2010年8月21日土曜日

「束芋 ~断面の世代」展

今日はかねてから心にひっかかっていたアーティスト、束芋(たばいも)の個展にいってきました。
国立国際美術館では同時に横尾忠則全ポスター展も開催されていたのですが、夜勤明けの頭では消化できるはずもないので420円だけ払って束芋だけに集中しました。

束芋は1975年生まれのいわゆるロスジェネ世代にあたりますが、彼女はみずからを含む1970年代生まれの世代を「団塊の世代」との対比で「断面の世代」と称し、集団よりも個を尊重する存在としての側面を一つの実体的存在として仮定します(そう、実はそれは側面でしかなくまた表現を展開するための仮設である)。そして、かかる個を断面として切り裂いたときに出現する二次元の影像を、アニメーションによって立体的に構成するという手法で表現するわけですが、個と社会、内面と外面、ミクロとマクロ、内在性と超越性、倫理と道徳、相対と絶対、などわれわれをとりまくあらゆる対極的な価値の間を自在に往還するイメージを提示します。

今回展示された六つの映像インスタレーションと吉田修一の新聞連載小説『惡人』の挿絵原画は、もう、こんな駄ブログで何を言っても贅言にしかならないほどの圧倒的な作品群ですが、けっして見る者の創造性をこけおどしのサブライムで圧倒し萎縮させるようなものではありません。


先日このブログで団地の話題を書いたので(なんてことはどうでもいいのですが)、団地をモチーフにした映像インスタレーション《団断》(2009年)に添えられた作家本人によるキャプションを紹介しましょう。


「団断 danDAN

団地を上から抉ったような空間構成。
団地はいくつかの棟から成り、それぞれの棟は多くの住居を抱え込む。そしてそれぞれの住居にはそれぞれの生活があり、現代社会では隣り合う部屋同士でもまったく交わらない人生が存在することもある。塊の中にありながら、個の尊重を重視し、尊重の表現として無関心を装う。実際に触れる距離に居ながら、情報を集積することで、その感触を想像して満足するような関係。
抉られた空間の断面から、直列に繋がれていく隣室と、並列する展開するストーリーを覗き込む。抉られた空間は、鑑賞者によって補完されることを目的としている。それは、今までの制作にも共通していたように、作品と鑑賞者との関係を成立させる。」(展覧会リーフレットより)




この「束芋 ~断面の世代」展は国立国際美術館にて9/12まで

2010年8月20日金曜日

「団地百景」

「団地百景」
http://danchi100k.com/

全国各地の主要団地の写真を集成したアーカイブです。

2010年8月15日日曜日

室生犀星「けふほれてあすわかれ」

何度でも女にほれて見たが
ほれるということに際限がない
際限のないことのうるはしさ
これだけはこころのなかのものであり
誰も何もいへないさかひのものだ
けふほれてあすわかれ
あすまたほれてあさつてわかれ
毎日ほれて毎日失くする
毎日貰ひ毎日こなれてしまふ
茫茫 生きて際限もない



(犀星晩年の詩集『昨日いらつしつて下さい』〈1952年〉より)

本当にいい詩なので、そのよさを分かってくれそうな友人知人に携帯メールで送っているのですが、やはり反応は上々でした。
平易な言葉で短く綴られた中に、深い人生哲学が凝縮されています。  

2010年8月13日金曜日

団地の話

世に団地マニアというのがいるらしい。
1950年代~70年代にかけて郊外などに建設された団地を、その建築や設計思想の中に時代の実験精神や人々の憧れやらをみたり、そこからさらに歴史・文化・技術などの研究素材として捉えるものから、寂れ具合をもふくむノスタルジックなオブジェとして鑑賞するもの、廃墟マニアとの境界線上にあるものまでさまざまであるが、そこに団地への深い愛があるということが共通の要素であるように見受けられる。
僕もこの10年、団地に住んでおり、ここが一番居住歴の長い場所になっているので愛着は深い。

