2014年11月20日木曜日

岩名泰岳・衣川泰典・松井沙都子「在り処をみる」(衣川泰典キュレーション/はならぁと2014こあ,工場跡/奈良きたまち)


東大寺旧境内に位置する「工場跡」は大正14年(1925年)に建設された乳酸菌飲料の研究・生産施設だった建物で、操業当時の記憶を宿す器具や機械類とともに大切に維持されている。
この、古代から近代、そして現在まで連綿と人々が生を営んできた場所に作品を展示する3人の現代美術家たちは、各自がそれぞれに追求するテーマのもと制作された作品を持ち寄ることで、ある〈共〉的なものの浮上を目論む。

一枚目の写真、一番奥の部屋の土間に据えられた発光するオブジェは松井沙都子「ホーム」。

白い、低い壁に囲まれたフロアリングの床に放たれた光は、工場跡最奥の空間を下から照らす。

・・・「ホーム」へ。

「ホーム」から・・・。


「在り処」とは、いかなるものが在る場所なのか?

作家の意識にフォーカスされた日常の風景が集積された、衣川泰典「スクラップブックのような絵画 #18」。
作家自身の目で現実の風景を切り取ったものでありながら、すでに誰のものでもないゆえに、郷愁、追憶、懐古、といった情緒的なものを喚起する象徴として見る人を選ばない。
記憶からはかなく消え去って行くものや、日常のあらゆる些細な物事へのいとおしみを、他者の感受性との交わりの中でポジティブな力へと化すことが賭けられているようだ。
ささやかであることを、どこまでも肯定する態度の中でそれは現勢化するに違いない。


衣川泰典「記憶のかけら_トンネル」 。
煉瓦造りの炉?に開く穴と相似形にあるトンネル。

岩名泰岳「山ノ花」。
シリーズ「蜜ノ木」の、木のうろから蜜が流れ出すフォルムが、花へと転移したかのようなイメージ。

 岩名泰岳のドローイング。
右の紙面に走る文字のようなものは、鳥の鳴き声を書き取ったものだという。「畑のスケッチ」と題された左の紙面に走る文字のようなものは虫の声か、草の声か。
生物であると無生物であるとを問わず、自然の事物に宿るエレメンタルなものとの交わりは、岩名にとって日常ものとしてあるのだろう。

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この展覧会のテーマは〈記憶〉であるが、誰か固有の人格と結びついたそれではなく、どこまでも匿名性のなかに伏在しているように思える。

ここに身を置くと、調和ときしみ、古いものと新しいもの、明るさと暗さ、冷たさと温か、などが視覚から感受できるのだが、第一印象が過去へと遡及する意識に添う衣川作品と、未来を志向する意識に添う松井作品、その両方を兼ね備えつつも古いものに溶け込んだ岩名作品、それらの一つ一つと工場跡の空間、そして移ろう時間との関係はこの展示の大きな見所である。

静的であり動的でもあるその関係性の中に、もちろん鑑賞する〈私〉も含まれている。

個々の作品が強烈なアウラを放出する工場跡の器具・機械類と絶妙なバランスで併存する、それが可能となる条件を探ることから得られるものは計り知れない。
視覚や身体の動線と作品の静的な配置とが、鑑賞という行為のなかでつねに布置を変える、そのときどきの意識の流れが、視線の中断や、不意に始まる他者との会話のなかにあってさえ阻害されないのは、この絶妙なバランスに由来するのだろう。

とりわけ、この空間にもっとも強いコントラストを与えるのが松井作品であることは一目瞭然であるが、そのコントラストによって表象される、過去へと遡及する意識と、未来を志向する意識とが、釣り合うポイントを丁寧にさぐりながらこの展示がつくられたことが窺える。

過去にあった出来事をまるでなかったことのように錯覚させ、そのまま記憶を塗り替えてゆくスペクタクルの暴力が支配する現代にあって、〈記憶〉が主要なテーマとなることには大きな意義がある。
この〈記憶〉のポリティクスをめぐる、ラディカルでありながら極めて控えめな実践からは、スペクタクルの美学への批評的視座をこそ読み取らねばならない。

