詩とは、大まかに定義すれば、「想像力の表現」であり、人間の発生と同じところに端を発してゐる。人間は、外からと内からとの印象に絶えず慄へてゐる楽器である。定めない風が交々に吹き寄せるとき、それにつれて定めない旋律を奏でるエオリアの竪琴に似る。しかし、人の内部には、否、おそらくあらゆる有情のものの内部には、一つの原理があつて、竪琴とは異なつた反応を生む。旋律を奏でるばかりでなく、己を揺り動かす印象に呼び覚まされた響きと動きとを、内面から調整していくことによつて、諧和を生みだすのである。
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社会をつくるところの人間は、その情熱と歓喜とを抱きつつ、更に他の人間の情熱と歓喜との対象になる。
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世界が若かった時、人は踊り歌つて自然物を模倣したのだが、その動作の中にも、或る種のリズムと秩序とを守つた。
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社会が若かつた頃は、物を書くものは皆詩人だつた。なんとなれば、言葉そのものが詩であつたからだ。そして、詩人になるといふことは、真実なるものと美しきものとを認知することであつた。真と美とは一言でいへば、先づ存在と認識との間に存在する関係、次に認識と表現との間に存在する関係に於て善なるものをいふのである。
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詩人は永遠なるもの、無限なるもの、唯一つなるものと結ぶ。彼の詩念についていふ限り、時と処と数は存在しないのである。……エスキルスの合唱、『ヨブの書』ダンテの『天堂』は、なににもましてこの事実を示す。
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言語、色彩、形態、宗教と社会との風習、これらはみな詩の媒介物となり素材ともなる。結果と原因とは同じ物であるというやうな考へによれば、かうしたものみなが詩である。しかし、もつと限定された意味で詩と云へば、それは言語を排列することをいふ。ことに、人間性の不可測の奥底に深く潜む崇高な力から生れ出るところの韻律的な言語を排列することである。
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思想界の革命を起こす作家たちは、勿論先駆者であると共に詩人でなければならない。その言葉は、真実の生命に触れた表象によつて事物の不滅の似姿をあらはす。そればかりではない。その文脈は調和と韻律とに満ちて、自ら韻文の本質を持つ。なんとなれば、それは永遠の音楽を反響させてゐるからである。一方、その主題の形態と動きとにふさはしくするために伝承的な韻律形態をとつた大詩人たちも、事象の真を認知し伝達する力に於て、伝統の韻律を破棄した革新家たちに劣つたのではない。シェイクスピア、ダンテ、ミルトン、(近世作家ばかりを例としても)たちは、最も高い力を備えた哲人であつた。
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詩とは生命をその永遠の真実に於いて表現した像(イメヂ)である。
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時は、個々の事実に対しては、その上を蔽ふ情感を剥ぎ取つて、その物語の美と効用とを破壊する。しかし、詩のそれを増大し、その詩が含む永遠の真実の新しい驚異にみちた適合性を繰りひろげてゆくのである。
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詩はつねに快感を伴ふ。詩の訪れを受ける心はすべて自らをうち披いて、その歓びにまじはる叡知を吸収する。世界が若かつた頃、詩人自らも聴者も、詩の美点を充分に自覚しなかつた。詩は神秘な不可思議な形で作用し、意識を超え、意識の上にあるからである。
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詩人は闇に坐して自らの孤独を美しい声で慰めつつ歌ふ夜鶯である。詩に耳を傾ける人は、この見えざる伶人の音楽に魅せられながら、心を動かされ和らげられたと知りつつも、それが何処からひびき、何故にかくなるかを知らぬ人である。
