2011年9月30日金曜日

浅田ちかさんの陶展と日本酒の会 (大阪・日本橋のギャラリー編&かのこ)

9/29夜、浅田ちかさん制作の器で美味しい日本酒を呑むという粋なあつまり。「お酒の向こうの景色」。

器の上には浅田さんの手料理。


池垣伊智郎さんのコーディネイト。お酒はすべて「ひやおろし」でした。これが全て空っぽになるという凄まじい宴に・・・。お気に入りは右から二番目の「蒼空」。短稈渡船(たんかんわたりぶね)という山田錦の親にあたる珍しい酒米を使った京都の銘柄です。




この酒器は“練り込み”の技法によるもので、裏と表の模様が同じになっています。


酩酊する千光士誠さん。


最初は銘柄・産地・原料米の種類などを確認しながら、口当たり、香り、のどごし、後味、唇に触れる酒器の感覚、盈たされたお酒にゆらめく器の模様などを静かに楽しんでいたのですが、案の定、それは最初だけのことになりました。酔い始めるとどれがどれだったか分からなくなり、後はただ美味い美味いとひたすら呷るだけ・・・。気がつけば泥酔状態・・・。
こんなのは何年ぶりだかわからないというほど泥酔したので、たぶん7合くらいは呑んだと思います。

美しい器に、美味しいお酒と料理、そして面白くてヘンな人たちがたくさん集う素晴らしい宴と相成りました。



1階では権藤ミノルさんの個展を開催中です。古代の墨書土器や木簡にしるされた習書、あるいは戯書を思わせる無意味な鏡文字が集積された作品。ながめていると、様々な想念や見聞き行為した記憶などで混沌とした自らの意識が不思議と整理されていく感覚をおぼえます。グラデーション豊かな青の効果なのでしょう。


http://ami-kanoko.com/

2011年9月23日金曜日

『斜塔』1号、『ami.me』 



先日の東京ポエケットでは数多くの詩誌を買ったり貰ったりしたのだが、中でもとくに素晴らしかったのがこの二誌。


関口ベティさん編集による『斜塔』1号は、一夢零、黒崎水華、Marie Mariera、関口ベティの四氏による詩作品と舞踏家・吉本大輔さんへのインタビューによって構成されている。

横山絢音(よこやまあやね)さん編集による『ami.me』は短歌、自由詩、小説、そして往年のシュルレアリスト達による実験「甘美な死骸」の変奏合作詩からなっている。執筆者は吉田恭大、朱位昌併、千種創一、横山絢音、唐崎昭子(装幀・装画)の五氏。美しい装幀に目を引かれて手に取ったのがよかった。


これら両誌は一つ一つの作品の質もさることながら、詩的潜勢力への揺るぎない信頼を感じさせるその編集姿勢に強く心を打たれた。

ここに集う若い表現者達は、構成された制度と化したりそこを目指したりするものとは無縁な、つねに新しく構成され続ける力の水脈をしかとその目で見ているのだろう。

既成詩壇・歌壇などおおよそ壇とつくところに居直る手合いがその潜勢力を理解できる詩誌であるとはとうてい思えない。
彼彼女らもそんなことは承知の上かもしれないが、いかんせん若い表現者たちなので、そのようなつまらないものに患わされることなくそれぞれの道を進んでほしいものである。

詩や芸術には疎いが現代思想には多少造詣があるという人なら、ドゥルーズ=ガタリの〈リゾーム〉〈器官なき身体〉〈脱領土化〉といった概念を思い出してもいい。ここで賭けられている実践が、ニューアカ経由でDGにかぶれその後アカデミシャンとして保守化した連中どもの方便的な用法が示すものとは全く無縁であることに、直ちに気づくことだろう。

『紫陽』は終わってしまったが、このような詩誌が出現したことをとても嬉しく思う。



【問い合わせ先】
・『斜塔』・・・・・・ video_dorom◎yahoo.co.jp (◎→@)
・『ami.me』・・・・・・ ami.me.in.san◎gmail.com (◎→@)

2011年9月20日火曜日

ダリ時計


素人の乱・五号店でついつい衝動買いしてしまった「ダリ時計」。面白いので値札もそのままもらってきました。

時計としての使い勝手は悪いです(当然といえば当然か・・・)。
ぐにゃりとした形に意識をとられるので、時針に視線を集中しないと時間が読めません。

とりあえず哲学書の棚に掛けてみました。

2011年9月14日水曜日

中島麦「悲しいほどお天気」 於、Gallery OUT of PLACE(奈良)

