2012年5月27日日曜日

北中美佳 展 於、スペクトラムギャラリー(大阪・空堀町)




さまざまな果実の断面を描き続ける北中美佳さんの新作は苺。
それぞれに異なる品種の苺を、ある程度の写実性をもって描写した作品群である。

画題として選ばれたものが苺であるということ、その果肉、半截された断面の細部、その形象、種子、鮮やかな色、といった平面上の表徴は想像力をうるおいゆたかに刺激し、そこからまた、唇、女性器、眼、心臓、など人体の諸器官をも連想させる。こういった視覚イメージのメタモルフォーゼは、鑑賞の大きな愉しみである。

北中さんは、果実の断面を描くことを通じて、ものごとの内面を描いているのだろう。

とりわけ、種子が白く、大きく、のっぺりと描かれていることは、その方法とは逆説的に異彩を放っているようだ。
植物の原基としての種子が、そのまま生命力の根源を象徴するものとして。素朴に。

このような種子の存在感は、柿やリンゴなど北中さんがこれまでに発表した作品にも通底する要素であり、そこにある差異と反復こそが作品の強度を担保しているように思える。

だがそれは、感官を作品に晒す時間のなかで、ようやく理解できることでしかない。

そこに価値を見いだせる人には、しあわせな時間が訪れることだろう。

作品たちは控えめに、それでいてつよく、人と人との間に流れるアウラを、みずみずしいものに変えてくれる。


スペクトラムギャラリー 5/24-6/5 

2012年5月25日金曜日

「愛猫狂aibyokyo -猫狂いが好きな猫-」 於、乙画廊(大阪・西天満)

なんらかの猫的性質をお持ちの作家たちによる、愛猫家のための展覧会。



気になったのは西牧徹さんの鉛筆画。哺乳瓶を抱える仔猫の眼差しが痛く突き刺さる。6年前にゴミ箱に捨てられているのを一時保護して友人に引き取ってもらった黒猫(現在行方不明)のことを思い出した。

もうひとつはこれ。猫の骸骨を描いた榮真奈さんのテンペラ画。



乙画廊 5/18-5/26

出展作家 : 石原朱麻、岩澤慶典、桑原聖美、界賀邑里、榮真奈、トヨクラタケル、西牧徹、中野範章、根橋洋一、林アサコ、古川沙織、本田征爾、松島智里、ヤマダチカ、横田沙夜、涌井晃、MOT8


上瀬留衣展「提案」(第2週/installation) 於、GALLERY wks.(大阪・西天満)








頭と「胴体」は対角線上に対峙。
自らの身体を生身のまま彫刻として展示した、上瀬留衣(かみせるい)さんの個展第2週目はインスタレーション。第1週目の"生ける彫刻"が、視覚的衝撃によって対立的な価値観の自明性を宙づりにするところから鑑賞が始まったのに対し、今週はより穏やかに、より詩的に、存在の襞へと分け入ることができる。
二つの提案のあいだで。



第1週 5/14~5/19 /living sculpture 12:00-19:00
第2週 5/21~5/26 /installation 12:00-19:00


◆第1週目のレヴューは↓
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/05/living-sculpture-gallery-wks.html



wks.の片山和彦さん(右)と、偶然居合わせたヤマダヒデキさん(左)を交えての作品談義は最高に楽しかった。

2012年5月24日木曜日

森村誠 展「Daily Hope」 於、TOKIO OUT of PLACE (東京・広尾)

森村誠(もりむらまこと)さんは英字新聞TheJapanTimes の紙面から、「h」「o」「p」「e」だけを残して一文字一文字修正ペンで消していくことで"hope"(希望)を浮かび上がらせようとする。来訪者は敷き詰められた新聞紙の上を歩きながら鑑賞することになる。