松井沙都子「屋外のシーン」。

小さな部屋の奥の、白いカーテンの向こう側を想う。
射しこむ光に、声に、誘われて。

声の彼方にあるものは、〈未来の記憶〉であろうか。

ならばそれを受け取る力が、私たちに試されているのかもしれない。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 奈良きたまち 2014.11.7-11.16
 工場跡事務室

2014年11月15日土曜日

今村遼佑 「すます/見えてくるもの聞こえてくるもの」 (森山牧子キュレーション/はならぁと2014こあ,南大工町の家/郡山城下町)

玄関を入ってひとわたり部屋を見回したあと、最初に目を惹き付けた小さなオブジェ。

「夜の金木犀」。小さな電柱の足下に、敷き詰められた金木犀がかすかに薫る。

「ほとり」。積み重ねられた本の上に、とても小さな木馬が回転している。

かつて商店街に面したガソリンスタンドで働く人の家族寮として使われ、空き家になってからもかなりの年月が経過する「南大工町の家」。
その1階にひっそりと佇む小さなものたち・・・。

2階には家具も調度もなく、
襖も取り払われ、壁も畳も朽ちた二間続きの部屋に、
晩秋の風が吹き抜ける。
1階でみたような、作品らしい作品は一瞥したところ見当たらない。

しかし、南の間の中央には、「家と窓と木について イメージをこねくり回しながら、周回する。見えない木の根元のぐるりを巡るように。」と題された今村さんのテキストが印刷されたリーフレットが積まれ、一枚とって読むように勧められる。

この、「家と窓と木について」は14章からなる散文詩である。
これがフィクションなのか、そうでないのか、判別する手がかりは今のところ何もない。
読み始めてすぐ、畳の縁の何ヶ所からか、発光するものに気づいた。

気にせず読み進める。

(以下、いくつかのくだりを抄出)

「2
今年の梅雨が明けてしばらくした頃、アトリエの近所にあった大きな杉の木が、ある日突然なくなってしまっていた。その後しばらくは、その光景に強い違和感を覚えていたはずなのに、いつの間にか気づくとその不在感はしずかに立ち去っていた。大家のおじいさんが・・・(以下略)」

「5
その窓からは、中庭の大きな木が見えた。
ひとがいなくなってだいぶ経つという民家で、木は巡り続ける季節を告げてきたことだろう。
空白の中でこそ見えてくる色がある。」

「7
止まったままの柱時計を直そうかと文字盤を外してみたが、どうやら分解して洗浄しなくては直らないようだった。ゼンマイを巻いて振り子に重りを付けて揺らすと数十秒は動くが、やがて止まってしまう。(中略)・・・鐘の方はちゃんと動いて時刻の数だけ時を打ち、がらんどうな部屋に心地よく反響した。
庭では木漏れ日とともに、時間が落ち葉のように降り積もっている。

「8
古い照明が点滅を繰り返すように、長い過去をもった建物は、現在に過去が時折ちかちかと交錯する。その点滅は眩暈に似て、足裏の地面の感触を頼りなくさせる。」

「11
流れ続ける時間の中にあっては、動かない方が時間を感じられる。昔作った本の上に小さな回転木馬が回る作品が、あるギャラリーの中では、ほとんど止まって見えたのに、そこではむしろ速く見えた。(以下略)」

「12
夜の道路で曲がり角を曲がった拍子に金木犀の匂いにぶつかった。いつもよく通る道が不意に質感を変える。
(中略)匂いに関する記憶はいつも不確かなのに、何よりも記憶に直に触れたような気がすることがある。巡る季節の螺旋を・・・(以下略)」

「13
落とし穴から上空を見上げると、過去と未来が直線で・・・(以下略)」







敷居をまたぐ、
部屋を眺め回す、
そこにあるものをじっと見る、
階段を昇る、
部屋を眺め回す、
畳に腰を下ろす、
風にさらされる、
綴られた詩を読む、
頭をよぎるものに心身を任せる、
外の景色に見入る、
階段を降りる、
一度みたはずのものを、ふたたびじっと見る、
庭にさす光を感じる、
家を後にする、

そして今、一連の出来事を思い返す・・・


今村さんと森山さんが見せてくれたものは、「先端的な」と一般にいわれている現代美術を条件付けるものに対し、つねに異なる美学があることを示す、すぐれて詩的な実践である。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16