僕の関心は当然住人としての生活に根ざしたものもあるのだが、今はもっぱら社会学的、文学的な方面(文学の舞台としての住まい・住まい方についての関心)から団地への関心が向いているので、その方面からいろいろ文献を漁っているのだが、なかにはヘンなものが多くて辟易することも・・・。

そんな中、一番面白く意義深く思えたのが原武史・重松清『団地の時代』(2010.6,新潮選書)で、とりわけ万人にお薦めしたいのはこれかなと。原武史が1962年生まれで東京郊外の団地育ち、重松清が1963年生まれで西日本の地方都市を転々とする少年時代を送った経験があり、同世代のお二人が自分史をたどりながら団地にまつわる様々な話題を縦横に語るという対談本。

団地ガイドブックとして手元において便利なのが『〈洋泉社ムック〉僕たちの大好きな団地 ~あのころ、団地はピカピカに新しかった!』(2007年,洋泉社)。これは表紙のキャッチコピーに「『三丁目の夕陽』の時代に華やかに登場した団地の数々を、豊富な写真とともに紹介!憧れだった昭和30年代の団地へ、会いに行きませんか?」などと付せられているように、団地マニアによる編集なのでバカっぽさもあるがこの程度ならご愛敬も許容範囲内である。団地建築にまつわる基礎的な知識は網羅されており、原武史ら硬派な人の寄稿もある。

ただ、多くの団地本の論調は「老朽化」による建て替えが時代の流れで仕方がない、惜しいが嘆くしかないといった自然現象のように捉えていて、強制建て替え、強制立ち退きの問題や、公団側が潰して高級マンションにかえる意図で敢えて募集停止をかけている問題など、陰謀めいた裏があることなどについて問題意識が皆無なのがムカツク(意図的募集停止といえば、数年前取り壊しになった泉北ニュータウンのヤングタウンなる家賃一万円台の単身者用団地などはちゃんと宣伝すればワーキングプアの若者で賑やかになったはず)。みるにたえないバカクソ本も少なくない(例えば石本馨『団地巡礼』〈2008年,二見書房〉など。しかし石本も団地や廃墟への愛は人一倍強いので、写真つき読み物としてはバカクソ本とまでは言い過ぎかもしれない)。
取り壊しの背景には高度成長期の突貫工事による手抜きや塩分を洗浄しない海砂を使ったコンクリートを使っているために中の鉄筋が錆びて安全上の問題という観点でなされる場合もあるが、それにしても実際、50年代60年代の古い団地などは住人が減り、自治会活動が脆弱なところから取り壊しのターゲットにされてきた。僕の住んでいるところなどは問題は多いながらも自治会がそれなりの強さを保っているので取り壊しの対象からは外れているし、補修や植栽の手入れなどはかなり手厚い。但し植栽の手入れなどは「不審者が隠れる場所をつくらない」などというセキュリティ思想を全面に押し出した過剰な剪定・伐採のため、住人同士の間に猜疑心が生じたり、真夏の団地内の気温が上昇するなど、住人の頭ごなしでなされる手入れが多くてうっとおしいといった問題があったりするのだが・・・。
その他、天下りの巣窟である公団が勝手に民営化して「UR都市機構」になり、さらに金儲け体質を強めたとかの問題もある。
住人の立場からすると、こんな古い団地に住んでやっているのだから家賃を大幅に下げろ、といいたい。みんなそう思っているはずなのになぜかいわない(自治会は家賃値下げをいつも交渉の議題にしているが)。

建て替え問題については、分譲団地であってもローンを払い終えた住人の多くが不在地主化しているため、実際に住んでいる店子の頭越しに「多数決」で勝手に立て替えを決めてしまい、残った住人が追い出された千里ニュータウンの桃山台団地の例などもある。もちろん最後まで残って行政代執行に抵抗したのはローンを払い終えてそこを終の棲家と決めた人々である。
この桃山台団地の事例については中村葉子監督のドキュメンタリー映画『空っ風 ~RCの陰謀』に詳しい。


団地のことをもし戦後の生活史にからめて考えてみたいのなら、花森安治『一銭五厘の旗』(1971年,暮らしの手帖社)や『暮らしの手帖』バックナンバーなどと併せて読むのもいいかもしれない。

