2013年4月29日月曜日

谷口嘉 展 於、2kw gallery/2kw58 (大阪・京町堀)

鳥居状のオブジェは角形の棒ガラス3本を組み合わせて立てるときの原理的なあり方、丸形の棒ガラスによる球根植物状のオブジェは1本を立てるとき(1本が立つとき)の原理的なあり方を示している。
それがガラス〈である〉というだけで、なにか身心がざわつくような感じになるのだが、鑑賞の動線や距離感は作品が発するアウラとのつり合いがとれる場所に次第に落ち着いてゆく。とはいえ、危険で排他的なアウラであるとは思われない。不安定なものを安定〈させる〉ことの不自然さよりも、安定して〈ある〉ことの自然さがまさっているからであろうか。
それがガラス〈である〉ことの緊張感が、脆く傷つきやすい他者-人間であるとは限らない-との間に生まれる緊張感と相似的な関係をなしているのに気づくまで、さほど時間はかからないだろう。
感性が研ぎ澄まされるのは、それがガラス〈である〉ことによるのだから。


●TANIGUCHI Yoshimi "Glass Work Exhibition" 2kw gallery/2kw58  4/22~5/4

2013年4月20日土曜日

『きりん』の詩から (その2)

「おなら」  光山良子 8歳

わたしが おとなだったら
かんごふさんになって
おなら ばっかり こきます
びょうにんを しんさつしているときも
おならをこきます
かんじゃさんが がまんしてたら
もっと もっと
おならをこきます
けっこんしても おならをこきます
わたしのうんだ子どもにも
おならを こかします
うれしいときも
おならをこきます
おめでたいときも
おならをこいて おいわいします
わたしがいいことをして しぬと
みんな おはかにきて
ほめてくれるでしょう
そのときも
おならをこいて
みんなをおどかします
かみさまにおこられても
ぷーぷーとおならをこいて
ごまかしておきます



※竹中郁・井上靖が主宰し浮田要三さん(具体美術協会)が編集主幹をつとめた児童詩誌『きりん』が初出(掲載号は不明)。灰谷健次郎編『せんせいけらいになれ』(1965,理論社)や『しりたいねん』(石川文洋写真,1997,倫書房)に収録。



『きりん』の詩から

「いちばんしたいこと」   ひろた よしのり 7歳


ひこうきにのって
うんこをばらまいてみたい

おしっこも
空の上でおもいくそしてみたい

 

※児童詩誌『きりん』が初出(掲載号は不明)。神戸で教師をしていた灰谷健次郎が受け持った児童たちの作品をまとめた『せんせいけらいになれ』(1965,理論社)や『しりたいねん』(石川文洋写真,1997,倫書房)などにこの詩は収録されている。



John Dillemmuth展「回想/Re-collection」 於、コンテンポラリーアートギャラリーZone(箕面市桜井市場)



この展覧会で並べられた作品は、作家が現在住んでいる家に以前の住人一家が残していったスナップ写真をアクリル画にしたもの。
一見、なんの変哲もない絵にしか見えないが、よくみるとなにかおかしい。例えば、表情が妙だったり、写実絵画の空間秩序が乱れていたり・・・。おかしいとさえ思わなければおかしくもない絵かもしれないが、やはりどこかさりげない"改ざん"がなされているのではないかと疑いたくなる。描くときに感情移入がなされているようにも思えない。
また、"My Friends"のようにどの作品にもタイトルが付されているのだが、これはすべてディレマスさんの想像に基づいたものである。そしてモチーフとなった写真を直接みることができない私たちにとって、ディレマスさんがどの程度写真を"改ざん"しているのか、いないのかは結局のところ不明なのだ。

見ず知らずの家族のスナップを、他人がどのようにまなざすのか? そして作家の営為を鑑賞者はどこまで信頼できるのか?
まったき他者との距離を、人はどのように測ることができるのかが問われているように思える。

