① まず京谷が短詩を七篇、短冊に書き付ける。
② 2018年正月、この短冊を、池田・しまだ・中屋敷、三人の美術家がそれぞれ二回ずつくじ引きみたいにして引く(各自が引いた短冊の詩は、この時点では引いた当人と京谷と立会人の西嶋みゆきだけが知っている)。その後は新年会。
③ 三人の美術家は引いた二枚の 短冊に書かれた詩をお題に、他の二人に引き継ぐための二点の作品を作る。残った一枚は共同制作のお題とする。
④ 2018年春、一人につき二点ずつの作品を持ち寄り、各自が他の二人に作品を引き継ぐ交換会を実施。この時、詩が全て明かされる。その後は途中経過作品を愛でながらの酒盛り。
⑤ 三人の美術家は引き継いだものに自由に干渉し、作品を仕上げる。
⑥ 詩はそのまま作品のタイトルとし、短冊はそのままキャプションとして使用する。
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フライヤは某激安スーパーのチラシ風にする。
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★《猪口才(ちょこざい)なこびとを愛撫するタコを眺めるムーミンはバカかな? (ちがう、失礼な・・・)カバです! (ちがう)・・・》 中屋敷⇒しまだ
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=OhUO2nDnr3c
※会場ではQRコードをスキャンすると特設YouTubeサイトにジャンプして京谷による朗読音声が再生される仕組み。
★《私たちはね 豆腐の角に頭をぶつけて死にかけている瀕死の夢想者なの (はい、そうです)(か)》 中屋敷⇒池田
角を落した角材にペイントした中屋敷氏から引き継いだ池田氏は、絵具の色とまったく同じ色の糸をもって刺繍を施しています。
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=y7QLAk_8ugI
★《「先生、スッポンとすっぽんぽんは関係があるのですか?」「スッポンは裸の亀だからスッポンなのです。」「ほんとですか?」「亀とは裸でありつつ裸でない存在なのです。」「・・・。」》 しまだ⇒中屋敷
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=ibQJy7DbbAk
★《道化師であり 河童であり 骸骨であり へのへのもへじである よ 菱の焼酎に溺れないで よ》 しまだ⇒池田
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=QNUnswSaf-U
★《凡庸さ において 優秀な 官僚 としての 椎茸ド ロボー》 池田⇒しまだ
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=szDNPkKp7Pg
★《「(最近の)高級車の顔はなぜ人相が悪いのか?」という疑問と「自己を抑圧する者は他者をも抑圧する」なる格言との間に挟まれて神経症に罹ってしまった可哀想なネコの話》 池田⇒中屋敷
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=WlJZqdjSZMA
★《仏足石歌体(五七五七七七)による戯れ歌二首//
エロガッパ 想いは万感 濡れそぼち 宵待ち草に 更け待ち月の やる瀬もたたず/
松風に 溶けなずむ尻 拭き忘れ 色は匂わず しかばね起きる かりそめの閨(ねや)》
しまだ⇒中屋敷⇒池田 (全員の共同制作)
【音声】https://www.youtube.com/watch?v=2ermedJl4WI
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◆「あの!しまだそう(ペイントマスター)とご存知!!中屋敷智生(トリックスター)と噂の!!!池田慎(ファンタジスタ)とまさかの!!!!京谷裕彰(ロマンチスト)が 奇跡(とわ)の黄金比(めぐりあい)」展
2018/10/6(土)~8(月),12(金)~14(日),19(金)~21(日)、Finch Arts(フィンチ・アーツ)https://www.facebook.com/finchartskyoto/
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「捕獲と脱糞」 京谷裕彰(詩人・批評家)
20世紀前半に登場して以来、アブストラクト、シュルレアリスム、マルセル・デュシャンは現代美術の基層として、さながら持続低音のように響き続けている。これら三つの系譜を、中屋敷智生、しまだそう、池田慎がそれぞれに引き継いでいると言ってもあながち大袈裟ではない(ホンマかいな?)。なおかつ、そのどれでもあるような自由な創造性で我々の無意識を刺激し、異世界へと誘ってくれる三人が、それぞれに干渉し合う。
この三人が、なぜこの三人なのか、なぜこの京都の雑居ビルの一室で干渉し合うのかは、自ずと明らかになりゃいいな、という程度のうすらぼんやりした希望的観測はまんざらでもない。京谷の詩を皮切りに三人が絡む、言わば三つ巴が四つ巴になった展覧会である。巴(トモヱ)とは人魂形に尾を引いた円が渦を巻くように拮抗したおなじみの紋様だけんども、京谷が昔36回のゲップで買った『日本国語大辞典 第二版』によると、「トモ」は友または共で、「ヱ」は絵だとかいう語源説があるんだから、なんとはなしにすがすがしい。
ま、それはさておき干渉の鑑賞とはいかにも語呂がよい。(あるかないかもよくわからん)落とし所から滑り落ちながらひっかかる地点、そこから始まる何かに魂を飛ばしてみようではないか。
ホモ・ルーデンス※の共演や、いかに・・・。
※homo ludens遊ぶ人、の意。
「奇跡は、自然法則にしたがった作用と相互関係にある。両者は互いに限定しあって、ひとつの全体をなす。この二つは、互いに止揚(アウフヘーベン)しあって、ひとつに結ばれる。自然事象なしに奇跡はなく、奇跡なしに自然事象はない。」
(ノヴァーリス『花粉』より、今泉文子訳)