2018年1月31日水曜日

京谷裕彰「詩、そして形而上学。(上)」(『現代詩手帖』2018年2月号「【特集】21世紀の批評のために」) 

『現代詩手帖』2月号に「詩、そして形而上学。(上)」と題して論考というか、詩的哲学的アジテーション的エッセイを寄稿しております。(上)では政治と美学をめぐる形而上学的な問題系として、〈ポテンティア/力能〉と〈ポテスタス/権力〉、〈崇高〉について論じました。個別に扱われると頭を切り換えてしまいがちな話なので、統合的かつ分裂的に俯瞰する視座を探っています。
詩のみならず、美術やその他の芸術にたずさわる人々との交わりの中で考えてきた(感じたり思ったり考えたりしてもなかなか言葉にしにくい)大事なテーマですので、知的な愉しみのためではなく実践を想定して書きました。
表現すること、表現されたものを享受すること、そして生きること、すべてに関わるものとして。



◆思潮社刊 定価1280円(本体1185円)
http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/item_2004.html

2018年1月29日月曜日

小島きみ子詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』/〈解説〉「潜在意識、あるいは創造性の源へ」冒頭部分

小島きみ子さんの新詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』が出来です。
私は巻末に小島さんの詩法についての解説を書かせていただきました。
おもしろかわいい小笠原鳥類さんによる表紙の装画、軽やかな造本、ではありますがたいへんな重力のある詩集です。
散文詩型と行分け詩型とが交互に展開しながら、知の世界へと通ずる豊穣な言葉と、隙間から差し込む光や時折でくわす暗い裂目とが、私たちの潜在意識に共振します。ですが意味はそう簡単には開示されません。閉ざされたものをひらいてゆくための思索へ。思索へ、と促す力は詩のテクストから発せられるにしても、開示されるべき意味はテクストの方ではなく、こちら側にあるのかな、と思います。

小島さんとは6年にわたって5千通以上のメッセージを往復し、実存と実存とで交わってきました。そうして日々の交わりの中から生まれたのが2015年『エウメニデス』誌上において、未来を予示するべく共働したシュルレアリスム特集でした。持続する出来事の中での、あるいはいくつもの成果を経ての、渾身のお仕事です。

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2018年1月刊  A5判 56頁
頒価:1200円 
ご購入は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) 小島きみ子さんまで。

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 潜在意識、あるいは創造性の源へ
                                                京谷裕彰
                       
 小島きみ子さんの詩は、詩と論が、詩と思想が、散文的に展開と収斂を繰り返しながら転がってゆくことから、〈詩論詩〉と呼ばれたり〈思想詩〉と呼ばれたりする。
   その詩法における外形上の特徴は、文と文との、あるいは節と節との連接の妙にあるといっていいだろう。結構としては行分け詩型よりも散文詩型になじみが深いが、行分け詩型であってもその本質は変らない。ここではひとまず散文詩型について述べることにしよう。
   小島さんの散文詩型における連接の論理は、当然のことながら通常の散文とは脈絡のあり方が異なっている。順序を飛び越え、ある整序された脈絡を攪乱するそのスタイルは、小島さん独自のものである。そのシンプルに綴られる文と文との間(あいだ)にある飛び越えは、論理としてはときに飛躍であったり、夢想としては飛翔としてあるなど、異なる位相の間を意識が自由に行き来することを可能にする。整序されたものを切断するための切れ目にして、分断されてあるものをつなぐメディウムにもなる。この、切れ目かつメディウムとしての〈間〉は、控えめでありながら、何かを感受する感覚の鋭さにドライブをかける機能がある。この点、一九二〇年代の短詩運動にもみられた、行と行の間の飛躍とのアナロジーをも窺えよう。
 行・文字・余白を自由に、自在に行き来する小島さんの精神と、われわれを包み、かつ超えたところの領域に伏蔵された真理にまつわるなにがしかを通じて、読者であるわれわれの精神とがここで出会いを遂げる。
 これは行分け詩型における改行と同様のものであり、また、余白でもあるが、あらかじめ視覚的には計量されない余白である。だから、文字通りの余白を視覚的に明示する必要がないのだ。・・・・・・・・






2018年1月28日日曜日

『アトリヱ』7巻1号「超現実主義研究号」(1930年1月)での有島生馬の言葉


「○ 有島生馬 /シュールレアリスムの代表的見本と見られるべき作品は、まだ日本に表れて来てゐません。然し日本画なるものは大体がシュールレアリスムの傾向をもつものですから、日本人にとってこれは立体派などより、適した性質のものと思はれます。」
(記事「超現実主義批判」より)

「日本画なるものは大体がシュールレアリスムの傾向をもつもの」とはとてもユニークな見解である。今、日本画の実作者でシュルレアリスムの傾向をもつ人といえば三瀬夏之介さんや松平莉奈さんはじめ、枚挙に遑がないというか有島のいうことが今まさに21世紀の日本画に当てはまりうるのではないか、と思えてきた。
但し、21世紀の日本画は形式的にそうである、デュシャンやアブストラクトと並んで現代美術を条件付けるものとしてのシュルレアリスムという観点からみればという話なので、実作者当人それぞれの自覚の有無はさておいても、思想的な強度というところを指標にするならば、また違った見え方はするのだが。
もちろん、有島が生きた時代の日本画は形式的にシュルレアリスム的なものは僅少だったはずだから、彼はある本質的ななにかを見抜いていたのだろう。

形式はともかく、誰かから贈与された痙攣が、制作という営為、結晶した作品を通じて見知らぬ誰かへと受け渡される回路のなかに、大切なものがあるはずである。