2012年11月30日金曜日

井桁裕子「加速する私たち」 於、ときの忘れもの(東京・南青山)

 「墜落」(桐塑に油彩)



 「加速する私たち」(桐塑に油彩)





桐の粉に糊を混ぜ粘土状にした素材で造形する、桐塑(とうそ)という伝統的技法で制作された「加速する私たち」は、2年近い制作期間の間中(その最初の頃から)、壊しては作り直し、削っては盛り直して磨く、をずっと繰り返しながら仕上がる直前まで細部の造形を続けたのだ、と井桁裕子さんはいう。
数ヶ月前には、白い肌に手直しの痕でまだら模様になった着彩前の姿が撮影・公開されたのだが、もう二度と実物で見ることのできない姿が公に示されたということは、この人形の体に起こったあらゆる出来事全てを含み込んだものとして、作品が成り立っていることを意味しているように思う。見る人の趣味的好悪を超えて迫り来る、とてつもない存在感は、そのような制作姿勢によって担保されているのだろう。
一つひとつの作業工程の中で加えられた手の痕には、微細な時間が折り畳まれているかのようだ。
360度×360度、あらゆる角度から、あらゆる角度に。

この「加速する私たち」は、天空揺籃に所属する舞踏家・高橋理通子(たかはしりつこ)さんをモデルにした作品であり、小さめの作品「墜落」も、つくっているうちに顔が理通子さんに似てきたのだという。
舞踏=動、人形=静。舞踏家の理通子さんは生が死を内包していることを象徴する白塗りの肌で舞台狭しと躍動するのに対し、人形の理通子さんは傷ついた姿を晒しながらも生命力漲る血色のいい肌で静止している。
モデルと作品との対照性を通じて、矛盾や二律背反、そしてあらゆる対極的な価値観がひとつの場所に共在する作品が、両義性を開示する。しかもその両義性は、さらなる複数的な位相の重なりをかたちづくる。

そうして目の前に現れた作品は、高橋理通子さんの肖像であると同時に、感性までもが高速化を強いられる時代を生きる、"私たち"の肖像でもあるのだ。

人はどこまでも独りであることを峻厳に示しながら、それでいて理通子さんの似姿は孤絶への志向ではなく、共にあることへと向かって走り続ける。たとえ肉体が千切れても、墜落しても、主体が想定する事態を超えた圏域から、掬ってくれる手が現れるという希望。
神のように大きく頼もしい手であったり、赤ん坊の小さな手であったり。
そこに空虚なニヒリズムはない。しかしニヒリズムのどん底を経て、その彼方を展望した者だけが確信をもって語ることのできる"私たち"という一人称複数がここにはある。
作品と共に過ごしたあとに残る余韻の、神々しいまでの清々しさはおそらくそれに起因するのだろう。

ところで、玩具と芸術とのあわいから、フェティッシュ・アートとしての球体関節人形という分野をハンス・ベルメールが開拓し四谷シモンが展開したことは美術史に記録される事実であるが、彼らを継ぐ作家としてその系譜上に井桁さんがいることもまた周知のことである。
だが井桁さんは、自らが拓いた肖像人形という閾をも超えて、新たな境地に達しているのではないか。
にもかかわらず、それは他ならぬ人形であり、極北の舞踏を志向する理通子さんとの交わりの中でしか生まれ得なかったものなのだ。

その、舞踏家の身体を静止した姿でつくるという行為は、永遠への差し向けを意味する行為である。
現前する世界秩序の彼方に光るものをしかと見ているからこそ、井桁さんはそれを成し得るのだろう。

"加速する私たち"が今いる場所は、決してpoint of no return―後戻りの出来ない地点―ではないことを、語っている。
確かな視座から。
おぼろげな未来への投企という形をとって・・・。


ときの忘れもの 井桁裕子作品展「加速する私たち」 11/22~12/1


陶による小品も粒よりのものが並ぶ。


2012年11月28日水曜日

落合風景 瀧口修造夫妻が愛でた枝垂れ桜(西落合)


