「役に立たない・・・」というコトバと、「世界でいちばん美しい」というコトバの間に違いがあったのでしょうか。
ボクはそうは思っていません。嶋本さんのいう「役に立たない」というコトバは、それ以上純粋なものはないということで、それこそが、井上靖さんのいわれた「世界で一番美しい雑誌」と、思想において合致するわけです。
『きりん』には、自由の思想と、哲学的なエゴイズムが一貫していたことで、人間の為し得る最も強い、悲しいけれども美しい魂の表現があったと考えております。
浮田要三「『きりん』の話」(『「きりん」の絵本』所収,2008年,きりん友の会)


※1 星芳郎さん。浮田さんとともに『きりん』を編集。
※2 嶋本昭三さん。具体美術協会。


2013年3月12日火曜日

『「きりん」の絵本』(2008)「あとがき」より


「戦後の関西でこどもの創作活動がいかに大切にされ、支えられたかを証する希有な記録だが、その活動は単にこどもの詩・綴り方の教育という枠に囲い込まれるべきではない。なぜなら『きりん』は、詩人・文学者・教育者とならんで数多くの美術家が協力を惜しまず、とりわけ当時の先進的な画家が積極的に加わることで、視覚芸術の面からみても他に類例のない雑誌となったからである。結果として『きりん』は、教育、文学、美術といった個別の分野を横断し、それぞれの境界を貫く根源的な思想の探求へと向かっていく。それは、こどもを見つめ支援した大人たちの思想的立場の表明として、あるいは芸術的理念の結晶として、半世紀を経た今もなお、輝きを失っていない。その出版活動は、こどもの創造力を高めるという本来の目的と共に、大人自身の人間観・芸術観をも絶えず問い直し、思考の鍛錬を課す媒体として機能していたのである。
こうした『きりん』の哲学全体を集約し、もっとも直截に伝えるのが表紙絵であり、その選択を創刊して約一年あまりで任されたのが浮田要三氏であった。」
(『「きりん」の絵本』「あとがき」より/加藤瑞穂・倉科勇三)


Atelier Ukita (大阪市東成区)

今日は具体美術協会の浮田要三さん(88)のアトリエで、貴重なお話をお伺いしました。詩人・竹中郁(1904-1982)や友原康博さんのことなど・・・。


 

教室に通う生徒さんの作品と浮田さんの作品が混在するアトリエには、幸せな空気がみちています(写真右奥、しましまの服を着ているのが浮田さん)。

 児童詩誌『きりん』(竹中郁・井上靖 監修,1948-1962,尾崎書房)の表紙絵を集めた『「きりん」の絵本』(2008,きりん友の会/ポーラ美術振興財団)。『きりん』の編集には浮田さんの他、足立巻一らも携わり、具体美術協会のメンバーの多くが寄稿や挿絵などで参加しました(表紙の絵は浮田さんが選定)。


2013年3月10日日曜日

「陶芸の提案2013"生命"」より 於、ギャラリー白(大阪・西天満) 

「陶芸の提案2013」のテーマは「生命」。
磁器轆轤によって山から吹き下ろす風を造形する、木野智史さんの「颪」。西洋の基層信仰における四大元素のひとつ"土"によって、別の元素のである"風"を表している。 流転する世界の象徴なのだろうか。

 紡いだ糸で布を織るように土を織る、谷内薫さんのシリーズ。谷内さんが土で表すものは、つねに人である。単独者でありながら複数者でもある、人と人との交わり、その表面にはあらわれない、かすかなしるしを土にきざむ。

増田敏也さんのLow pixel CG。今回はファミコン世代なら誰でも知っているあのゲームのあれ。茶釜ではない。死んだらリセットできるゲームのようにはいかない命。だが失敗してもリセットできない人生はおかしい。ヒゲのおっさんにさんざん踏んづけられ、蹴飛ばされてきたこいつは何を語っているのか。こいつがカメであることの意味は大きく深い。

◆ギャラリー白 2/18~3/2


2013年3月9日土曜日

smart exhibition of works (大阪総合デザイン専門学校2013作品展)於、堂島リバーフォーラム

年若い友人たちが作品を発表するというので覗いてみたら、展示密度の高さ、充満するエネルギーに圧倒されっぱなし・・・。細分化された様々な専攻科の実践的教育水準の高さにも驚かされました。
印象的なものをいくつか。
 ゴヤの名画「我が子を喰らうサトゥルヌス」になぞらえ、「我が身の分身」かもしれないおにぎりを喰らう伊東恭子さんの自画像。

 ミヤザキミホさんの作品。熊のぬいぐるみのような、それでいてどこか官能的なモコモコ。

藤原かなさんの作品。緻密な筆致と画面構成も魅力的ですが、色遣いによって温度の違いや印象の鮮度が描き分けられているところに感心しました。

 退廃的なにおいがする下田直道さんの写真集。
中身はこのような感じ。モデルさんはすべてフィギュアでした。

 絵本専攻のコーナーでは藤長梨紗さんの卒業制作に強く惹かれました。絵も文も装幀も、美事です。
『ジェームズ、海に行こう』。

 個人的にもっとも気に入ったのは、濵田佳子さんのカエル。
オタマジャクシだったころの尻尾が残っていてかわいい。

◆3/8~3/10 堂島リバーフォーラム



大橋範子展「行こう、行こう、LETTING GO.」 於、GALLERY wks.(大阪・西天満)

自分の腕をナイフで切り裂いたり、スズメバチを食べたり、カモを屠ったり、厳冬の雪原で全裸になったりという過激なパフォーマンスでいつも物議を醸してきた大橋範子さんの表現は、(反)芸術極道といいうるなにものかである。
それがとうとう、閾を完全に突き抜けてしまった。

★Phase 1

 電球の熱で焼けたリンゴからは甘い香りがおだやかに漂う。
 クスノキを彫った大女。大橋さんのパフォーマンスにそっくり。
 大橋さんがパフォーマンスに使ったシンバルは誰でも叩くことができる。叩いた人も、周囲の人もみな表情がほころび、晴れやかになる。
 映像インスタレーションより、熊本城にて。
九州のとある街の軍歌バーにて。
92歳のダダカン(糸井貫二)さんとのコラボレーション。

《2/11 オープニング・パフォーマンス 大橋範子&平魚泳(ひらさかなおよぐ)》



★Phase 2
 「社会を方向づけられないアートは、それゆえ社会の核心にある問題を洞察することもできず、結局資本の問題にインパクトを与えられない。そのようなものはアートではない。」
ヨーゼフ・ボイス
 大橋さんの個展開催へのお祝いにダダカンさんから贈られた伊藤博文の旧千円札を、ドラム缶風呂に浮かべている。ご祝儀がすでにしてメールアートなのだから、これは正しい使い方なのだろう。
 大女の顔が彩色され、乳房には小麦粉で膨らみが・・・
ダダカンさんからのメールアート。

《2/23 POEAC.007での大橋さん》


 佐久間新さんがクスノキの大女に匍い登る。
佐久間さんが通過した後の大女。

★Phase 3


《3/2 クロージング・パフォーマンス wks.~大阪高裁》



反原発運動への不当弾圧に対する抗議のパフォーマンス。


突き抜ける。ダダカンさんをはじめ、大橋さんが出会うべくして出会った人々との共同によって、共にあることのよろこびへと。

GALLERY wks. 2/11~3/2