Zone 4/13~4/25

2013年4月12日金曜日

ジョルジオ・デ・キリコ 「ヘクテルとアンドロマケ」(1973年) 〔御堂筋彫刻ストリート〕




★「御堂筋彫刻ストリート」HPでの作品解説↓

デ・キリコが描くマネキンにはつねに名前や属性が与えられるのだが、マネキンが一人の場合は「吟遊詩人」「孤独なオルフェウス」「預言者」「偉大な形而上学者」、二人の場合はそれが男同士だと「考古学者」「哲学者たち」、二人が女同士だと「不安を与えるミューズたち」、二人が男女だと「ヘクトルとアンドロマケ」といったように。
そうして同じイメージを何度も繰り返し使って制作するのは、デ・キリコの思想がニーチェのいう「永劫回帰」という思想に深く共鳴していたことによる。ホメロスの叙事詩『イリアス』に登場するトロイアの英雄とその妻をモチーフにした「ヘクトルとアンドロマケ」は、そのように繰り返し使われたイメージの一つ。
1970年代は、デ・キリコが古い作品のリメイクを相次いで発表した時代でもある。




"Hector et Andoromache"

2013年4月11日木曜日

増田敏也展 於、ギャラリー白 (大阪・西天満)

Low pixel CG 「思い出ごはん」
 Low pixel CG 「産業廃棄物」

陶芸というものへの、
モチーフとなった器物への
あるいはタイトルに付された「CG」にまつわる知識といったものへの、
それら複数の先入観と目の前に提示された作品とのギャップに、鑑賞者は違和感を催す。
そしていくつものギャップの間にできた、よじれたエアポケットのようなところに意識がつなぎとめられてしまう。
それこそが、増田さんのねらいなのだろう。

哲学的な陶芸インスタレーションである。

ギャラリー白 4/8~4/20

木鳥works作品展「WONDERLAND -おかえり人類-」 於、gallery yolcha (大阪・豊崎)

 梯子を登ったところには、シェルターの扉。
 

壁の穴に立つ人物が眺めているのは、荒廃した世界・・・

タテ8㍍×ヨコ2㍍×高さ90㌢の狭小な空間に出現した"WONDERLAND"。
プルトニウムの半減期である24000年という気が遠くなるほどの年月を経た後の世界を、クリエイター集団"木鳥works(ことりワークス)"が提示してみせる。そうあるかもしれないものとして。
想像すらできないが確実に訪れる時代への、これは誠実な向き合い方なのだろう。

ここに入ると、測りがたさからくる距離感の攪乱にしばらくは幻惑されざるをえないが、そこはかとなく馴染んでくる。時間的な距離、空間的な距離、心理的な距離・・・。
向こう側から近寄ってくるように。

gallery yolcha (ギャラリー・ヨルチャ) 4/6~4/14

2013年4月6日土曜日

服部知佳展 -wakeful night- 於、Yoshiaki Inoue Gallery (大阪・心斎橋)

「journey in the blue hour」 ・・・キヌガサタケ
「wakeful night」 ・・・シイタケ

作品はすべて油彩画。
インクジェットプリントと見まがうほどに均された絵肌に、目がどこまでも惹きつけられる。
作家が対象へと向ける慈愛の眼差しに肉迫できるとしたら、この惹きつけられの中においてよりほかないのだろう。当たり前といえば当たり前のことかもしれないが、それでもこれは驚き以外のなにものでもない。
そうして、
膨大な時間を費やすことで封じ込められた、異なる時間の中に逗留するよろこびが訪れる。
夜更けの静けさとともに。

Yoshiaki Inoue Gallery 4/5~4/27

稲田早紀展 於、Nii Fine Arts (大阪・北浜)

 「ふたり」(タンポポ)
「ふたり」(シロツメクサ)

「花を摘むとき、花を殺しているような気分だった」と話す稲田さんの絵には、どれも短い言葉が添えられている。
絵と言葉の隙間にある小さな無から、存在への問いが始まる。