"pooh"(くまのプーさん)、"poe"(エドガー・アラン・ポー)、"pepe"(ペペ長谷川さんとか)といった名前や、"peep"(覗き見する)、"pop"といったもの、あるいは感嘆詞のようなものが目につく。 

奥には実際に体験できるコーナーもあり、やってみると思ったより難しい。これがいかに途方もない作業であるのかが実感できる。どうやら森村さんは独自の技法をもっているようだ。

h、o、p、e、たった四文字だけしかないのに、"hope"と並ぶ箇所を探すのは根気がいる。希望とは簡単に見つかるものではない、ということなのだろうか。
(ピンク色の傍線は筆者による画像処理)


これは修正液による点描であるには違いないが、何かを描くために点じるという加算的な方法ではなく、何かを見出すために消していくという減算的な発想に基づいている。


世界に痕跡を残すように、執拗に反復すること。そうすることで顕在化するもの。世界の中で。底なしの泥濘に。カオスの中から・・・。


森村さんの営みは、世界の低みへと降りていくことの中にある。
新聞というモノの性質ゆえ、一見すると俯瞰という立場を象徴しているようにも思えるが、そうではないことに気づくのに時間はかからない。
世界を、安全な高みから見下ろす数多の芸術的営みとは根本から異なっているのだ。


まるで世界の縮図を思わせる寓意性、批評性を内包した作品であることは、ここにくれば誰でも感じることができる。


ところで、新聞とは人々が世界への扉を開くためのメディアではあるが、普通は古くなると出版物としての扱いを受けず、緩衝材からペットのトイレまで、生活上使い勝手のいい便利な物質的素材として扱われるものである。


この修正液点描は、執拗な反復によってしか見いだせないものの隠喩や象徴として解することができるが、もしこれが個展として披露されるものでないならば、ようやく見出されたものも、そこにいたる執拗な反復行為それ自体も、人はそれと認識しないままに通り過ぎていくかもしれない。希望を見出そうとする人間の努力というものは、得てしてそういうものである。実に儚い・・・。


だがしかし・・・ではなく、だからこそ、そこに懸ける希望としての"hope"なのだろう。




TOKIO OUT of PLACE 5/3-6/3


森鴎外の墓 (三鷹市下連雀・禅林寺)



◆禅林寺(東京都三鷹市下連雀4丁目18-20)

2012年5月23日水曜日

井の頭公園のナマズ

メシをくれと近寄ってきたナマズくん。

2012年5月18日金曜日

大阪市交通局曾根崎変電所(1936年竣工)




大阪市営地下鉄御堂筋線に電源を供給する曾根崎変電所(大阪市北区西天満2丁目)。1936年竣工、設計者は不詳。



ロダン「ジャン・ド・フィエンヌ(カレーの市民より)」(神戸市立博物館〔旧横浜正金銀行神戸支店〕前))



特別展「南蛮美術の光と影」展に合わせて設置された「泰西王侯騎馬図屏風」のパネルとのコントラストが面白い。

神戸・旧居留地にある1935年竣工のこの建物についての説明は下記を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8


2012年5月16日水曜日

上瀬留衣展「提案」(第1週/living sculpture ) 於、GALLERY wks.(大阪・西天満)





奥に設えられたプールの中では作家本人が自らの身体を、彫刻作品として展示している。

まったく動かない。微動だにしない。

ホワイトキューブでこのようなものを目にすると、まるで異次元空間に迷い込んだかのような錯覚を催す。

すると、明るさ、色彩、温度、気配、質感などを知覚する器官が、静けさの中で次第に鋭敏化していくのが感じられる。
ここでは、たやすく客体化できる対象としての彫刻と、鑑賞者の実存へと照り返す光を放つ生身の肉体との、境界認識が攪乱されざるをえない。

