2018年3月20日火曜日

壺井繁治「蝶」

あの標本室には
わたしの死骸が並んでいる
たくさんの仲間と共に
ピンで止められて
喪章の如く静かに

それなのに

あの痩(や)せて尖(とが)った昆虫学者は
首をひねりひねり
考えこんでいる
ときどきわたしの翅(はね)
(かす)かに動くので

こいつ

まだ死にきれぬのか
太い野郎だ
それとも
風のせいかな

そういって

昆虫学者はぴしゃりと窓を閉めた

ああ、わたしは

最早(もはや)生きものではございませぬ
単に一羽の標本の蝶にすぎません
それでも
そんなに固く窓を閉められると
息詰まってしまいます。

わたしの譫言(うわごと)に驚いて
妻は起き
静かに窓を開け放った

外は

花の咲いたように
明るい夜だった
あまりの明るさに
泣けて来た





(『壺井繁治詩集』[1942年]所収。底本は小野十三郎/岩田宏 編『日本詩人全集25 中野重治 小熊秀雄 壺井繁治』[1968年,新潮社])




2018年3月14日水曜日

長谷川由貴 個展「Node of Light and Shadow」に寄せたテキスト(spectrum gallery/大阪市中央区)

 長谷川由貴さんは美しい絵を描く。
 ところが、「美しい」という判断を経て心に落ち着く場所を確保するよりも先に、否応もなく湧き上がる感覚がある。それは、長谷川さんが描くことによって到達しようとする感覚、あるいは描くことを促した感覚にまつわるものであるのだろう。
 モチーフとなっている、絶対的な他者としての植物の存在感、植物が漂わせる気、あるいは信仰の場、神聖な場に漂う神気、など〈おそれ〉を催すものは〈崇高〉なるものだ。また、画題として付された言葉と絵には適度な距離があり、言葉はさしずめ詩でもある。その〈あいだ〉には、鑑賞者のために用意されたと思えるなにかがある。
 そんな長谷川さんの仕事はアカデミックな観点からすると、普通に具象絵画であり、植物画、風景画などと分類されるに違いない。一義的にはその通りで、それは間口の広さを根拠づけてもいる。しかし対象として植物や風景を描きつつも、心は超越的なものにしか向かっておらず、作家はここに確信をもっている。私はこのように超越性を志向する長谷川さんの仕事を、ある種の〈形而上絵画〉、とひとまずは位置づけることにしよう。
 近作では色彩もさることながら、光と影の表象、そのコントラストに顕著な特徴があり、とりわけ影を表象する〈黒〉は強い重力を帯びている。〈黒〉に引きつけられるのは、私たちの無意識そのものが、文字通り無意識裡に呼応しているからであろう。光を吸収し、何ものにも染まらない〈黒〉は、深淵としての〈闇〉でもあるが、それは私たちの潜在意識の内奥にある〈暗がり〉と、ときにあえかに、ときにまぎれもなく、結ばれる。実存へと反照する強さ、の基底でもあろうか。
 なにか超越的なものが作家の心身を通して描かせているのではないか、とも思っている。

                           京谷裕彰(詩人・批評家)
※会場配布テキスト





◆長谷川由貴 個展「Node of Light and Shadow」 2018.3.9~3.19
 spectrum gallery(スペクトラム・ギャラリー) 
開廊:金-月曜 13:30-19:30 / 日・祝・最終日 13:00-18:00
休廊:火・水・木

2018年3月9日金曜日

京谷裕彰「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」(『詩と思想』2018年3月号「【特集】戦時下のアジア詩人―風車詩社/尹東柱」)


ホアン・ヤーリー監督『日曜日の散歩者』、イ・ジュニク監督『空と風と星の詩人 尹東柱の生涯』、二つの映画の上映にあわせた特集に、私は「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」と題して14枚書きました。
台湾の若き詩人たちが手にした日本のシュルレアリスム詩誌、その運動史観をめぐっては、「日本のシュルレアリスムは瀧口修造以外みんなダメだった」的な評価がなんとなく、しかし根強くあるわけですが、戦後シュルレアリスムの普及に大きな功績のあった大岡信、飯島耕一の所論とその影響力の問題を指摘しております(もちろん彼ら二人だけの問題ではありませんし、瀧口が特別な存在だったのはゆるぎないのですが)。
これは1956~1958年に大岡や飯島も参加していた「シュウルレアリスム研究会」で共有された認識であること、この研究会は挫折してしまった戦前のモダニズム文学全般、とくにシュルレアリスム文学を検証することを通じて自分たちの世代の思想を練り上げるという明確な目的、その(歴史的)文脈のなかで共有されたものでした。
ですが今、戦前期日本のシュルレアリスムについて考え、そして実践する際、大岡、飯島の古いシュルレアリスム観から脱却して鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』が重視する〈痙攣〉(ブルトンの言葉)にシフトするならば、〈痙攣〉をキーワードにするならば、従来とはぜんぜんちがう風景がみえてくるという論です。日本の詩人たちも画家たちも台湾の詩人たちも、みんな投げられたものに〈痙攣〉したのです。
もう一点は、これもなんとなく使われている「モダニズム」という曖昧な言葉について、〈革新としてのモダニティ〉と〈反動としてのモダニティ〉という、近代性の二つの位相を、その都度その都度区分しましょう、という話。これはネグリ/ハート『〈帝国〉』第2部第1章の理論整理に基づいております。
モダニズム文学の、その潜勢力を個別に、的確に評価するための指標です。


