2014年5月17日土曜日

「蜜ノ木 祭りの後の異人たち」より

数式が記された壁を背に、並ぶ絵画。

数学と美術と、

それらは世界を表象する異なる二つの方法。

かけ離れているようみえながら、ある摂理によって結ばれることを示唆する。


島ヶ原村民芸術「蜜の木」  
展覧会「蜜ノ木 祭りの後の異人たち」 2014.5.17-18/24-25 於、アトリエ河口「絵好住」
東豊崇/岩佐亮明/岩名泰岳/峰貴大/レネー・シュピッツァー/マリウス・パルツ







2014年5月12日月曜日

山中散生「裂けた鏡」

鏡の中にも雨は降る
蝙蝠傘をひらいたまま
君はそこに濡れている
黄昏の通行者も絶えて
舗石の上の灰白質の眠り
君の憎悪にみちた眼は
ふと 車輪のように廻る

くづれかかる僕の予感

僕は非常に痙攣的に振り向く
すれちがう瞬間を見極めるために
僕は眼を閉ぢ 眼を開く
しかし君の狙いはすでに外れた
僕の背後に
鏡はきらきらと粉砕される
その反響のなかで
僕は自分の命運をかぞえる

雨の雫が滴りくだる

鏡の罅をつたつて
僕の髪 僕の睫毛
そうして僕の凹んだ頬も
わづかに濡れる
裂けた鏡
茫漠とした流れのなかに
僕はじつと耐えている

                  (一九四六、二、一五)


◆詩集『黄昏の人』(1956,国文社)所収。テキストは黒沢義輝編『山中散生全詩集』(2010,沖積舎)による。

『黄昏の人』の装画・装幀は北園克衛。



鏡の中の「君」は実体をもった存在であるのか、鏡を割ったのが「君」なのか、振り向く「僕」は「君」と対面したのか・・・。詩の一行一行をひとつひとつのショットとしてシーンを想像すると、詩語が喚起する超現実的なイメージは現実感のある像へとじわりとシフトしてゆく。おののきを催すほどの強さで。

日本におけるシュルレアリスム運動のオルガナイザーだった山中散生(やまなかちるう・1905-1977)の詩は、読まれなくなって久しい。公刊詩集はすべて初版のみ。手ごろな価格で求められるものは一切ない。
だが、なぜ読まれなくなったのかを探ることには、計り知れない意義があるだろう。

いわゆるオートマティスムによるシュルレアリスム詩とは異なる(初期には実験的な作品もあるが)、山中の詩法におけるイメージの現実的強度は、新たな、あるいは再びの出会いに値する。

全詩集を編んだ黒沢義輝氏の尽力に、最大限の敬意を表しつつ。