「超えてきた眼前」*
田中秀介さんの絵に付せられたタイトルは、絵と釣りあう重みをもっている(というにはあまりにもさりげなく在る) 。それらは鑑賞において、絵に秘められた謎の扉を開く鍵のようなものと思えるし(扉を開いたところでさらなる謎が待ち受けているかもしれないのだが)、絵のように視覚化されないだけに、より深い謎であるとも思える。
いずれにせよ、私たちが日常使用する話し言葉・書き言葉とは異なる、独自の論理をもったシンタックス(統辞法)が窺えるそれらは、紛れもなく現代詩の言葉である(いわゆる"ポエム"の言葉では断じてない)。たとえば絵の前で「超えてきた眼前」というタイトルを読むと、何"が"「超えてきた」のか、何"を"「超えてきた」のか、はっきりとはしないが、「眼前」という言葉を正に鑑賞者の眼前にある絵から切り離して解釈しようと努力しても、かなわない(タイトルを読まないのならその限りではないが、それではもったいない)。それぞれに力をもった言葉と絵が、それを見る主体との間で何かをとり結ぶがゆえに、切り離すことができないのだ。これは、美術の強度であると言っていい。
このように、助辞(助詞)や、助辞によって綴られる(はずの)要素の欠落が仄めかされ、発話の主体も不明瞭なままにおかれているのは、意識的にか下意識的にか、空白が設けられていることによるのだろう。
そこにある空白は、絵と作家との間の、けっして明かされはしないが誰をも拒絶しない強い論理の存在を示唆している。だから、タイトルからそう遠くないどこかにある(はずの)「~は~」「~を~」「~の~」といった格助辞の前後に、画面上のモチーフを入れるか、鑑賞する"私"を入れるか、あるいは側に立っている野村ヨシノリさん(ギャラリーOUT of PLACEオーナー)を入れるかで絵の見え方、意識への迫り方ががらりと変わる、そんなことが可能になるのだ。もちろん、画面には描かれておらず、絵画のコンテクストともまったく無縁なものを入れたってかまわない。
欠けた文法要素には自由に何かを代入できる。
田中作品の場合、タイトルを読んだ鑑賞者の意識が向かうのは絵と言葉の間であるのだから、そこに何かを入れると〈遊び〉が生まれ、〈遊び〉を通じて見えなかった何かが見えるようになる。作家にとっての〈遊び〉と、鑑賞者にとっての〈遊び〉とがここで自由に交わり合う。
そうして物語は立ち現れる。誰かと一緒に語らいながら鑑賞するならば、なお一層自在に。
以下の絵「遠い時速い場所」**を見ながら空想したとりとめのない物語を、書き連ねてみよう。
石仏が安置された祠(ほこら)が建っているのは岬の突端。海は荒れ、波は逆巻き、水平線は猛り狂ったようにせり上がっている。
寒い冬の午後、軽トラックで岬までやってきた男はそのまま軽トラごと海に飛び込むつもりだったが、祠の前に来たとき、何かが起こった・・・
祠をみて思い留まったのかもしれないし、中の石仏から発せられた制止の声を聴いたのかもしれない。あるいはもっと卑俗な理由で生への衝動が突き上げてきたことも考えられる。ともあれ、現実に突き戻される経験をしたのだろう。寒い冬の午後、軽トラックで岬までやってきた男はそのまま軽トラごと海に飛び込むつもりだったが、祠の前に来たとき、何かが起こった・・・
一瞬たりとも形を留めることのない波しぶき、名も無き石工によって作られ人々の栄枯盛衰を見つめてきた石仏、地殻変動で隆起してよりこの方、悠久の時のなかで泰然と佇む岬、そこにやってきたトラック・・・それぞれが、まったく速さの異なる時間の中にありながら、ほんの刹那、なぜか同じ場所を共有している。「速い場所」とは「石仏(or岬/海)にとっての」速い場所なのだろうか?
ところが、海に見えたそれは、アルプス山脈のように地層の褶曲によってできた山である・・・ことがある瞬間分かった(そんな気がした)。私も仏様の声を聴いたのだろうか? それとも山の神様の声か? ただひとつ確信がもてるのは、男が現実に突き戻されたことを想像したのと、画面をみている"私"の存在に、他ならぬ私自身が違和感を抱いたのとが同じ瞬間の出来事である、ということだ。確信を足場にした途端、石仏だと思っていたそれが、まったく奇想天外な代物であることも否定できなくなってくる。そして、はじめから海ではなくて山だったのか? 海が山に変貌したのか? 山だと分かったのがそもそもの思いこみなのか?・・・ますます深みにはまり込んでゆく・・・
だが、引き返す軽トラが向かう先が、絵を見ている"私"がいる方向とは微妙にずれていることに、ささやかな安堵を覚えた。その安堵とは、別の見方をすればちょっとしたショックであると言い換えてもいい。それでも、ずれが残したショックのお蔭で"私"は遠い時の彼方で見た夢のことを思い出す幸運に恵まれた。あまりにもなつかしい夢のことを・・・
絵をみている間、私が生きている時間から、確かに私は引き離されているのだ。
田中作品を眺めたり、眺めていた時間のことを思い出していると、作家が思索した時間と私が思索した時間とが(どうにも説明できない様相で)交差するのではないか、という妙に昂揚した期待感にとりつかれる。それはたとえ不安なモチーフであったとしても、心地のいい妄想である。
制作の外側で作家が営んだであろう、存在と時間についての深い思索が窺えることに、おそらく異論はないだろう(そうは言っても、やはり画面から真っ先に感じられるのは、この上ない遊び心であるに違いない)。
個人的な好みをさらに付け加えて言えば、絵のタッチが1930年代、池袋モンパルナスのシュルレアリスム風なのも大変味わい深くていい。
しかし、そんな見た目の好みよりもなによりも、多くの人々が現実だと思っているもの(現前性)を掘り下げ、奥深く分け入ることでしか開かれえない強度の現実(真理といいうるなにものか)への通路を示す力が、遊び心とともに絵に込められていることこそが大きな魅力である。それは、現前性を自明視する人、そこに(居直るともなく)居直る人にとっての、いわゆる"現実味のなさ"であるのだが。
あるいは現実の、どうしようもない計り知れなさを思い知ることであるのかもしれない。
そのようになさしめる絵とは、まぎれもなく生きたシュルレアリスムであり、シュルレアリスムを美術史の序列から解放する機運とも呼応した、真に現実的な絵であるとはいえないだろうか。