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特集:戦時下のアジア詩人―風車詩社/尹東柱

【巻頭言】
原子修「今問われているもの」
【評論】
大東和重「台南の詩人たち―植民地の地方都市で詩を作る」
陳允元「植民地台湾におけるモダニズム詩運動 ―忘れられた風車詩社詩人たち」
松浦恆雄「台湾 レスプリ・ヌーボー の詩人 水蔭萍」
八木幹夫「西脇順三郎の詩と台湾詩人たち」
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岡本勝人「一九二〇年代の日本の文学―横断する遊歩性―」
京谷裕彰「戦前期日本のシュルレアリスム、モダニズム、その表象の問題」
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池田功「日本統治期の韓国文学管見―韓龍雲・李陸史・尹東柱を中心に―」
河津聖恵「映画『空と風と星の詩人』が教えてくれるもの」
愛沢革「尹東柱と「戦場の父」たちを訪ねる旅―映画「ドンジュ」にふれながら」
中村純「一編の詩で在り続けること―尹東柱が最後に暮らした街から―」
【映画情報】
映画『空と風と星の詩人―尹東柱の生涯』
映画『日曜日の散歩者 わすれられた台湾詩人たち』





◆土曜美術社出版販売 2018年3月1日発行 1300円+税 


2018年2月26日月曜日

京谷裕彰「詩、そして形而上学。(下)」(『現代詩手帖』2018年3月号「【特集】詩と哲学」) 

ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な命題から説き起こし、偏狭なオカルティズムや傲慢な科学信仰に陥ることなく形而上学の広大な領野に分け入ってゆくための手引きとして、ヤスパースの〈包越者(ほうえつしゃ)〉論へと導きます。
そうして、〈愛〉にもとづく変革へ。

【特集】詩と哲学――新たなヴィジョンへ

対談 星野太+佐藤雄一
論考 細見和之、山内功一郎、小笠原鳥類
作品 野村喜和夫、千葉雅也

クリティーク
岩成達也 中動相についての覚書(上)
京谷裕彰 詩、そして形而上学。(下)
高塚謙太郎 抒情の奇妙な冒険(下)

新連載 伊勢功治 北方の詩人 高島高

短期集中連載詩 目黒裕佳子

連載詩 高橋睦郎、和合亮一

連載
粟津則雄 パリのランボー
久谷 雉 2000年代詩とはなにか?

作品
貞久秀紀、谷合吉重、若尾義武

連載
徳弘康代、月永理絵、新井卓

俳句時評 外山一機
短歌時評 瀬戸夏子

月評 峯澤典子、紺野とも

Requiem 三木卓 追悼・小長谷清実

Book
吉田文憲 佐々木幹郎『中原中也――沈黙の音楽』
土肥秀行 和田忠彦『遠まわりして聴く』
川上明日夫 現代詩文庫『三井喬子詩集』
武子和幸 金田久璋『鬼神村流伝』
小野原教子 ジョン・ソルト、田口哲也、青木映子訳編『レクスロス詩集』
田中庸介 新井高子編『東北おんば訳 石川啄木のうた』
栗原飛宇馬 十田撓子『銘度利加』
山嵜高裕 谷合吉重『姉の海』
鳥居万由実 中原秀雪『モダニズムの遠景』

Review
篠原誠司 涯テノ詩聲 詩人 吉増剛造展
鈴木余位 吉増現代 欧州ツアー
氏家和歌子 「編集者・谷田昌平と第三の新人たち」展
マーサ・ナカムラ ライブ「秋の夜長のあなんじゅぱす(う/た)」

Report
木戸多美子 仙台ポエトリーフェスティバル2017

新人選評
広瀬大志、岸田将幸

新人作品 3月の作品

◆思潮社刊 定価1280円(本体1185円)
http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/item_2015.html

2018年1月31日水曜日

京谷裕彰「詩、そして形而上学。(上)」(『現代詩手帖』2018年2月号「【特集】21世紀の批評のために」) 

『現代詩手帖』2月号に「詩、そして形而上学。(上)」と題して論考というか、詩的哲学的アジテーション的エッセイを寄稿しております。(上)では政治と美学をめぐる形而上学的な問題系として、〈ポテンティア/力能〉と〈ポテスタス/権力〉、〈崇高〉について論じました。個別に扱われると頭を切り換えてしまいがちな話なので、統合的かつ分裂的に俯瞰する視座を探っています。
詩のみならず、美術やその他の芸術にたずさわる人々との交わりの中で考えてきた(感じたり思ったり考えたりしてもなかなか言葉にしにくい)大事なテーマですので、知的な愉しみのためではなく実践を想定して書きました。
表現すること、表現されたものを享受すること、そして生きること、すべてに関わるものとして。



