2013年1月23日水曜日

アンドレ・ブルトン『溶ける魚』(1924年)を転読してみる

公園はその時刻、魔法の泉の上にブロンドの両手をひろげていた。意味のない城がひとつ、地表をうろついていた。神のそば近く、その城のノートは、影法師と羽毛とアイリスをえがくデッサンのところでひらかれていた。〈若後家接吻荘〉というのが、自動車のスピードと水平の草のサスペンションとに愛撫されているその宿の屋号だった。そんなわけで前の年にはえた枝々は、光りが女たちをバルコニーにいそがせるとき、ブラインドに近づいて身じろぎひとつしなかった。若いアイルランド娘は東の風の泣きごとに心みだされながら、乳房のなかで海の鳥たちが笑うのをきいていた。・・・
(1) 
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けがれた夜、花々の夜、喘ぎの夜、酔わせる夜、音のない夜よ、おまえの手は四方八方の糸、黒い糸、恥ずべき糸にひきとめられている卑しい凧だ! 白と赤の骨の野原よ、いったいどうしたのだ、おまえのけがらわしい樹々を、おまえの高木性の無邪気さを、そして、びっしりならぶ真珠や花々にかざられ、まあまあの銘句やどうとでもとれる意味のはいっているひとつの財布にひとしいおまえの誠実さを? そしておまえ、盗賊よ、盗賊よ、ああ、私を殺すのだな、私の目のなかのおまえのナイフをむしりとる水の盗賊よ、おまえにはこれっぽちの憐れみもないのか、光かがやく水よ、いとしい清めの水よ! 私の呪いは、おまえたちのほうに金雀児(えにしだ)のほうきをゆすっているこわいほど美しいひとりの少女のように、長いあいだおまえたちにつきまとうだろう。ひとつひとつの枝先には星がひとつずつあるが・・・
(9) 
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雨だけが神聖であり、だからこそ、嵐が頭上で大きな袖かざりをふるって財布を投げおとしてくるときに、私たちは森の木の葉のおののきにしか釣りあわないちょっとした反発の身ぶりをする。雨のフリルを胸につけた大貴族たちがある日のこと馬で通りかかるのを見かけ、〈善良なはたご〉へとむかえいれたのはこの私である。黄いろい雨があって、これは私たちの髪ほどに幅ひろい滴をまっすぐ火のなかにおとしてその火を消すものだし、また黒い雨があって、これはおそろしい愛想のよさで私たちの窓ガラスを流れくだるものだが、それでも忘れるまい、雨だけが神聖なのである。
そんな雨の日、ふだんとかわらない日だったが、私はたったひとりで、涙の橋のかけられた深淵のふちで私の窓のむれを見まもっているいときに、自分の両手が顔をおおうマスクであり、自分の感覚のレース編みにすっかり満足する仮装用仮面であることに気づく。・・・
(16)
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きみにもやがてわかるだろう、私がもはや首を吊るための雨にもあたいしなくなるとき――森のはずれの、青い星がまだ自分の役目をはたしていない場所で、寒気がその両手をおしつけながら、私に忠実でいてくれるだろうすべての女たちに、だが私と知りあってもいない女たちに、こういいにくるときがくれば。「あれは草の肩章と黒い飾りカフスをつけたりっぱな船長であったし、おそらく命のために命を投げうつ技師でもあった。・・・
(23)
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彼はどんな男か? 彼はどこへ行くのか? 彼はどうなったのか? 彼のまわりの沈黙は、彼のもっとも貞節な思考であったあの一足の靴下は、あの一足の絹の靴下は、どうなったのか? 彼は自分の長く続く斑点を、自分の狂ったガソリンの眼を、自分の人間交叉路のざわめきをどうしたのか、彼の三角形と彼の円とのあいだには何がおこったのか? それらの円は、彼の耳にとどく物音を浪費していたし、それらの三角形は、誰かがもう眠る時間だといいにくるとき、白い影をもつ使者がもう眠る時間だといいにくるとき、賢い者たちの行かないところへ行くために彼のはめる鐙だった。・・・
(25)
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・・・有名な脱走事件の数々について一冊のつまらぬ本が書かれているにすぎない。あなたがしらなければならないこと、それは、ふと気まぐれに身投げをしてみたくなるようなすべての窓の下で、かわいげな小悪魔たちが、悲しい愛のシーツを東西南北にひろげているということだ。私の観察はほんの数秒間しかつづかなかったけれど、自分がなにを知りたいのかはわかっていた。いずれにしろ、パリの各所の壁には、白い覆面をし、左の手には野をひらく鍵をもつ、ひとりの男の人相書きがはりめぐらされていた。その男、それは、私だったのである。
(32)

(巌谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫版より。各引用文末尾の数字は章番号)


ここに「溶ける魚」がいるがこちらはまだすこし私をたじろがせている。溶ける魚といえば私こそがその溶ける魚なのではないか、げんに私は〈双魚宮〉の星のもとに生まれているし、人間は自分の思考のなかで溶けるものなのだ! シュルレアリスムの動物界と植物界は、おいそれとうちあけられないものである(「シュルレアリスム宣言」岩波文庫版72頁)

ひとつの金魚鉢が私の頭のなかをめぐっていて、その鉢には、悲しいことに、溶ける魚たちしかいないのだ。溶ける魚、これについて考えてみたところ、少しばかり私に似ている。(同書訳註で引用されるブルトンの手帳の中のメモ。→240頁)

アンドレ・ブルトンの誕生日は出生証明書では1896年2月19日、魚座の第一日目になっている。しかしブルトン自身は2月18日生まれ、水瓶座の最終日であるとも公言するなど彼の誕生日は曖昧なまま謎として残されているが、金魚鉢のなかの溶ける魚のイメージというのは水瓶座と魚座、その両方にこだましているようで興味深い。

水瓶座Aquariusが象徴するもの、
エジプトではアピス神(=ナイル川)、および豊饒をもたらすその洪水。キリスト教では洗礼者ヨハネ、およびタディアスと関連。
形ある宇宙に終わりをもたらす洪水の時期、能動性と受動性の二重性を備えた時期。
脚、血液の循環(または思考の循環)、土星、洞穴と下水溝、雨をもたらすガチョウ、「力」のタロット、寒気・闇・洪水・雨・嵐、昼間の特徴としての安定・明るさ・情熱・湿性・陽気さ、に対応。

魚座Piscesが象徴するもの、
古代バビロニアでは雨と復活を象徴。水および溶解による破滅、万物の根源である水から宇宙的生命力が蘇生することを表す。金星Venusの宿る場にあたることから性愛の象徴。脚および足指、木星、「吊られた男」のタロット、移ろいやすさ・弱々しさ・女性的であること、に対応。

(以上はアト・ド・フリース著『イメージ・シンボル事典』〔山下主一郎他訳・大修館書店〕を参照)


  (「大金魚博覧会2012」〔2012年8月,大和郡山市・旧川本邸〕でのスナップ)


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