西嶋みゆき「たまおくりのはて」(はならぁと2014ぷらす,柳花簾・洞泉寺町の町家ほか/郡山城下町)


「たまおくりのはて」

柳花簾(りゅうかれん)の奥まったところ、マッチで象られた金魚が底を這うように泳ぐ二つの水槽のガラス壁を、二つともどもに映像を透過させるインスタレーション。
立てられた一本のマッチに、火のついた別のマッチが寄せられ、接がれるように火が点(とも)される。
さかんに炎が上がるのはほんの一瞬だけ。
映像は、その一本のマッチが燃え尽きるまでの束の間。

水に棲まう金魚と、短く細い軸木に点るマッチの火。
遠い二者を結ぶものとしてのマッチが、
大切な人の思い出を喚び醒ますよすがに・・・

うつくしさと、はかなかさと・・・

「泡沫の目合い(みつぼのまぐわい)」

見上げると、おぼろな光を透かす薄い膜のようなものに刷られた金魚の群れが、かすかに揺らいでいる。
ひんやりとした空気が流れている。

「たまおくりのはて -なれのはて-」

梯子を登ると、金魚の群れが刷られたポイ(金魚すくいの道具)が燃えさかり燃え尽きる映像と、燃えがらのようになったポイが並ぶ。


西嶋さんが金魚の群れを刷るときの版木は、長年、様々な作品の版として反復的に使われているのは周知のことであるが、反復される金魚の姿のみならず、西嶋さんの行為それ自体もまた、私たちを惹き付けてやまない魅力の源である。




洞泉寺町の町家、古い箪笥の抽斗のなか。


※西嶋さんは、以上のほか、カフェ・さくら舎でも展示している。
※「たまおくり」(魂送・霊送)とは、盂蘭盆(うらぼん)で祀った死者の霊を陰暦7月16日の夜に火を焚いて送りかえすこと。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16

野田万里子「ながれゆく」(はならぁと2014ぷらす,元星野美容室/郡山城下町)

 廃業後20年が経過した美容室をまるまるつかった展示。
鏡に、窓ガラスに、
ドローイングされた図像からは、美くしくありたいという願望や美しいものへの憧憬が湧き上がる様子が窺われる。
そうして、
その反照から、根源へとなにかが溯ってゆく感覚に見舞われる。

今回、野田さんは以下のようなテキストを会場で配布し、入り口ドアのガラスにも記している。

むかし、大学の時にお金が無くて画材も買えずにいました。
悩んでいるとお腹がすき、パンを買いにコンビニにゆきました。
コンビニでふと横を見ると、経済新聞が目にとまり、そこには
デフレだの、株価だのがまるで日本国中がその問題に直面している
かのように大きく書かれていました。
しかし私は思います。たとえデフレだろうが株価が乱高下しようが
私のサイフには200円しかないし、私は今お腹がすいているし。
私はその200円で経済新聞を購入し、家に持ち帰り
思い切りらくがきしました。(抜粋)

これはそのときの日経新聞(2007年11月15日付)になされたドローング作品。
90年代からうんざりするほど氾濫し、人々が踊らされてきた「規制緩和」「改革」なる言葉が、巨大資本の優遇と個人事業者の圧迫、その結果としての地方都市の衰退という現在に連なる問題を隠蔽的に象徴するものであることに思いが到る。都市が直面している問題は、人為によるものであって自然現象ではない。

これは地域型アートプロジェクトの開催が全国各地で要請されている現状の、大きな原因であることはもはやいうまでもないが、野田さんは巨大資本とは対極にある丸腰の表現者として、当時も今も、ずっと対峙しつづけている。
だが、それは存在論的な対峙であって、政治性や社会性をもったアートとして狙って制作されたものではない。

野田さんの日々の営みのなかで生み出されたものに、こうして応答することができる、そのことにこそ大きな意味があるのではないか。

何気なく落書きした女の子の影像を拡大し、新聞紙に鉛筆で描画した作品が、鏡に映る。
HANARART(はならぁと)2012・旧川本邸会場での野田さんの展示から、こだまするものに耳をすませてみたい。


◆奈良・町家の芸術祭 はならぁと2014 郡山城下町 2014.11.7-11.16

2014年11月14日金曜日

伊吹拓「終わらない絵」(木津川アート2014,NTT)


