2012年10月24日水曜日

田中直樹「鳥」 (西宮船坂ビエンナーレ2012)


朝、鳥の鳴き声で目覚め、夜は家に灯りがともる。
里山では普通にある、自然と文明が調和した日常を
・・・・・・
(作家によるキャプション)



http://funasaka-art.com/

2012年10月23日火曜日

古巻和芳ほか「巣立ちの部屋2012」 (西宮船坂ビエンナーレ2012)


小鳥のうたう
温かいしずかな巣は
……………
うたと魅惑をよびおこす
それは古い家の
純粋なしきい

(ジャン・コーベール「温かい巣」)



世界は巣である。すなわち無限の力がこの巣のなかの諸存在を保護している。


※テキストは全てガストン・バシュラール『空間の詩学』(岩村行雄訳,ちくま学芸文庫)からの引用。

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2012年10月18日木曜日

かのうたかお「天アリ」 於、TANADAピースギャラリー (京田辺)

それは、博物館の土器展示室か、墳丘上に捧げられた埴輪列や祭祀用土器を彷彿とさせる佇まいである。

予め用意した型に、シャモットとよばれる耐火レンガの粉末(砂)に長石を混ぜて固まるようにしたものと、シャモット単体とを交互に詰め、それを焼成したあと型を割って取り出すと壺の形をした塊が現れる。だが、シャモットだけの層は固まらずに砂のまま残る。この砂を掻き出すことで壺に裂け目が生まれ、このような形象になるわけだが、それでもこれは何かを入れるという実用のための器ではない。



例えば私たちは、壺とか甕とかという言葉を耳にすると、それぞれの言葉が指し示す器の用途と同時に、ある形象をイメージする。器とはなにかを入れるモノであり、入れられるものが散逸せず安定した状態を維持できるよう、外部と画するために造形された境界としての物質である。
だから私たちは、器の中を想像しようとすると普通は境界の内側の空間を思う。それはそれで味わい深い空想の遊戯になるには違いないし、また古来、茶碗や皿といった什器制作においては内側の空間を考える思想があるという。
ところが、かのうさんはそのように外部と画する境界としての物質の、その内側にも世界が広がってあることを、この作品シリーズ「壺中天アリ」によって示しているのだ。
これはどういうことだろうか。
意味するものの広がりは途方もなく、答えらしきものは底のない深みにあるようだが、かのうさんご自身が語ってくれたのは、境界を画することでできる形象や大きさ、つまり外見(形式-フォルム)にはそれほど重要な意味を付与してはいない、ということであった。

砂の掻き出しを体験できるコーナーにあるのは、会期中、多くの人の手が触れることで徐々に形を成していく、その共的な行為それ自体が作品行為であるような作品である。

砂のひと掻きひと掻きが、自己と他者との関係を開いていくように、存在の裂け目をつくり、そして何かを開いていく。だがやがてその行為は、手によってはいかにしても開きえない硬さにぶちあたりあえなく挫折する。それは閉じられにほかならない。かのうさんの作品は、存在の開かれであり、閉じられでもあるということだろうか。

そこに詰まったひと粒ひと粒の砂が有限な存在を象徴するのだとしたら、砂が取り除かれた後に現れた作品が象徴するのは世界の無限であろうか。とはいえ、それもまた一個の有限な存在者であることを静かに、明瞭に、語る。
有限の中に広がる無限・・・。

だが、そのように思索する私の主体が、つねに揺らぎからは逃れられないことに気付かされる。
裂け目に意識が吸い込まれたり、生気的ななにものかに押し返されるように。

TANADAピースギャラリー 10/14~10/21
(ギャラリー空間の設計は建築家・山中コ~ジさん)

2012年10月15日月曜日

恩田武史 個展「transition」 於、ギャラリーCLASS (奈良市旧市街)

