アクリルケースには、温度計を封じ込めた氷が存在していた。その氷は、作家自身の体内水分量と同じ体積の水を氷結させたものだという。
展覧会を訪れたのが5日目だったので、室温にさらされた氷はすべて融解し、水は天板に穿たれた孔を抜けて下の槽に溜まっていた。氷が載っていた天板には温度計が取り残され、その裏側には今にもしたたり落ちんばかりの水滴が微妙なバランスで付着している。そこから、幾分かの水は揮発し、氷が溶け落ちてもなお、この空間を共にする人々の熱に感応していることがわかった。
5日目というのは、そこに氷が存在していたことを確認するのにいいタイミングだったのだろう。
シャーレには一枚のオブラートが敷かれ、表面にクレーター状の窪みがひとつ。
これは稲富さんが育てている植物が、ある朝、葉先からしたたり落とした一滴の露の痕跡である。
これはギャラリー南面の窓である。風雨や排ガスが窓ガラスに付着させた塵や埃を"空気が行ったドローイング"とみなし、その中央部を丸く拭き取ることで、自然が人工物に施した場に作家が介入する。しかし交通量の多い三条通に面した窓は、会期中にも空気によるドローングは続いてゆき、鑑賞者はそのありさまを確認すべく目を凝らす。ここでは存在と時間をめぐる問いが投げられているようだ。(この写真では判別できないのが残念)
流動と循環をどこまでも繰り返す水という物質は、ときに恐ろしい一面をも見せつけるが、人が生きてこの世にあるかぎり、水との関係を絶つことはできない。生命にとって欠かせないものであるがゆえに、日常の中でそのありがたみを忘れてしまうこともある。しかし、ときに見せる美しい姿は私たちの心をとらえて離さない。そしてとらえられた心は、想像の翼を広げ飛翔してゆく。
稲富さんは自然現象を利用したり自然によって形づくられた場に介入したりすることで、自己と他者との間にある美術のあり方を、水という物質を通じて追究する。追究するのは美術のあり方であると同時に、人やモノや世界といった存在をめぐる様々な問題でもあるのだろう。
その営みからは、作品が自己と他者のみならず、他者と他者との、あるいは他者と世界との仲立ちとしても存在しうるということ、ひいては共にあることへの深い信頼が感じられた。
◆KUNST ARZT(クンスト・アルツト) 9/24~9/29
厚手のトレーシングペーパーでつくられた封筒にミルラという香油の原液(稲富さんが自身で抽出)が封入され、両の掌で挟むと熱で香油が溶け香りが立つというもの。来場者に配られたお土産である。
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