2010年8月8日日曜日

寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(長崎出版)

「くも」

空が青いから白をえらんだのです





(この詩は父のDV被害を受けていた病弱な母が、死の床でA君に語った言葉の思い出がモチーフに)
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「夏の防波堤」

夕方 紺色に光る海の中で
大きい魚が小魚を追いかけているところを
見ました
鰯の群が海の表面をパチパチと
音を立てて逃げていきました




(この詩の作者E君はいつも何かに怯え自分の意思を表現することの出来ない子だったのが、ある時大好きな魚釣りのことを話したことをきっかけに、自信をもって堂々と話ができるようになり、教室の仲間たちからの信頼を集めるようになったそうです)
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「おかん」

水が恐くて怯えて見あげるおれに
おかんはゲンコを見せた
おれは足下でゆらぐ水よりも
おかんの心が恐かった

それが愛情のつもりか
強くするために
あえて子どもを突き放すこと
それが正しい愛情のつもりか

ほめられることもなく
社会からはずれているとなじられ
人格も否定され
「育ち方が悪い」と叱られた

反抗しつつも
取り繕う日々の中で
いつしか おれは
愛されてないんやわ
と思たわ

せやのに おれがパクられて
あんたは 泣きながら おめおめといった
「あたしの育て方が 悪かったんやろか」
「おれの育ち方が 悪かっただけやろ」

  それでも おかんが笑ろてると
  おれもうれしくなる
  あんだけ大嫌いやったはずなのに

人を愛することと 憎むこと
はじめて教えてくれた人



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本書は『紫陽』にも時々寄稿してくださっている作家・寮美千子さんとお連れの松永洋介さんが、奈良少年刑務所で実践されているワークショップ「社会性涵養プログラム」で受刑者たちが書いた詩を一冊の詩集として編んだもの。それぞれの詩の後ろには、その作者と作品の誕生をめぐるエピソードが、寮さんの手によって綴られています。

この「社会性涵養プログラム」というのは受刑者を相手に童話や詩を使ったある種の情操教育なのですが、刑務所の中でもみんなと歩調を合わせるのが難しく、ともすればいじめの対象になりかねない人や、極端に内気で自己表現が苦手だったり、虐待された記憶があって心を閉ざしがちな人、コミュニケーションが上手く取れない人々が対象になっています。
彼らは不幸にして犯罪に手を染め、刑務所に収容されてしまったわけですが、彼らの犯罪傾向の問題として語る以前に、この国の福祉や社会的なセイフティーネットの貧困の問題として考える視座を私たちに与えてくれます。
犯罪をめぐっては、マスコミでは日々様々な言説が飛び交い、それらは個々の文脈から切り離されたコードとして人々の意識にすり込まれて、時に世論操作以外のなにものでもないような世論調査に利用されていくわけですが、私たちは少年犯罪や刑務行政についてなにほどのことも知らないでいます。
すでに裁判員制度が始まっている今(というか裁判員制度云々は別にしても・・・)、寮さんや開かれた目をもった刑務所職員の方々の、このような先進的な実践はもっともっと知られるべきことだと思いました。
詩の力へのゆるぎない信頼が、本書にはこめられています。



寮美千子編『空が青いから白をえらんだのです ~奈良少年刑務所詩集』(2010年6月刊,長崎出版,1500円+税)





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2010年8月4日水曜日

P.B.シェリーの誕生日

毎日が灼熱地獄ですね。日傘を探して歩いているのですが、今年はひらひら付きの女の子女の子したデザインのやおばちゃんっぽいのしか店にないので、雨傘さして歩くことにしました。

さて、今日、8月4日は我が心の友、パーシー・ビッシュ・シェリーの218回目の誕生日であります(1792年)。
地球上で、彼とおなじ時代の空気を吸っていた動物はもう生きながらえていないでしょう(クマムシくらいかな)。先年、175歳で永眠したガラパゴス・ゾウガメのハリエットはブラームスと同い年(?)だったような。