掲げた4枚の写真はすべて作品"Explosion"。



ギャラリーCLASSの展示室はホワイトキューブならぬブラックキューブ。
由来も材質も異なる様々な質料を駆使した恩田さんの立体作品は、この黒い空間にとてもよく映える。

どんな方向から見ても、離れて見ても、近づいて見ても、作品が放つアウラと視線との交わりは、つねに愉しみのなかにある。
みにくさとかわいらしさ、うつくしさとおぞましさ、おののきとやすらぎ、
それらが引き裂かれることなく共にある崇高。その戯れの妙。

gallery CLASS 10/3~10/21

西村のんきの巨女 (画廊編&ぎゃらりかのこ「構築物Ⅲ」コレクション展より/大阪・日本橋)



以前、2階和室(かのこ)の窓に、光を透過するインスタレーションとして展示されていた作品を1階のホワイトキューブに安置。

「時間と光を取り込んで女達は刻々と変化し、死と再生を繰り返す。それが力強い存在肯定となって、ユーモラスな肉体のフォルムで圧倒的に訴えかけてくるところに西村のんきの真骨頂がある。作品の自然光への投げ出し振りは実に潔く、大地に根ざした生命そのものである彼女達の、闇を伴ってすら、弾けるように明るく伸びやかな哄笑が空間全体に響き渡っている。」
(作品に寄せられた吉村萬壱さんの言葉)

白い部屋の中では、その佇まいは違えど、むしろいや増す存在感の際立ちが素晴らしい。
既視の陽光、その残像、あるいは幻の光は見えたか・・・


画廊編&ぎゃらりかのこ 10/8~10/13

2012年10月13日土曜日

ダダカンコルチカム 子孫篇






これはダダカンさんから竹村正人監督に贈られた種が芽吹き、そしてこの秋はじめて咲いたダダカンコルチカムである。




2012年10月11日木曜日

不「自然」展 於、スペース御蔵跡 (大阪・日本橋)  

ここは日本橋御蔵跡履物問屋街の一角。

玄関ホール。右手の階段を上がると展示スペースがある。

畳の上に古ポスターを裏返したりデパートの包装紙などを敷き詰めた2階展示スペースのフロアは、破れてもほとんど補修されないままになっている。

種中和義さんの作品。背後の古ぼけた襖は作品ではないが、ほとんど一体化しているのは美事。



アクリル画4点と天上からぶらさがるチューリップ、白いカーテンは上野秀明さんの作品。この白いカーテンは蓄光塗料で染められており、照明を暗くするとLED灯でドローイングができる(御蔵跡主の土師清治さんが実演してくれた)。但し、瞬時に消えていくのだが。

このビニール傘も上野さんの作品。目薬に使われる点眼容器を使って絵の具が落とされている。

天上に張り詰められたモノクロのドローイングは土師さんの作品だが、これは今回の展覧会のものではない。スペース御蔵跡には他にも(会期終了後も作家が取りに来ないなどの理由で)未搬出の作品が多数残されている。

こばやしりつこさん「たたかいすんで ひがくれて・・・」。

堀蓮慈さん「不自然な存在」。2冊のエロ本を使ったコラージュ。堀さんは娑婆では僧侶をされているそうだが、身体の切り取り方、そのセンスからして相当な生臭坊主であることが察せられる。

土師清治さんによる「不自然な椅子」だか机だか展示台だか・・・。

脚を支える?缶の中には釘がたくさん。

床の間の左壁には今野和代さんの書、
「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」。

その右には堀尾貞治さんのコラージュ。

椿崎和生さん「沈黙の春」。

水垣尚さん「サドル」。「サドル」の右側にあるのはセンサーで、このセンサーが人を感知すると窓の外にある扇風機が動きだす(次の写真)。

水垣尚さん「『今は秋』不自然の風」。




以上は日本画家・コヤマヨリコさんの作品。

これも何かの作品かと思ったら、パーティの残りもののおつまみだった。袋に入れて吊しているのはネズミ対策だそう。
あまりにも自然な光景であるが、土師さん曰く「不自然にしようとすると自然になり、自然にしようとすると不自然になる」と。