 Gallery OUT of PLACEで始まった中島麦の個展「悲しいほどお天気」は、ギャラリー空間の構造的な特性をユニークに活用した、キャンバス画、壁画、ビデオインスタレーションによる展覧会で、一般的な平面作品を鑑賞するときとは、また違った感覚が味わえる。抽象絵画に馴染みの少ない人であっても、鑑賞のためのとっかかりはいくつもある。


 ここでは一つ一つの作品から喚び醒まされた、個人的な解釈や個人的な物語を記述するようなことはやめておこう。


 麦の作品を言葉で評することは殊の外難しい。なぜなら、作品に向かう意識と作品から発せられるイメージとがつり合う場所をじっくりと探し出し、そして湧き起こるように浮かぶ言葉でイメージの輪郭を捉えようとしても、その瞬間に何かがすり抜けていく。このすり抜け感それ自体が、これまた躍動しているからである。
 だがそれでいて、見る者を決して置き去りにはしない。誰かを不快にさせることもない。



 麦のタブローは、目に、そして心に映った風景を随時デッサンしたイメージの集積であるが、悟性的でありながらエモーショナルな方法によって構成されている。色や形、そして筆致といった諸要素が他者の心に喚起する様々な感情の機微を、彼は繊細に感じ取ることができるのだろう。この繊細さに裏付けられた技法によって立ち上がる美的強度は、見事というほかない。

 構成されたイメージの集積としての麦タブローは、つねに〈構成的〉である。


 家形の小品でさえ、ただ一瞬を捉えたというのではない、持続する時間を感じさせる。それが二段に並べられているのだから、見ていて飽きない。


 べた塗りを重ねることによって描かれた空間の奥行きは、空間のみならず歴史的な時間の多層性をも表象しているように思える。それは一見静的であるがゆえに動きが犠牲になってはいる。はたしてそうか? 高度な技術をもった麦が、この二律背反を乗り越える上でいかに果敢な実践をしているのか。その彼岸への志向性は、麦作品の見所である。

 とはいえ、おそらく彼にとっても答えはないのだろう。
 だが、その力動的な未了性が指し示すものこそが、見る者それぞれの固有の経験、固有の記憶、といった個人的で無限に多様な生きられた時間〈カイロス〉との自由な出会いを可能にするのだろう。

 中島麦の絵を眺めていると、意識になにか清冽なものが流れ込んでくる感覚に見舞われる。



 静的な奥行きと動的な時間、それらが表象する重層的な時空。動と静、この対極的な価値の彼岸へと、麦の精神は飛翔する。



 
「塗り重ねられたキャンバスに余白はない。だが、イメージの余白は無限にある。」(詩人W)



・・・・・・Gallery OUT of PLACE(奈良)にて10/10(月)まで

2011年9月4日日曜日

ガストン・バシュラール『空と夢』より

詩人はあらゆる幼稚さとともにあらゆる哲学理論風のものを自分から取り払う秘密の力をもっている。想像力に心身をまかせながら、詩人は根源的な霊的現実に、すなわちイメージにたちむかう。彼は力動性とイメージの生命のなかに止まる。そのときあらゆる合理的ないし客観的還元は意味を失ってしまう。シェリーとともにこういうイメージを経験すると、イメージは老衰しないということが納得できる。



★ガストン・バシュラール『空と夢』(宇佐見英治訳・1968・法政大学出版局)より





“『鎖を解かれたプロメテウス』を執筆するシェリー”(Joseph Severn画)

2011年9月3日土曜日

『紫陽』24号(終刊号)出来。

【寄稿者】後藤和彦、藤井貞和、風梨子、倉橋健一、小林坩堝、三刀月ユキ、倉田めば、金子忠政、あおい満月、芦田みのり、鬼原みち子、藤井わらび、ヤリタミサコ、石瀬琳々、北山兵吉、亰彌齋、野村喜和夫、竹村正人、竹村正子、X、寮美千子、武中光男、松本タタ、志郎、ダダ貫(糸井貫二)、駄々村。

表紙コラージュ:藤井わらび
2011年8月20日刊
頒価:¥200 A5判64頁 

とうとう、これが最後の号になりました。
9/18の東京ポエケットに出展いたします。