明日、8月5日はフリードリッヒ・エンゲルス(1895年)とマリリン・モンロー(1962年)の命日です。

明後日、8月6日はヒロシマの日でもありますが、我が愛しのビアンカ(白猫・♀)の5回目の誕生日でもあります。



ローマの遺跡で『鎖を解かれたプロメテウス』を執筆するシェリー。


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「ある人へ  -この言葉は何度も汚されてきました

この言葉は何度も汚されてきました
いま一度ぼくが汚そうとは思いません。
この感情はゆえない軽蔑を受けすぎてきました
いま一度あなたが軽蔑する必要はありません。

この希望はほとんど絶望に近い
分別が踏み消すまでもありません。
でもあなたがかけてくれる憐れみは
他の人からの憐れみよりもずっとうれしい。

ぼくは人が愛とよぶものを捧げることはできません。
でも あなたは受けとってくれないでしょうか
心が天に捧げ 天も拒まないものを。
星を求める蛾の願い
朝を求める夜の願い
この悲しみの大地から
遥かなものに憧れる気持ちを。



◆『シェリー抒情詩集』(床尾辰男訳,2006年,創芸出版)より。




ウィリアム・モリス製作の『シェリー詩集』(ケルムスコットプレス)。実物は少し前まで京都のキクオ書店で175万円で売ってました。


2010年8月3日火曜日

室生犀星の詩二篇(詩集『昨日いらつしつて下さい』1952年より)

「夜までは」

男といふものは
みなさん ぶらんこ・ぶらんこお下げになり
知らん顔して歩いていらっしゃる
えらいひとも
えらくないひとも
やはりお下げになっていらっしゃる
恥ずかしくも何ともないらしい
お天気は好いしあたたかい日に
ぶらんこさんは包まれて
包まれたうへにまた叮嚀に包まれて
平気で何食はぬ顔で歩いていらっしゃる
お尋ねしますがあなた様は今日は
何処で誰方にお逢いになりました
街にはるかぜ ぶらんこさんは
上機嫌でうたっていらっしゃる
 
 
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「みなあれから」
 
女といふものをつくづく眺め入って
あんなところに
あんなもののあることにいまさら驚く
あれを見てゐると気が立ち
女のうつくしさがおほって来る
あれはきっと
きみやあなたや
あの男もべつのみなさんも
あれの前にはものがいへなくなる
いはうとしても言葉もない
あれはただやさしく君臨するだけで
威張ったこともなく 柔かく
絶えるやうなものを与へる
絶えるやうな声音をあげる


 
 
 
 
※テキストは『室生犀星全詩集』(1964,筑摩書房)より。
 
 
 
室生犀星(1889~1962)といえば、二十歳のころ寒い部屋でインスタントコーヒーを啜りながら読み親しんだ、懐かしい思い出を呼び覚ましてくれる詩人です。それははじめて詩というものに深く魅了された経験でもありました。
二十代半ばのころはまだインターネットもなく、京都の某古書店でみつけた『全詩集』には15000円の値がつけられていましたが、当時はまったく手がでませんでした。
今では3000~4000円くらいに古書価は落ち着いているようですが、一昨年、偶然立ち寄った奈良の某古書店で格安で入手しました。
初期の『愛の詩集』『第二愛の詩集』もいいのですが、やはり晩年の詩集『昨日いらつしつて下さい』の思想的な深みは格別ですね。
ちなみに筑摩版『全詩集』には戦時中の戦争讃美詩は収録されていません。戦後、時勢に迎合したことを心から恥じたことがその理由だそうです(他に冬樹社版『定本・室生犀星全詩集』全三巻〔1978年〕がある)。


 
室生犀星といえば、顔です。「変な顔」と自他共に認める個性的なつくりは、他に類を見ないと評判ですが、実は僕、7年ほど前に所用で訪れた奈良の吉野の山奥、上北山村でそっくりさんと出会ったことがありました(これは本当の話です!)。
 
 
犀星と愛猫のジイノ(→平凡社コロナブックス『作家の猫』を参照!)