Nii Fine Arts 4/5~4/21

2013年4月4日木曜日

グループ展"PRISM2013" より 於、コンテンポラリーアートギャラリーZone (箕面・桜井市場)

古い市場の路地が溶け込み、壁が路地に溶け出したギャラリーZoneで開催された7人の作家によるグループ展「PRISM2013」から、若い4人の作家に迫ってみる。

西嶋みゆきさん
金魚が群れる影像を象ったひとつの版を反復的に使った多色刷木版による、「みづかがみ -あちら-」(左)、「みづかがみ -こちら-」(右)。
対になる二つの楕円には、鏡、二枚貝、水面など複数の象徴が重ね合わされており、それぞれの位相において情緒的な解釈を喚びさます。
虚像も実像もまとめて映す真理への窓としての水鏡、女性同士の交わりきれない性交、慰みものである金魚、そしてそれぞれが照応的な関係にあること・・・など。
だがここには、小さく儚きものたちが群れることで生まれる力への信頼がある。同じ版をずっと使い続けていることからも窺えるように、一貫して。

田中加織さん
「庭島(ピンク)」。
石と砂だけで山水をあらわす石庭、不老不死の薬を持つ仙人が住む山を象った台に縁起物を飾る"蓬莱山"、鉢植えを大樹のように観賞する盆栽、など何かを自然風景に見立てて愛でる慣習がこの国にはあるが、田中さんはそのようなものを愛でる人間の意識それ自体をテーマに描く。
人がそれぞれの内面に他者や世界についての身勝手な理想像を抱くのは、人が人たる所以であるともいえる。とはいえそれが人畜無害の多幸症的空想ならいざしらず、偏見や先入観そのものであることもしばしばなのだから、ことはそうすっきりとはいかない。
この派手な色彩は"どこにもない場所"としてのユートピアを、ポップに、あるいはグロテスクに象徴しているのだろうか。いずれにせよ、自分が抱いている理想像というものは、他人からすれば珍奇なものに見えたとて一向におかしくはない。
「月光山3」

岡宏之さん
「If there is nothing between A and B」
足元に設えられた木製の小さな階段に上がってヘッドフォンを装着すると、終始人の足音が聞こえるのに、モニターに人影が映るのは最初と最後の少しの時間だけ。下半身しかみえない透けた人影が階段を降りたり、昇ったり・・・。
階段とは上にあるものと下にあるものとの"あいだ"を繋ぐ通路であり、何かと何かを画する境界でもある。
階段に足を載せる動作にともなう身体感覚は、視覚(モニター)や聴覚(ヘッドフォン)との差異を一方で際立たせ、他方では感性を渾然とさせるが、ただ"あいだ"が存在することを浮かび上がらせるにすぎない。
この、表象できないものが存在することを表象するという、逆説的な方法を通じて何を見出すのかは鑑賞者の自由に委ねられている。

わにぶちみきさん
「Boundary Line」
ゆたかな色彩で描かれた画面の中央部を帯状に残し、上下を白い絵の具で塗りつぶして現れた"水平線"は、内と外、自己と他者、など何かと何かを画する境界であり、何かと何かを対照するときの基準線にもなるだろう。構図はシンプルである。それだけに一枚一枚異なるテクスチャーが、視覚から意識への働きかけにゆるやかな階調をつくりだす。
以前拝見したのは赤と青2枚のタブローが対になったもので、それはいくつもの二項対立を喚起するものだったのに対し、今回は3枚一組で、寒色系が主体となった2枚の間にシャープな赤い線が走る1枚が、すっきりと入っている。
この熱く鋭利な赤い線は、はっきりとした意思を主張しているかのようだ。 

社会性に開かれた三枚の絵は、静かでいて、力強い。


コンテンポラリーアートギャラリーZone  3/23~4/2
出展作家 : 岡宏之、岡村ヒロシ、田中加織、中崎宣弘、西嶋みゆき、西田真弓、わにぶちみき