2016年11月30日水曜日

行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」(Space31/神戸市東灘区)

 《鱗の家・祝い・パスタ》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス

行さんといえば、ドンゴロスを支持体にパスタなどの食がモチーフになった空想的な油彩画を描く作家として知られているが、神戸にちなんだ新作シリーズはすべてアクリル画でかろやかなマチエールと祝祭的な雰囲気を醸している。
視覚を通じて味覚や嗅覚を幻のなかで知覚し、命を育むものである食物を象徴化して描くというスタイルは変らない。
地平線が描かれた従来のシリーズも会場に並べられており、その対照性も楽しめる。ちなみに、日本の絵画において地平線が描かれるようになったのは、1930年代にダリの絵画(図版)が紹介されたことや満州への進出が契機といわれているが、これは地平線の向こう側にユートピア的なものを夢想する心理があったからだという。
行さんの絵の中の地平線(あるいは水平線)もまた、夢想が赴く彼方にある、理想的ななにがしかを象徴するものとして無意識裡に採用されたのであろう。

さて、そもそもドンゴロスという麻布を支持体に使い始めたもは「どんごろす」という音の響きがとても面白かったからだそうで、その語感が気に入って使い始めたところ、生(き)のままの質感に魅入られていったとのこと。

その行さんの絵は、ドローイングの線から遷移したと思しきパスタがずっとモチーフであり続けているかと思うと、別の絵では蕎麦になったり、リボンになったり、よくわからない装飾的な模様になったり、ひとつの絵の中で展開したり、あるいは別の絵に跨がったりしながら、自在に変化する。
制作時期によって多少違いはあるものの、行さんの絵の中ではモチーフが語感から連想されたり、形象の類似性から連想されたりしながら、イメージが換喩的に転位してゆく。
事物の隣接性をほどいたり開いたりしてゆくこのようなあり方は、20世紀のシュルレアリストたちが用いたデペイズマンとは異なった特徴を持っているようだ。

それらはとりとめもなく心にうつりゆくものであり、(たいていは)ささやかなものたちだ。
だから、ぼんやりと眺めているととても心地がいい。

 《―そして神戸 パスタが空をなでる時》2016,アクリル絵の具/ドンゴロス


 《酒・肴・松》2015,油彩/ドンゴロス

《縞馬・パスタ・虹》2011,油彩/ドンゴロス

◆行千草 展「―そして神戸 どうなるのかパスタ 賑やかな宴」 Space31 2016.11.25~12.4


2016年11月28日月曜日

詩誌『EumenidesⅢ』52号

表紙装画:つかもとよしつぐ

【エッセイ】
塚本佳紹「美しいということが、」
小島きみ子「『アシジの貧者』について」

【論考】
京谷裕彰「冨士原清一の詩「成立」とシュルレアリスムの明暗」

【連載詩】
渡辺めぐみ「戻っておいで――ルネ・マグリット作『誓言』に寄せて」
広瀬大志「星への帰還」
伊藤浩子「居室 (#3)」

【詩】
小笠原鳥類「魚の歌」
松尾真由美「たとえば静けさのないところ」
京谷裕彰「蝶の囀り」
北原千代「秋のミモザ」
高塚謙太郎「兵站」
藤井わらび「ある九月のアラン島で」
小島きみ子「彼方へ」

【エッセイ】
松尾真由美「詩と花が溶け合う場として」
小島きみ子「書評・夏に読んだ詩集三冊」

【あとがき】


◆2016年11月27日発行
 A5判68頁 600円+ 送料
 編集発行人:小島きみ子 
 講読のご希望は eumenides1551◎gmail.com (◎→@) まで


2016年11月14日月曜日

鍛治本武志 展「鏡の前で」(スペクトラムギャラリー/大阪市中央区)


鍛治本さんは、あらかじめつくっておいたデカルコマニーをパソコンに取り込み、(使う色の種類・数を制限する、デカルコマニーを眺めながら目となる位置が開示されるのを待つ、など)いくつかのルールを決めてオートマティック(自動記述的)な画面の構成を進めていく。

決めておいたルールの階梯を上った時、ぼんやりとしたものに従って感性が適切だと認知するものが降りてくるまでパソコン上での描画と推敲を続けるのだが、ここにはつねに試行錯誤が伴うため作業はパソコン上でなければなしえない。

一つの階梯を上って色や形象、象徴物の配置が定まったら、また次の階梯に上って降りてくるものを待つ。
このルールは、オフィスワークにおいて何か問題に直面すると改善策を講じるビジネスマンのエートスと逆向きでありながら、相似的ともいえる対照性をもっていることに瞠目させられる。
というのも、画像を構築していく過程で理性が介在しそうな問題に直面すると、理性で処理できないよう厳しいルールを課してゆくからだ。

そうしていくつものルールの階梯を経て、これ以上は進まない、というところまでたどり着いたところでパソコン上の作業を終える。
そして出来上がった画像を元に、ようやくキャンバスにアクリルで描画していく。しかし、このアクリル描画という作業はあくまでパソコン上で構築されたものの再現であるため、この段階でのオートマティスムは厳禁、というルールを課している。例えば色を置くときにはマスキングテープを利用する、濃淡が出ないようにする、など。
立体作品の場合でも、基本的には同じ論理で制作される(3Dプリンターで出力)。

以上のような制作のプロセスにおいては、逡巡、葛藤、精神的苦痛、といった状況が絶えず作家を襲うため、時間もかかるし、プロセス自体は遅い。

そこで想起されるのが、20世紀にアンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポー、ポール・エリュアールらが試みた詩のオートマティスム(自動記述)の実験である。
詩のオートマティスムによる実験は、記述速度を高速化するに従って一人称「私」が表出された文から減少してゆくことで、主観に基づき幻想を展開するスタイルを離れ、客観が人間に訪れる瞬間を捉えることができるようになる、そういうものだった。詩人から画家へと波及した、絵画におけるオートマティスムも、基本的には速度が鍵となるオートマティスムであった。
鍛治本さんの方法は二十世紀における実験や実践とは外見上もプロセスも異なるのであるが、紛れもないオートマティスムなのだ。

その特徴をひとつだけ挙げるとするならば、何をおいても〈遅さ〉であろう。
制作のプロセスのひとつひとつの階梯において、啓示的ともいえる、超越的なところから降りてくる色や形象の描き留めが行われているのだが、描き留めという行為は、イメージ(というよりも無限へと方向付けられた輪郭のようなもの)を安定させるためのものでしかない。それは、暗号のようなものであるのだろう。

これをひとまず〈遅いオートマティスム〉と名付けることにしたい。

速度へのあこがれと恐怖とがない交ぜになって駆動するグローバル資本主義が発動する強制とは真逆のエートスである。また、真っ向から対立するかにみえてどこか斜な構えでもある。

この〈遅いオートマティスム〉がジャンニ・ヴァッティモらイタリアの思想家たちの提唱する〈弱い思考〉を想起させることは、特筆に値するだろう。
〈弱い思考〉は、目の前にある強制された秩序からの解放を求める人びととの紐帯を生み出す可能性を、つねに開いてゆくのだから。

鍛治本さんは云う、
「私はイタコです」
「自分が間違うことはあっても、絵が間違うことはない」、と。
間違うことのない絵とは、未だ開示されざる、来たるべき絵のことであろう。

鍛治本さんには、速さへの誘惑にたやすく負けてしまう者にはけっして見えないなにかが、見えているに違いない。




◆鍛治本武志 展「鏡の前で」 spectrum gallery  2016.11.11~11.28