出展作家:伊藤宗一/上野秀明/こばやしりつこ/コヤマヨリコ/坂井ユウジロー/近藤さち子/今野和代/四至本浩二/清水喜美子/種中和義/椿崎和生/土師清治/春成こみち/樋口尚/瓢吉庵油坊主/堀尾貞治/堀蓮慈/水垣尚/モトダシズコ/山下克彦/山崎こまり/和田幸三

スペース御蔵跡(おくらあと) 10/1~10/13

〒542-0073 大阪市中央区日本橋2丁目20-15 



2階展示スペース手前の小部屋には堀尾貞治さんの作品をはじめ、今回の展覧会とは関係のない作品も多数展示されている。

2012年10月7日日曜日

小野十三郎『詩論+続詩論+想像力』より

98
歌と逆に。歌に。

114
素朴さということこそその時代の最も複雑な科学である。

117
一人の詩人についていえば、詩精神は各々その分に応じた内面秩序の自律性を持っている。詩人は殊更それを意識する必要はないかも知れない。生得の抒情精神とはそういうことに一切関心を持たぬことを矜としている。ためにそこに自己批判ということも成り立たない。往々にして、これが「自然」や「純粋」の意味にはき違えられる。或種の「純粋」な抒情精神に対して、我々が感じる生理的反撥。

197
現代詩は、その抒情の科学に「批評」の錘を深く沈めていることによって、短歌や俳句の詩性と自ら区別される現代の歌であることを忘れてはならない。この批評精神が失われたならば、おそらく詩は短歌や俳句の一般性、通俗性に対して抵抗することは出来ない。詩人は、現代詩のこの独自の要素を深く自覚することによって大衆に見えようとする。リズムとは批評である。抒情の科学の中に完全に融和した「批評」は政治的諷刺詩というような狭小な範囲だけでなく、他の様々な詩のジャンルに於いても美しく開花する。「批評」の要素に於いて妥協した抒情に真実の歌がこもる筈がない。

241
歌と逆にゆくとき、詩は必然的に、発想、スタイルともに複雑化する。これと反対に、詩が歌を指向するとき、それらは等しく平明化乃至単純化する。云いかえると、歌と逆にゆくと、読者にとって、詩はますますわかりにくいものとなり、歌の方向をとると、詩はしだいにわかりやすくなるということになる。したがって、詩人が、ただ読者にわかりやすいということを詩の理想とするならば、はじめから歌と逆にゆくようなプロセスは無視してもさしつかえはない。また、わかりにくい、わかりやすいというようなところに、詩の根本的な問題はないと考える詩人なら、彼がどういう状況におかれても、歌と逆に歌の方へという方法的探求などこんりんざい発足する余地はないだろう。(後略)


◆小野十三郎『詩論+続詩論+想像力』(1962年,思潮社)

藤井貞和『反歌・急行大和篇』より


現代詩は、身も蓋もないことをいってよければ、散文という文体で書かれている。あるいは散文という文体でも書いてもいい詩が現代詩ある。むろん、一般的な散文を詩だというのではなく、あくまで文体としての散文をいうのにせよ、口語自由詩とは散文詩のことにほかならない。これがまあぶっちゃけた話である。
詩かそうでないかはしたがってそれの制作者と享受者とのあいだの了解としてのみ成り立つ。詩として書かれ、詩として読まれるという信頼関係がなければ、詩はそこにはない。一般には詩の雑誌に出ているとか、教科書の詩のパートにあるとか、詩人といわれている人が書いたとかいった作品外の情報と、行分け、署名、題、活字の組み方など内部からの情報とにより詩であることの了解が行われる。
この了解はしかし盤石の基礎の上にある、ゆるぎないものではない。まさに信頼関係という、この世ではこわれ易い部類に属しているので、そこがこわれたら詩なんかけしとんでしまう。その信頼関係は詩人の内部でもたえず危機にさらされている。