詩人・美術評論家の瀧口修造(1903-1979)が自宅庭で生ったオリーブの実を親しい友人たちに瓶詰めにして贈っていたことは、日本美術史の1頁に刻まれるべき有名なエピソードである。
(上掲2枚の写真は『別冊太陽』382号「特集:瀧口修造のミクロコスモス」〔1993年,平凡社〕より)

蔵書も夢日記もすべて戦災で失った瀧口は、戦後8年間の間借り生活を経て1953年(昭和28)、住宅金融公庫を利用して西落合のこの地に小住宅を新築した。
その西落合も今や都内有数の高級住宅街。
瀧口の自宅があった場所は今、敷地一杯に建てられた他人の邸宅になっており(写真左側の赤レンガの家)、名高いオリーブの木はもうそこにはない。
ただ、瀧口夫妻が毎春愛でていたという隣家の枝垂れ桜だけが往時を偲ぶよすがである。


※この枝垂れ桜が咲いた様子は、旧瀧口邸の現在を探訪した中村惠一さんのブログにでている。



2012年11月27日火曜日

落合風景 尾張屋(ソバ屋)

 喫茶ワゴンのほど近く、林芙美子がデートに使っていた尾張屋は健在。

蕎麦とミニ天丼のセット(800円)。お味は極上、非の打ち所なし。

落合風景 喫茶ワゴン跡

太宰治、壇一雄らがよく出入りしていた喫茶ワゴンの跡地は今、カフェ・コロラドになっている。場所は西武新宿線中井駅を東にすぐ、妙正寺川の北岸。



落合風景 辻潤終焉の地

辻も何度か書いているように、この世の中は己に忠実に生きようとすればするほど、生活に困窮するようにできている。
辻潤には、世人に比して特別に高望みがあったわけではないのである。
「自分はできるだけ明るい気持ちをもって、なるべく他人の邪魔にならないように、自分の好きな事をして、出来るだけこの世を楽しみ、セイゼイ長生きをした上で死にたいと思っている」(「ひぐりでいや・ぴぐりでいや」)ぐらいのことである。しかしそれが実は大変困難なことであった。辻は自分のこの単純にして穏当すぎる願望のために、ついに生きる術を失って、窮死に追い込まれてしまったのである。

玉川信明『ダダイスト辻潤』(1984年,論創社)より


本土空襲が始まった1944年(昭和19)11月、陀ッ仙・辻潤が最期を迎えたアパートは今、整備工事によって深く抉られた妙正寺川に消えている。
落合を散策した11月24日は奇しくも陀ッ仙の命日であった。
ナビゲーターの中村惠一さんが用意してくれた花束を手向け、私たちは陀ッ仙を偲びながら手を合わせた。

2012年11月26日月曜日

落合風景 村山知義の三角のアトリエ/村山籌子「私を罵った夫に与ふる詩」

ナップ(全日本無産者芸術聯盟)の中心メンバー村山知義の三角のアトリエがあったあたり(上落合1丁目6〔旧上落合186番地〕)。ナップ本部から少し南に下ったところ、月見岡八幡神社の近くにある。



村山知義・籌子(かずこ)夫妻が住み、ここには尾形亀之助、柳瀬正夢、小林多喜二、平林たい子らが出入りした。
村山知義の三角の家「アサヒグラフ」1924年3月29日号.jpg

間取り図。(2枚の画像は『アサヒグラフ』1924年3月19日号に掲載されたもの)

『女人芸術』1929年(昭和4)3月号に掲載された村山籌子「私を罵った夫に与ふる詩」(案内をしてくださった中村惠一さんの蔵書)。

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「私を罵った夫に与ふる詩」 村山籌子


私の夫よ、
あなたは私を豚と罵つた、
私は豚です、全く豚です、
アルカリ性の声を持つた
あの人の頬に接吻できるまでは


ああ、私は、
私を拒むあの人の鼻から吹き出す
湿った温室の空気の
又、もつれたブロンドの息を吸いたひ!
それはくさつた花束の中にのこつた
花の匂ひです。


私を浄めるものは
少しばかりくさつたこの聖なるものばかり


豚よ、豚よ、
みんなはお前を憐れむだらう、
たとへお前が
清浄に洗はれた
コンクリートの上に住んでゐても
豚は豚らしきが故に軽蔑されるであらう。


つまりは
愛人の息を吸ふにある。
その中に私は見る、
悲しさを、
美しさを、
又楽しき夢を。


私の夫よ、
あなたのたつた一言の侮蔑は
私をかく転生させる。


永遠の愛人よ、
子供らしき私よ
私の夫よ
万歳!!