◆思潮社刊 定価1280円(本体1185円)
http://www.shichosha.co.jp/gendaishitecho/item_2004.html

2018年1月29日月曜日

小島きみ子詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』/〈解説〉「潜在意識、あるいは創造性の源へ」冒頭部分

小島きみ子さんの新詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』が出来です。
私は巻末に小島さんの詩法についての解説を書かせていただきました。
おもしろかわいい小笠原鳥類さんによる表紙の装画、軽やかな造本、ではありますがたいへんな重力のある詩集です。
散文詩型と行分け詩型とが交互に展開しながら、知の世界へと通ずる豊穣な言葉と、隙間から差し込む光や時折でくわす暗い裂目とが、私たちの潜在意識に共振します。ですが意味はそう簡単には開示されません。閉ざされたものをひらいてゆくための思索へ。思索へ、と促す力は詩のテクストから発せられるにしても、開示されるべき意味はテクストの方ではなく、こちら側にあるのかな、と思います。

小島さんとは6年にわたって5千通以上のメッセージを往復し、実存と実存とで交わってきました。そうして日々の交わりの中から生まれたのが2015年『エウメニデス』誌上において、未来を予示するべく共働したシュルレアリスム特集でした。持続する出来事の中での、あるいはいくつもの成果を経ての、渾身のお仕事です。

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2018年1月刊  A5判 56頁
頒価:1200円 
ご購入は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) 小島きみ子さんまで。

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 潜在意識、あるいは創造性の源へ
                                                京谷裕彰
                       
 小島きみ子さんの詩は、詩と論が、詩と思想が、散文的に展開と収斂を繰り返しながら転がってゆくことから、〈詩論詩〉と呼ばれたり〈思想詩〉と呼ばれたりする。
   その詩法における外形上の特徴は、文と文との、あるいは節と節との連接の妙にあるといっていいだろう。結構としては行分け詩型よりも散文詩型になじみが深いが、行分け詩型であってもその本質は変らない。ここではひとまず散文詩型について述べることにしよう。
   小島さんの散文詩型における連接の論理は、当然のことながら通常の散文とは脈絡のあり方が異なっている。順序を飛び越え、ある整序された脈絡を攪乱するそのスタイルは、小島さん独自のものである。そのシンプルに綴られる文と文との間(あいだ)にある飛び越えは、論理としてはときに飛躍であったり、夢想としては飛翔としてあるなど、異なる位相の間を意識が自由に行き来することを可能にする。整序されたものを切断するための切れ目にして、分断されてあるものをつなぐメディウムにもなる。この、切れ目かつメディウムとしての〈間〉は、控えめでありながら、何かを感受する感覚の鋭さにドライブをかける機能がある。この点、一九二〇年代の短詩運動にもみられた、行と行の間の飛躍とのアナロジーをも窺えよう。
 行・文字・余白を自由に、自在に行き来する小島さんの精神と、われわれを包み、かつ超えたところの領域に伏蔵された真理にまつわるなにがしかを通じて、読者であるわれわれの精神とがここで出会いを遂げる。
 これは行分け詩型における改行と同様のものであり、また、余白でもあるが、あらかじめ視覚的には計量されない余白である。だから、文字通りの余白を視覚的に明示する必要がないのだ。・・・・・・・・






2018年1月28日日曜日

『アトリヱ』7巻1号「超現実主義研究号」(1930年1月)での有島生馬の言葉


「○ 有島生馬 /シュールレアリスムの代表的見本と見られるべき作品は、まだ日本に表れて来てゐません。然し日本画なるものは大体がシュールレアリスムの傾向をもつものですから、日本人にとってこれは立体派などより、適した性質のものと思はれます。」
(記事「超現実主義批判」より)

「日本画なるものは大体がシュールレアリスムの傾向をもつもの」とはとてもユニークな見解である。今、日本画の実作者でシュルレアリスムの傾向をもつ人といえば三瀬夏之介さんや松平莉奈さんはじめ、枚挙に遑がないというか有島のいうことが今まさに21世紀の日本画に当てはまりうるのではないか、と思えてきた。
但し、21世紀の日本画は形式的にそうである、デュシャンやアブストラクトと並んで現代美術を条件付けるものとしてのシュルレアリスムという観点からみればという話なので、実作者当人それぞれの自覚の有無はさておいても、思想的な強度というところを指標にするならば、また違った見え方はするのだが。
もちろん、有島が生きた時代の日本画は形式的にシュルレアリスム的なものは僅少だったはずだから、彼はある本質的ななにかを見抜いていたのだろう。

形式はともかく、誰かから贈与された痙攣が、制作という営為、結晶した作品を通じて見知らぬ誰かへと受け渡される回路のなかに、大切なものがあるはずである。