◆藤井貞和「現代詩の言葉」(『反歌・急行大和篇』所収,1989年,書肆山田)


2012年10月1日月曜日

「Melting Core ~支持体に関する5つの考察」於、Gallery Out of Place (奈良)

この展覧会は、現代アートにおいては自明であるともいえる支持体の多様性を提示するものではない。
作風も方法も異なる五人の作家の営為を通じて、支持体の存在を存在論的に問うという試みであるようだ。

百合一晶(ゆりかずあき)「水平線」

原稿用紙や帳簿用紙などを規則的にカットして束ねたものを、色のついた液体に浸す。数時間浸す間に、色の染みは作家が束を落とした高さよりも上に及んでくる。ただ待つことによって像を得るという不作為こそが百合さんの絵画制作なのだが、百合さんの制作における作為の大半は紙を切って束ねる、この支持体づくりである。

やまもとひさよ「大川さん」
6月に京町堀のPort Gallery Tで展示されたシリーズ。その時のレヴュー記事はこちら→http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/06/port-gallery-t.html
複製芸術である写真の支持体としての印画紙をどう扱っているか、どう変形させているかに着目することで、作家の私的な主題が、いかにして他者との間に通路を作りうるのかを窺うことができる。

蛇目(へびめ)「Lab Work」

木製パネルにアクリル絵の具を層状に塗り重ねたものに、彫りや削りを施す。このとき木製パネルは単なる土台でしかなく、絵の具それ自体が支持体になるのであるが、この絵の具を除去するという行為によって像を生みだす営みを、蛇目さんは彫刻ではなく絵画であると位置づける。
そして絵の具の削りくずは別のパネルに塗り込められ、それをまた削って新たな作品が生まれる。

内山聡(うちやまさとし)「It's growing up」

1本につき1色の色紙テープを延々巻いてゆく。だから1色の同心円は外側になるにつれ徐々に幅が狭まってゆく。内山さんがこの作業を持続する間、視線を落とすのは狭い紙テープの面であり、内山さんにとってはこれが支持体なのである。それゆえこの色とりどりの同心円からなる層は、作家が投じた仕事の総量が窺えるものではあるが、結果として視覚化されたものでしかないという。だがそうはいっても、観者にとってはやはりここが表象の表面であるのだ。
作り手と受け手との間にある、この視線の交錯が非常に面白い。

関智生(せきともお)「Many Edges」


穴を穿ったキャンバスの裏側(あちら)から絵の具をスクィーズすることによって、表側(こちら)に絵の具が押し出される。しかし観者が視線を向けるキャンバスの表面に、作家の描画行為としてのスクィージーの痕跡は見えず、それは想像するしかない。
とはいえ、あちら(裏)であってもこちら(表)であっても、その境界に位置しながらキャンバスは支持体としての役割を果たしている。

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視覚芸術は、それを芸術として見るまなざしがなければ存在せず、作家はそれが単なる素材ではなく、芸術であることを示さなければならない(これは触覚芸術、聴覚芸術、言語芸術においても同様)。
ゆえに作家の営為とは、表象の表面とまなざしとの関係における絶えざる投企である、そう言っていいのではないだろうか。
今回の展覧会は"支持体"をテーマとしたことで、芸術の可視性というものがどのように構成されるのか、いかなる創意によってなされるのか、そしてそれがいかに重要な視点であるのかに目を開かせてくれる。

それは、芸術がものの見方を刷新することと、刷新された目に映る芸術とが開く可能性への、果敢な賭けでもあろう。

支持体の多様性が自明などではないということは、5つの考察を経てようやく浮かび上がってきた。


Gallery Out of Place 9/7~10/7

※展覧会を見てジャック・ランシエール『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社)を思い出し、付箋を入れり傍線を引いた箇所をすずろながら読み直すことになったのは幸いである。このレヴューを書く気になれたのは、そのお陰かもしれない。