2012年2月23日木曜日

金子光晴「蛾 Ⅵ」

蛾は月に透いてゐる。
翼一ぱい吸い込んでゐるのは無ではない。光だ。
蛾は、裸をみられてゐるのを意識して、はづかしさうにあゆむ。・・・・・・音はない。近づくけはひだけ。


灯をそつと吹き消すやうな音を立ててすり寄り、消える前の焔がゆらぐやうに翼をうち、
蛾は、その影とともに人の心の虚におちこみ、そこにやすらふ。
蛾は、数ではない。負数なのだ。


蛾のうつくしさ。それはぬけ殻ではない、ひ剥がれた戦慄なのだ。
汚され、破られ、すてられ、ふみにじられたいのちの、最後のさびしい火祭なのだ。


僕らの生きてゐるこの世界の奥ふかさは、恥となげきのうづたかい蛾のむれにうづもれ、
木格子を匍ひのぼり、街灯を翼で蔽ひ、酒がめにおちてもがき、
濠水に死んで浮かんでゐるあの夥しい蛾のむれに。








※中央公論社版『金子光晴全集 第二巻』、詩集『蛾』より(テキストの漢字は現行字体に変更)。
この詩は1945年8月、終戦の一週間前に書かれた。




(科野和子さんの蛾)

2012年2月22日水曜日

科野和子さんの蛾  (ARTZONE「ふしぎカラフル連想ゲーム」より)

先日たまたま立ち寄ったARTZONE(京都)で、偶然、科野和子さんと再会した。

一昨年、魚をモチーフにした多色刷りの銅版画に魅了されたのも、今は閉鎖されてしまった立体ギャラリー・射手座にたまたま入ったのがきっかけだったことを思うと感慨深いものがある。

今回開催されていた「ふしぎカラフル連想ゲーム」展は11人の作家がそれぞれに持ち寄った作品を1階に展示し、参加作家それぞれが気に入った他者の作品から連想して制作した作品を2階に展示するという趣向で、作家間の影響関係は天井に張り巡らされた色糸で明示されていた。

科野さんが持ち寄った作品。この銅版画の大作は、2010年9月の「記憶のカタチ」展では横置きで展示されていたのだが、その時のものとは刷りが違うようである。

これが他者からインスパイアされ制作された作品。昆虫やヒトデの遺骸と植物を組み合わせている。ピントがぼけてしまったが、写真左上にあるのは科野さんが昨夏、幼虫から育てた蛾のサナギ(抜け殻)。

その隣のテーブルにはドローイングによる新作。中央には科野さんが育て、サナギから羽化した蛾の姿が描かれている。



金子光晴の詩篇「蛾」、を連想した。


新たな銅版画制作のための準備も整ってきているそうなので、これからの展開が楽しみである。




◆「記憶のカタチ」展レヴュー(2010.9)

2012年2月20日月曜日

クニト・寺脇扶美 二人展「せいかつのなかに」 於、同時代ギャラリー(京都・三条1928ビル)

●クニトさんの展示は2011年9月に銀座で披露された「スプートニク2号」と「ミステリーサイクリング」の続編。

(銀座での個展レヴュー↓)
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2011/11/gallerly-582011912-917.html

「ミステリーサイクル」が通過した後、フィールドに残されたミステリーサークルの上に宇宙人となったライカ犬が宇宙船で下り立つ、というストーリー。


「スプートニク2号」

バイキンマン風の角が生え、マイナーチェンジした「ミステリーサイクル」。



放射能マークと原子核マーク。

下半球には宇宙人と化した犬の顔(陶製)。

青森県六ヶ所村の米を使用。


ストーリーはこの後も展開していく・・・。



●寺脇扶美さんの展示は、果実をモチーフにした大判のタブロー(顔彩)と空間に吊されたオブジェ(テキスタイル)によるインスタレーション。





丸い果実をモチーフにしたタブローと鎖状に連なる円形のオブジェ、その間に立って作品を鑑賞するとき、二次元と三次元、具象と抽象、有機物と無機物、といった対照的な言葉が自然に連想されたのだが、こういった項目を自由に仮置きすることで双方向的なイメージの変移が浮かび上がって面白い。


また、円という形象がクニト作品との間に類比的な効果を生んでいるようだ。

これはクニトさんと寺脇さん、両者全く異質な作風でありながら、空間を共有することに不思議と違和感を感じない秘訣なのかもしれない。

内面から湧き起こるポジティブな力の肯定、という思想を両者が共有していることは、この空間に身を置くだけで感じられた。

二人で決めたコンセプトタイトル「せいかつのなかに」に込められた意味は深い。






同時代ギャラリー
2012.2.14(火)-2.19(日)