眺めるというより、絵の前に心身を晒しているような心地になる。

理性的な思惟にまつわる語彙も、理性によっては捉えきれない情念や感性にまつわる語彙も、立ち現れた途端になにかがすり抜けてゆく。
しかしそれで終わるわけではない。
たとえ書き付けることができたとしても、それは表象できないものの輪郭をなぞるような言葉にしかならないのだが、やはりそこで終るわけではない。
また、絵とはまったく関係のない想念をもったまま絵の前に立ったとしても、絵は感性的なあらゆるものに作用して、絵がない場所にあってはありえない展開を、想念にもたらすことだろう。

・・・などと考えていると取り留めがなくなってくる。
伊吹の絵に面したり、絵のことを思い出すと、いつも言語を統御する力が緩んでしまうのだ。
それは落ち着きとしかいいようのない境地へと、心が到りついていることと関係があるらしい。

そのとき、私の脳や感覚器官はどのような状態にあるのだろうか。とても興味深い。

"言葉を拒絶する絵"とでもいうしかない、抽象絵画がここに。


木津川アート2014  11.2-11.15

2014年11月13日木曜日

林直「ユメカウツツカ」(木津川アート2014,寺前邸倉庫)



大正期にベスト・ポケット・コダック(通称:ベス単)というカメラが輸入され流行したそうだが、その古いカメラのレンズを現在のカメラに移し替えて木津川市の人々や集落の様子を撮ったスライド・ショー。
百年前から続く風景と、百年後に残したい風景をめぐって、百年前に自分がいたら・・・、百年後に自分がいたら・・・、と作家は空想する。
ベス単のレンズが描写するレトロでソフトな印象が、そんな作家の空想から、モデルになった人や、写真を見る人の空想へと差し渡される仲立ちとなっているようだ。


木津川アート2014  11.2-11.15

木津川アート2014 路傍の風景 

相楽(さがなか)神社。塀の外からも見える浅山美由紀さんのインスタレーション。


水路に挟まれた道の角に立つ小杉俊吾さんの彫刻。このあたりの路地に張り巡らされた古い水路は、造形的にも面白い。 (大里地区)

水路を堰き止めて作った「池」で養殖される巨鯉。

ニュータウンエリア、相楽台小学校沿いの街路樹の上で佇むキツツキ。

近鉄高の原駅北側、線路沿いに流れる渋谷川。瀧弘子さんはここで赤く長い衣を引きずって歩くパフォーマンスをした(その映像を含むインスタレーションは女性センター2階で展示されている)。

私は昔、ここで野生のタヌキをみたことがある。

70年代初頭、ニュータウンが造成される以前はここ平城山(ならやま)丘陵には無数のタヌキがいたに違いない。
だが、私がタヌキをみたのは前世紀の末ごろと今世紀初頭のことである。



木津川アート2014  11.2-11.15

城戸みゆき「泳ぐことさえできるというが」(木津川アート2014,旧漁協事務所)




廃屋になって久しい旧漁協事務所に残された古い漁具の数々を、なにかの物語が演じられるジオラマのように仕立てたインスタレーションが、この入り口の奥に広がっている。
当然といえば当然であるが、朽ちた建物や使い古された漁具が鑑賞者の感性によびかけるものは、新しい物語ではない。

しかしある時代が過ぎ去っても、そこに人々の営みが続く限り、新しく生まれるものはなにかをそこに接いでゆく。
それを象徴するかのようなシーンが、別の部屋にある。



木津川アート2014  11.2-11.15

楢木野淑子「そこに立つ、存在する」(木津川アート2014,土師山公園)


陶板を積み上げることで構成された柱状のオブジェが、公園の開けた場所に林立する。
この作品をギャラリーwks.のホワイトキューブで初めて見たときには、想像力で補うしかなかった風や、移ろう陽光が、描かれた形象をイメージに変成する力をしずかに後押ししてくれる。
そうして映し出されるものは、有史以前から刻々と積み重ねられてきた自然や人々の営みの、もっとも豊穣な要素をあらわす象徴的なイメージであろう。
季節が晩秋であることは、ここに佇むことの意味を、よりいっそうゆたかなものにしてくれる。


木津川アート2014  11.2-11.15