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詩は隠れたる世界の美の蔽ひを取りのぞく。見狎れた事物をも新しい驚きの光りで見せる。
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社会の腐敗が到達するところは、あらゆる歓びの破壊である。それだからこそ腐敗といふ。物の髄から蝕むやうに、想像と知力とから始めて、やがて麻痺性の毒のやうに拡がってゆき、愛情を滅ぼした後は欲情そのものをも滅ぼし、遂にすべてが死物のやうな団塊となつてその中に感覚すらも残らない。
古代の宗教と風習との体系が遂にその輪廻を終焉させたとき、世界は全くの混乱と闇とに陥入つたと見えた。しかし、基督教、又は騎士道の宗教、風習の作家等のうちに詩人はあらはれた。彼らは未だ曾つて考へられなかつたやうな思想と行動と形式を創造し、それが人間想像の世界にうつされた時、狼狽した兵卒のやうな思想界を導く将星となつた。
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あらゆる勝れた詩は無限なるものである。それはそのうちに槲の樹を潜在させる槲の実に似てゐる。つぎつぎに蔽ひを剥ぎとつて行つても、その最も内奥の裸身の美といふべき意味は決してあらはとなることがない。偉大な詩は永遠に叡知と歓喜とに溢れた泉である。或る一人、或る一時代が、それぞれの独特の関係に立つてそのほとばしりを汲み乾したと思つても、さらにつぎつぎのものが起こり、新しい関係が常に展開し、見えざる、知られざるよろこびの源泉となる。
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詩人は不可知の神興の託宣者である。未来が現在の上に投げる巨大な影を映す鏡面、自らは知ることなく表現する言語、己はなにを叫んでゐるか知らずに人を戦に駆る太鼓であり、動かされたる力でなく動かす力である。詩人は世の認められざる立法者である。
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※『詩の擁護』は入手しやすい上田和夫訳『シェリー詩集』(2007年改訳,新潮文庫)にも収録されている。
左翼運動が徹底弾圧された後、一部を除いてはラディカリズムらしき気風が時代の表舞台から退潮してゆく1936年に、この本が伏せ字無しの無修正で出版されたということは驚くべきことだ。ロマン主義など当局からは軟弱者の嗜みと見做されていたであろうことは容易に察せられるが、それにしても岩波書店、講談社、改造社といったアカデミックで社会性の強い出版文化を尻目に、高踏的、耽美的な豪華本ばかりを手掛けた第一書房・長谷川巳之吉の手になることを思えば、幾分か合点がいく(代表作は1925年の堀口大学『訳詩集 月下の一群』など)。
ちなみに長谷川は後にヒトラー『我が闘争』、大川周明『日本二千六百年史』といったファシズム本でベストセラーを飛ばしたが、1943年に内閣情報局に協力したことに自責の念を感じ、翌年すべての権利を講談社に売却して廃業した。
本書は現在においても貴重なシェリーの邦訳散文集であり、作家兼英文学者・阿部知二の仕事の中ではユニークな部類に位置づけられる。
さて、英文学史上最高の詩論の一つと云われる『詩の擁護A Defence of Poetry』の結語、「詩人は世の認められざる立法者である」は、アントニオ・ネグリの〈構成的権力〉論を手引きにすることでアクチュアルに読み解くことができる※1。
パンフレット『アイルランド人民に告ぐ』(1812年)のグレート・ブリテン憲法の優秀さについての自註で「出来上がった憲法よりも、その発端の精神の方がより望ましいと思っています」※2と述べているように、〈構成された権力〉としての憲法よりも、憲法を制定する力である〈構成的権力〉を重視しているからである。シェリーがこれに相当する論理を、(たとえ未熟ではあっても)理解していたことはまず間違いない。
ロマン主義のラディカリズムをアクティブ化させる上でこの点は注目に値するが、この話はまた機会を改めて論じることにしよう※3。
※1、アントニオ・ネグリ『構成的権力』(杉村昌昭・斉藤悦則訳,1999年,松籟社)、ネグリ/ハート『〈帝国〉』(水島一憲・酒井隆史他訳,2003年,以文社)
※2、『飛び立つ鷲 シェリー初期散文集』(阿部美春・上野和廣・浦壁寿子・杉野徹・宮北恵子訳,1994年,南雲堂)
【追記】
※3 拙稿「詩、そして形而上学。(上)」(『現代詩手帖』2018年2月号)
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