2012年2月19日日曜日

池野江津子 中井由希子 二人展  於、rooftop (奈良市旧市街)

漆の池野さん、ろうけつ染めの中井さん、古くから伝わる技法を用いた二人の作家による展覧会。

イントロダクション。手前が中井さん、奥が池野さんの作品。



二人で決めた言葉をテーマに、同じパネルを使って各自が自由に表現するという趣向。上の写真は「道具」。漆芸家の池野さんは刷毛、染織家の中井さんは裁ちばさみ。

「種」

「花」(左端、右下)、「植物」(真ん中、右上)

「機械」




「雲」

「カラー」



乾燥させたアボカドの皮を漆で固めた「アボカドdeおちょこ」。





 2012.2.10(金)~2.28(火) 10:00-18:00 水・木は休み

2012年2月12日日曜日

本田征爾展 「目眩く」 於、乙画廊 (大阪・西天満)



まぐろ延縄漁船や捕鯨船の船員だったという特異な経歴を持つ本田征爾さんの個展が面白い。
何が面白いかというのをいちいち言語化することがうざったいほどに、趣味のツボにはまっているのだ。

バクや蝸牛の殻といった象徴や幻視的な風景の読み解きが面白いとか、シュルレアリスム芸術の正統な系譜にあるとか、鑑賞の切り口はいろいろある。

しかしこまかいことはさておいて、ここは意識にのぼるさまざまな言語規範を超えたところに浸透していくイメージの遊戯を愉しむのがいい。








フォンテーヌブロー派(作者不詳)「貴婦人達の入浴」の変奏。

石粉粘土によるオブジェ「阿修羅猫」。



乙画廊 (おとがろう)

2012.2.6(月)-18(土)

2012年2月10日金曜日

ヤマダヒデキ展 「Beauty」 於、ギャラリーwks.(大阪・西天満)

何かをみたり、聴いたり、読んだり、触れたりするとき、時折、美しいと感じることがある。意図的に思うものではなく、感覚の方から意識にそっとおとずれてくるものである。
しかし、人が何を美しいと感じるか、何をもって美しいとするかは一様ではありえない。
この〈美〉という概念に内包される意味の多様性は、定義づけという悟性的な行為をいとも簡単に退けてしまうほど、曖昧なものである。
それゆえ、その曖昧さは〈美〉をめぐる価値を共有する際の許容性や振れ幅ともなるのだ。

今、大阪西天満のギャラリーwks.で開催中のヤマダヒデキさんの個展「Beauty」は、この〈美〉をめぐる言語化できない価値の多相性を、視覚化されたメディアを通じて喚起しようとするインスタレーション・ワークである。


エントランスには花と女性の部分拡大写真が並ぶ。


黒い点は液体をスポイトで落としたもの。



フロアには大判の写真が二点のみ。向かい合うそれぞれの写真を緩衝する余白としての白い壁。

女性の表情もポーズも、意味づけられた秩序から浮遊している。

女性と向かい合うのは花群の写真(右端のみ)。


花と女性、それぞれの部分を拡大したエントランスの小品と、全体を表したフロアの大判2点とは対照的な関係にあるが、小品は大判作品をそのまま部分拡大したものではなく、そこには位相のずらしがみられる。

一瞥すると、黒い液体に塗れた花群は、黒い背景、多数、多彩、汚辱、静、といった要素が窺えるのに対し、白い背景に寝そべる女性の写真からは、単数、淡色、無垢、動、といった要素が浮かび上がる。
だが第一印象で得られた感覚は、見方を変えれば簡単に価値が変容することからわかるように、複数的な位相の対比関係がここでは仮設されているようだ。

向かい合う二つの写真の間にある白い壁と何もない空間は、花群と女性との、作家の視覚と対象との、作品と観者との、間(ま)としてあるように思えた。




◆ギャラリーwks.http://www.sky.sannet.ne.jp/works/
2012.2.6(月)-18(土)

2012年2月6日月曜日

NAKAMURA AKIHIRO "AMERICA ZINE 6"


大阪・此花の黒目画廊で開催されるNAKAMURA AKIHIROさんの個展に先立ち、作品を一点購入。


見開き左頁には春画の詞書を思わせる辺口芳典さんの詩のフレーズ、


満月を飲み込む音が
微笑み  女の
「ワオ、よかったよ。
実に
だらしなさがあって、
記憶は
安眠している時でさえ
飲み込む音が
という



この紙片を剥がしたら何が描かれているのだろう? とあらぬ妄想が膨らむ、なにか魂の暗部をゆさぶるコラージュである。



◆黒目画廊 http://kuromegarou.seesaa.net/
  大阪市此花区梅香2丁目9-1藤田荘2階 (阪神難波線・千鳥橋駅が最寄り)