2011年2月25日金曜日

チャイコフスキー「マンフレッド」交響曲 

シェリーの友人、バイロンの劇詩『マンフレッド』を題材にした、チャイコフスキーの「マンフレッド」交響曲にはまっています。
YouTUBEから第一楽章を拾ってみました(指揮者・どのオケ・録音時期すべて不明?)。





で、僕が聴いているのはマルケヴィッチ指揮/ロンドン交響楽団による1965年の録音であります(大阪市立図書館で借りました)。




2011年2月22日火曜日

カール・ヤスパース『超越者の暗号』

暗号は現実の超越者の言葉であって、超越者そのものではありません。それらは浮遊し、多義的であって、普遍的に妥当するものではありません。暗号の言葉は、悟性にとって聞くことができず、ただ可能的実存としてのわたくしたちにとって聞くことができるにすぎません。
史実による報告においては、暗号は種々な観点に従って外面的に秩序づけられた、空想と幻想の集積となりました。しかしそれに反して哲学的反省――哲学的反省にとってこの報告は役立つのでありますが――においては、それを思惟することによって遂行される内的行為によって、わたくしたちは自己となる準備をしたり、自分自身を想起したりすることができます。実存の根源的な覚知と決断のその都度歴史的に一回限りの瞬間においてのみ、暗号は真実に開明する力をもつことができます。

◆『ヤスパース選集37 神の暗号』(草薙正夫訳,1982年,理想社)「第八講」より。→ヤスパースは「神」「超越者」という言葉を似通って意味で頻繁に使っているという理由で、訳者により邦題は『神の暗号』とされている。


超越者とは、実存が限界状況に面した時、たまさか出会うことの出来るなにものかであり、それは暗号という形でのみ覚知できるにすぎませんが、僕らの人生において時に大きな影響を与えるかもしれないもの。それは信仰者にとっては神であり啓示であったりするし、詩人にとっては詩的インスピレーションの源泉であったり時折降ってくる暗号としての詩的言語そのものであったりしますが、別に信仰者や詩人でなくとも、何か深刻な挫折を味わったときに直感的に覚知することのできるなにものかである、とひとまずは言っておいて差し支えないでしょう。

この著書は1961年にバーゼル大学で行われたヤスパースの最終講義をまとめたもので、無神論と有神論が対自的にはなぜ和解できないかを理解する手がかりを与えてくれる哲学であると同時に、無神論と有神論との間の橋渡しの可能性を開く哲学でもあります。
そして哲学者としてのヤスパースの思索のエッセンスを全八講の中に極度に凝縮させたものでありながら、講義という性格上、様々な例を挙げながら平易に語ってくれることに魅力があり、それゆえ後期ヤスパース哲学入門ともいえる手引き書となっています。そこにはヤスパースの哲学が目指した究極の課題ともいうべき、ニーチェによって神の死が宣告された後における、新しい形而上学の構築の到達点が垣間見えるのです。
しかし邦訳は一度も増刷されず、また発行部数も少ないようなのでヤスパース選集の中でも特に入手困難な稀覯本になってしまっているのは残念でなりません。

とはいえ、第1巻の『真理について』(邦訳は全5冊、2000頁を越える大著→僕もまだ完読できてません
⇒2015年11月に完読)が公刊されたのみで遂に未完に終わった『哲学的論理学』の第2巻、『範疇論』のエッセンスが第六講に盛り込まれているのも貴重で、ヘーゲル以来の哲学的論理学の刷新と未来哲学への展望が窺えるところなどは、ポスト構造主義といった後のフランス現代思想がハイデガーを経由して考究していく数々の問題系をヤスパースが早くから認識していたことを示すものであることと併せて、アカデミシャンには反省を促したいところ。
アーレントがヤスパースとの往復書簡の中で、『哲学的論理学』を「西洋哲学の最後の書物にして、未来哲学の最初の書物である」と評した言葉は、往復書簡の邦訳が公刊されて6年が経つ今、どう受け止められているのか、あるいは受け止められていないのか・・・。

とくかく、この本にはもの凄いことがたくさん書き込まれています。それも極めて簡潔な言葉で。

ほんとに平凡社ライブラリーやちくま学芸文庫、あるいは岩波文庫の企画者には目を開いてほしいなと思うのですが、研究者も批評家も編集者も?しつこくハイデガーに呪われている現状では厳しいとしかいいようがありません・・・。ハイデガーの哲学も韜晦された暗号のような性格をもっていますが。

でも、実存をめぐる哲学はますますアクチュアルになっているのですから・・・。

 

2011年2月21日月曜日

Piazzolla "Libertango" dancer: Pablo Alonso


ついでにこれも。

Piazzolla "Le Grand Tango"


昨日、ピアソラの"Oblivion"を紹介したので、今日は"Le Grand Tango"を。
何年か前にコントラバス奏者の四戸香那さんからコントラバス・バージョンの重厚な音源をもらって大好きになったのですが、これはピアソラのピアノとクレマーという人の(おそらく)チェロ・バージョンです(普通はチェロ)。

2011年2月20日日曜日

Joan Miró Ferras Paintings / Music: Oblivion by Ástor Piazzolla


ミロおじさんとピアソラ"Oblivion"の美しいコラボ。


ライヤール ランボーの《人生を変える》とマルクスの《世界を変革する》ということが一つの同じことを意味しなくてはならない、とあなたもブルトンのようにお考えですか?
ミロ ええ、まったくそのとおりです。私がいらだつのは、苦労して描いた絵がアメリカの億万長者のところに行ってしまうことです。いやですね。

◆ジョアン・ミロ/ジョルジュ・ライヤール『ミロとの対話』(朝吹由紀子訳,1978年,美術公論社[原書:1977年])より。 

2011年2月19日土曜日

〔注目の個展〕 福永宙「golem」 於、ギャラリーwks.