そしてそれは、なにか画然とした区別によって仕切られた様々な価値観の自明性に、空虚な枠組みが仮設されていることを炙り出すメタファーともなるだろう。

造形的な意匠の細部から窺える象徴性もまた、面白い。


上瀬留衣(かみせるい)さんからの“提案”である。









GALLERY wks. 
第1週 5/14~5/19 /living sculpture 12:00-19:00
第2週 5/21~5/26 /installation 12:00-19:00



ポートフォリオから




2012年5月15日火曜日

五影華子展 於、Oギャラリーeyes (大阪・西天満)



 床にぽっかりと開いた海のような・・・。
あるいは、薄く曇った夜空を透過する満月の光りを思わせる。



純粋な記憶が蓄積し重なり合った感覚的風景の、その曖昧で多重的な事柄を、絵画の中で露わにしていく営みである、と五影さんは言う。それは世界を触知することであり、絶対的自由への指向性によって貫かれている。

絵画の平面を現象学的に観察することの意味も無意味も宙吊りにされてしまった風景が、そこに広がっていることをいったんは認めなければならない。

絵の具の物質性が際立つ無媒介的でオートマティックな筆致によって、なにがひらかれていくのだろうか。

“みること”を通じて喚起される力動的なイメージは、わたしを深く魅了してやまない。




◆「五影華子(いつかげはなこ)展」 Oギャラリーeyes 5/14~5/19





2012年5月14日月曜日

「言葉のアールブリュット 友原康博展」於、ギャラリー1(神戸・旧居留地)

統合失調症を患い、数十年を過ごした精神病院で生涯を閉じた友原康博は中学生の頃集中的に詩を書き続け、それらは1995年に一冊の詩集としてまとめられた(『友原康博詩集 いざつむえ』編集工房ノア刊)。今回の展覧会ではその頃の生原稿が展示されている。



「アール・ブリュット」という名は作品を流通させるためにそれをそう名付ける必要があった市場の要請によるものであるが、そもそも創造性の表出とはそれが作品であるかどうか、あるいは名付けられるべきコードを備えているかどうかといったこととは本来関係が無く、いかなる本質にも絶対的に先立っている。それゆえ「アール・ブリュット」とは差し当たっての濫喩でしかない。
迸る情動を言葉ならざる言葉でひたすら書き綴った友原康博の「作品」が、詩なのか、詩でないのか、芸術なのか、非芸術なのか、そんなことはなんら重要ではないのだ。

ここに来て友原の言葉に心身をさらせば、既存の、あるいは「新しい」「オルタナティブな」と称しながらもいったん構成されると硬直化する堕落性を常に孕みもつ、美学の体制を内破する潜勢力を感じることができるだろう。


5/13、会場では友原の才能を見出した具体美術協会の嶋本昭三・浮田要三の両氏の対談と、著書『夜露死苦現代詩』で友原を取材した都築響一氏によるトークショーが開催された(写真は都築響一氏〔左〕と聴き手の樋口ヒロユキ氏〔右〕)。

ギャラリー1  5/7~5/27

2012年5月12日土曜日

中原中也「言葉なき歌」(詩集『在りし日の歌』所収/書:奈澄和〔なずな〕)

あれはとおいい処にあるのだけれど/おれは此処で待つてゐなくてはならない/此処は空気もかすかで蒼く

葱の根のやうに仄かに淡い/決して急いではならない/此処で十分待つてゐなければならない

処女(むすめ)の眼のやうに遙かを見遣つてはならない/たしかに此処で待つてゐればよい/それにしても

あれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた/号笛(フイトル)の音(ね)のやうに太くて繊弱だつた/けれどもその方へ駆け出してはならない

たしかに此処で待つてゐなければならない/さうすればそのうち喘ぎも平静に復し

たしかにあすこまでゆけるに違ひない/しかしあれは煙突の

煙のやうに/とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐた




◆「日常の片隅」展より。於、カフェ&ギャラリー凛(奈良・田原本) 2012.2.3-2.12 


奈澄和さん独自の感覚で詩行は分節され、言の葉は下から上へと開かれていく・・・。