2015年6月24日水曜日

岩名泰岳・宮永亮 二人展「Lamellar」 於、ギャラリーあしやシューレ

土俗性と詩性を兼ね備えたスタイルのドローイングやタブローで知られる画家、岩名泰岳さんの新作のモチーフはすべて作家が制作の拠点とする村にゆかりのものである。
 「観音山」
「観音山」とは、三重県島ヶ原村(現・伊賀市)にある正月堂という仏堂の裏山の名前であり、その名は正月堂の秘仏に由来するものと思われる。
この「観音山」と題する四つの連作タブローはどれも同じモチーフ、同じイメージを描いたものでありながら、絵画イメージそれ自体にはひとつひとつに微妙な違いがある。だが、決定的な違いは重量であるという。
塗り重ねられた絵の具の量の違いが、重量に差異をもたらすというわけである。
重ねられる絵の具の層は、時間の積層を意味しており、それは歴史における時間の多層性や、個々人の時間意識の多様性を示唆しているようで興味深い。
また、4枚のタブローに当てられるスポットライトは均等ではなく、画面に反射する光に偏りがあることも暗示的である。
使用された油絵の具の色は、赤、青、黄色、白の4色のみに制限されている。

キャンバスの地の上には詩のようなものが書かれているとのことだが、その上から幾層にも絵の具が塗り重ねられていくため、詩文はやがて絵の具に籠められてしまう。だから何が書かれているのかは、作家にしか分からない。だが、確かにそこにある(あった)のだ。ここには、声というものが発せられた瞬間に消えていく、はかないものであることが暗示されているようである。
分厚く塗り重ねられた絵の具の層は、織豊期に溯るという村の歴史の層をも意味するのであろうか。村で生まれ、生き、死んでいった人や動物や文化の連綿とした営みの厚みを思わせる。

ちなみに、檀家をもたない正月堂は住職が高齢で跡取りがいないため、このままでは存続が危ぶまれるとのことだ。

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宮永亮さんの作品は、複数の異なる映像を重ねることで構成される。撮影された映像は特定の地名に結びつけられているようだが、鑑賞にあたってそれが直接示されることはない。
「PEAK」
画面上部には大きな「PEAK」の文字、その下に水平線。さざ波は、ゆったりと流れる時間を表している。この尺の長い映像がしばらく続いた後、その上から先のものより少しだけ短い映像が重ねられ、また不意に変った映像はさらに尺が短くなり、次第に短くなる映像が順々に重ねられていく。後半になるとめまぐるしく変る風景に、前の映像の残像とが不思議な残響を引きずり、気がつくと鮮明だった「PEAK」の文字は判別不能なくらいに薄くなっている。上から重ねられてゆくことでだんだんと緊張感を増してゆく映像の連続を、もしもピラミッド型グラフで視覚化するならば、そのときはじめて「PEAK」の意味がおぼろげに浮かび上がってくるというもの。
水場にはときおり舟や人物が通過する姿も映されているが、映されたものの意味は解明されないままに、しかし、心にかする程度の印象だけが通過しながら、象徴的なものや喩的なものを連想するよすがとなる余韻を残してゆく。映像はエンドレスにループされるため、眺めていると余韻は反復を経て緩やかに強まり、観者の夢想との結びつきは豊かになってゆくことだろう。


展覧会タイトルの"Lamellar"とは水と油という、背反する性質の物質が層構造になった状態を指す言葉である。
二人の作家の作品に内在するなにかが層状に重ねられていくこと、また、重ねられてあるものの、別の二つのあり方が、互いに層をなすように響き合う。


ギャラリーあしやシューレ 2015.6.20~7.19

2015年6月21日日曜日

森村誠 展「Argleton -far from Konohana-」 於、the three konohana (大阪・此花)



展覧会タイトルの"Argleton"とは、2008年にGoogleマップ上で発見された実在しないイギリスの町の名である。架空の町でありながら、マップ上に出現後不特定多数の人々が店舗情報などを書き加えていったことによってその現実感が増していったという。

今回の森村さんの新作シリーズは、用途も目的も異なる様々な印刷物に掲載された地図を切り取って、そこから文字情報を修正液で消去した断片を、あるいは文字情報を残したままの断片を、針と糸で縫い合わせていったものによって構成されている。
用いられた地図はすべて関西圏のものであるが、当然のことながら縮尺はばらばらである。ただ、それぞれの断片同士は必ず線路や道路によって接続されるという法則が徹底されているため、連続した地図断片の集積がひとつの世界観を表していると見ることができる。あるいは個々の世界観を投影する大きな地図であるとも。

考えてみれば、私たちの脳内地図というのは、実に個性的で、それは主観によって編集され続けるものであるほかない。町で生活すること、移動することといった、経験と地図イメージとの複合によって、地理感というものが形成されていくからだ。だから、もしも他人の脳内地図を覗き見ることができるとしたら、それが誰のものであれ奇妙奇天烈なものであるに違いない。

そうすると、地図に嵌められた刺繍枠は、人間の意識や主観、あるいは脳を象徴していると読み取ることもできる。

それは、子どもの頃に住んでいた町の道路が、突然、今住んでいる町に繋がっていたりする、夢の中の地理をも彷彿とさせる。

用いられた地図がすべて大阪を中心とした関西圏のものであるという事実に着目すると、ギャラリーが立地する大阪で、ひいては関西圏で現実に進行しているジェントリフィケーションの深刻な問題とも、接点が生まれることになる。実際に、ジェントリフィケーションの象徴ともいえるタワーマンションの広告に掲載された地図が作品に使われているかもしれない。

また、修正液が落とされた地図は電子基板を想起させるが、電子基板とは回路であり、その形態はしばしば都市にも比せられる訳だから、こういった連想はつねに強度の現実を眼前に招来させるステップになる。それは、主観的な造形物がもたらす客観の強度といってもいい。

架空の町でありながら現実味を帯びてしまった"Argleton"の名を冠した展覧会で、森村作品が提示する架空の地図は、鑑賞者との間で意味の創出を喚起するものになるだろう。

不確かな情報が溢れる現代を生きる私たちは、いつも地図を欲している。


Konohana’s Eye #8 森村 誠 「Argleton -far from Konohana-」 the three konohana  2015.6.5~7.20


2015年6月10日水曜日

岩田萌 個展「strata」 於、SUNABA GALLERY(大阪・日本橋)


黒電話、壁掛け時計、ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』、ピアノの鍵盤、ダイヤル式の錠前、羽根付のボルト、それぞれが別個に、あるリズムをもって動くオブジェの映像を組み合わせたインスタレーションである。

オブジェの動作に音声がともなっているからだろうか、一見したところそれぞれの映像同士の間には規則性があるように見受けられ、そのような期待のもとに見入ってしまうのだが、実のところないことがわかってくる。
ないのだけれども、ひとつひとつは規則的な動きをもって反復しているので、無秩序的でありながらも、明らかに調和性をもった秩序が立ち現れる。ないのにある、なにかが。

すると、たとえば鍵盤と『はてしない物語』とが、あるいは時計の針と黒電話のダイヤルとが、相似形をなしていることにも意識は赴いてゆく。

"strata(ストラータ)"とは、stratum(層、地層)の複数形で具体的なモノとしての層、抽象的な意味での層、双方の意味をもつ、とのことだ。

SUNABA GALLERY 2015.6.6-6.17