西宮船坂ビエンナーレにも出展されていた福永宙(ふくなが おき)さんの個展「golem」がもうすぐ始まります。
ゴーレムとは東欧ユダヤ人の間に伝わる伝説で、粘土など無機物によってつくられた人形に、ラビ(ユダヤ教の聖職者)が神の名を唱えることによって命が吹き込まれたもの。しかし、それは人間を造物主の地位になぞらえる危険な偶像崇拝でもありました。



「ゴーレムが徘徊している。私たちに何かを言おうとしているようだ。」(ネグリ&ハート『マルチチュード』より)


2011.2.28(月)~3.12(土) 12:00-19:00
ギャラリーwks.(大阪・西天満)


レヴュー↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2011/03/golem-wks.html

2011年2月17日木曜日

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』、売れてます!

寮美千子さんのご尽力により『紫陽』23号に掲載できた受刑者の詩について多数の反響が編集人のもとに届いていますが、その寮さんが編纂し、昨年6月に刊行された『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)がamazonの詩部門で上位にランクされています。
まだお読みでない方はぜひ。




【過去の記事】
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/08/blog-post.html

2011年2月16日水曜日

『Meets Regional』273号

今出ている『Meets Regional』273号に親しい人々がかかわる記事がでています。


うんこ詩人も店員を務める京都パレスサイドホテル二階のオカバーのマスター、ぴゅーとんこと岡くんが紹介されています。
みなさま、木曜の夜はぜひオカバーへ。

フランコ・ベラルディ(ビフォ)による70年代イタリア・アウトノミア運動史『NO FUTURE』(廣瀬純・北川眞也訳,洛北出版)の書評が出ています(評者:永江朗)。この本、敬愛する編集者・竹中尚史さん(フーコーのそっくりさん)がつくりました。DIYな人、DIYに踏み出せない人にも勇気をもらえる本ですが、敢えていうと、特にドゥルーズ=ガタリやネグリについて多少なりとも言及することのある物書きの方、必読です。

アート関連では、おかけんたさんや小吹隆文さんの連載も。

2011年2月14日月曜日

ナカタニユミコ個展「トレーシング カラーズ」 於、藝育カフェSANKAKU(奈良)

奈良アートプロム(NAP)にも出展されていたフレッシュな作家、ナカタニユミコさんの個展がもちいどの夢CUBU・藝育カフェSANKAKUにて開催されています。








日常のあらゆるシーンで作家の感性に触れる、無数のモナド。

意識に型取りされたイメージの輪郭、それら一つひとつの形象がコラージュのように集積されて新たに立ち上がるイメージ。


画面を構成する図形のようなものは、作家の内面に印象づけられたイメージの中からトレースされたもののようです。それをステンシルのようにして彩色しているのでしょうか。一見したところ、アクリル画とは思えないマチエールが特徴です。




この展覧会は藝育カフェSANKAKUにて2/23(水)まで。



2011年2月13日日曜日

ランシエール『イメージの運命』より

何かを芸術として見るということ(中略)は、そこに同時に二つのものを見ることを意味します。同時に二つのものを見るということは、だまし絵や特殊効果の問題ではなく、形態を展示する表面と言葉を刻印する表面のあいだの関係の問題です。しかし、この記号と形態の新たな結び目――それは批評と呼ばれ、芸術の自律性の宣言と同時に生まれます――は、剥き出しの諸形態に意味を付け加える事後性の言説という単純なかたちで作用するのではなく、まず新しい可視性を構成することに取り組みます。新しい絵画とは、別の仕方で見るように訓練されたまなざし、表象の表面上で、絵画的なものが表象のもとに出現するのを見るように訓練されたまなざしに映じる絵画のことです。現象学の伝統とドゥルーズの哲学はとかく、表象のもとに現前を引き起こすという務めを芸術に与えます。しかし、現前とは、表象の意味作用に対置されるような、剥き出しの絵画的事物ではありません。現前と表象は、言葉と形態の二つの編み方の体制なのです。現前の諸々の「無媒介性」から成る可視性の体制は、その布置をやはり言葉の媒介によって定められるのです。


ジャック・ランシエール『イメージの運命』(堀潤之訳,2010,平凡社) 105頁~

2011年2月7日月曜日

田辺朋宣展「夢のあきらめ旅行」 於ギャラリーwks.(大阪・西天満)

昨年の岡本太郎現代芸術賞入選者、田辺朋宣(たなべとものり)さんの個展がギャラリーwks.で開催されています。


ギャラリーの入り口付近には、グラビアだかAVだかの一コマを思わせる女子高生の絵が。でもどの子も個性が感じられません。

かえる好きの僕にとって、第一印象は「カワイイ!」でしたが、じっくり観ているとカワイイでは済まない不気味さが漂ってきました。


どのかえるも妙にセクシーで、みな同じ無表情な顔をしています。


・・・・・・

同感。

ハキム・ベイが唱えるIT時代のラッダイトを思い出しました! あざやか!




作風の異なる複数の絵画群によって浮き彫りにされる様々なものが非常に興味深い展覧会です。鋭い批評性をもちつつ、それでいてどこか脱力している、その視座の据え方には目を瞠るものがありました。


ギャラリーwks.にて2/12(土)まで。