(漢字は通用字体に変更)

この号の目次(クリックで拡大)。詩、小説、児童文学、社会評論、ジャーナリズム、などジャンルを問わず当時の女性文筆家の大半が寄稿していただけあって、錚々たる顔ぶれである。




落合風景 NAPF(ナップ・全日本無産者芸術聯盟)本部跡

 そこはフジオプロから南に少し下った場所。この西向かいには小説家・武田麟太郎が一時期住んでいた。
往時を偲ばせるものは、土台の低い石垣のみ。

cf.wikipedia 「全日本無産者芸術連盟」

落合風景 佐伯祐三アトリエ記念館

 1921年(大正10)に建てられた佐伯祐三(1898-1928)のアトリエ付き住居は木造鎧張り、三角屋根、大きな採光窓という、その後20年以上スタンダード化するアトリエ建築の典型的様式であった(1930年代に普及する池袋モンパルナスの貸しアトリエ建築では壁面に巨大な作品搬出口が付くという進化形になる)。現在、住居部分はもうないが、アトリエ部分は解体修理を経て展示施設として公開されている。



1926年頃に描かれた「落合風景」の中の1枚(⑦)は今、

こんな風に。少し拡幅された道と電柱だけが往時の風景を忍ばせる。

◆「新宿区立佐伯祐三アトリエ記念館」 東京都新宿区中落合2-4-21(当時は東京府豊多摩郡落合村字下落合661番地)

落合風景 赤塚不二夫

 フジオプロ玄関庇上で逆立ちをする黄金のバカボンパパ。ここは外山卯三郎の旧宅のすぐ近く。
玄関灯はニャロメのステンドグラス。

西武新宿線中井の商店街で買い物をするとバカボンスタンプでポイントが貯まるらしい。

2012年11月23日金曜日

此花の風景

六軒家川にかかる朝日橋より梅香堂を臨む。

初代大阪船奉行所、共同荷揚場跡地に建立された碑。

塀の向こう、グレーのビルの2階は近日コマーシャル・ギャラリーとしてオープンする。


鶴鳴荘(かくめいそう)。

此花の新しいオルタナティブ・インフォメーションセンター「モトタバコヤ」。

四棟の木造建築をくっつけた此花メヂアの外観(その1)。

此花メヂアの外観(その2)

此花メヂア屋根裏部屋の階段。

宮本ビルの踊り場窓。

玄関ドアが三枚並ぶアパート。



cf.「此花アーツファーム


2012年11月20日火曜日

権田直博「足風呂ンティア」 (見っけ!このはな2012/此花区梅香の空き地)

浴室の壁画を描く権田直博さんの、空き地を全部使ったインスタレーション。
この暖簾をくぐると・・・ 

櫓が出現! 最下層には湯船があり、足湯を体験できる。二層目には足の欠けたちゃぶ台(昭和戦前期~戦後期ごろ?)がつり下げられ、その上には蝋製の食品サンプルが器からこぼれて並ぶ(ご飯、サラダ、寿司など)。三層目には盆栽と洗濯物、最上層にはなぜか炊飯器が置かれ、会場番号のフラッグと「風呂」という看板文字が風に揺れる。
この櫓は権田さんから設計図を託された地元の大工職人、長岩正一さん(83歳)が建立した。

 作品を解説する権田さん。
 おなじみ山中湖から見た富士山は、シュルレアリスム的テイストで空き地の北側隣家の壁に掛かる。
山中湖・・・ではなく、水溜まりに映える逆さ冨士。
その畔りではインディペンデントキュレーターの山中俊広さんがコンクリートブロックに腰かけ鑑賞しているが、狙ったわけではない。くすしき偶然である。

見っけ!このはな2012