2012年6月14日木曜日

やまもとひさよ写真展「大川さん」 於、Port Gallery T (大阪・京町堀)





やまもとひさよさんといえば、自身の内面にあるコンプレックスをテーマに、金髪のカツラを被り泡風呂の中でエディット・ピアフの著名な楽曲をたからかに、そして調子っ外れに歌った映像作品"La Vie en rose"(映像コテンパンダン展2011)が強い印象を残しているが、今回の写真展のタイトルは「大川さん」である。
しかし、大川さんとはいかなる人物なのか、あるいは非人物なのか、作品からは何も手がかりが得られない(ように私にはみえた)。作家も語ってはくれない。
火で炙ったり、破いたりした、戯画的な写真の大半は作家自身が被写体となっている(ように私にはみえた)。すると、制作の動機やテーマはやはり一貫している(ように思える)。
吃音や訥弁、沈黙によってしか示しえないものを、潔さと不安との揺らぎの中で、(自覚のないままであっても)どうにか示そうという意志がたしかに存在している。

Port Gallery T 6/11~6/16

2012年6月11日月曜日

MU東心斎橋画廊 彫刻コレクション展 (大阪)

安藤栄作、デヴィッド・ナッシュ、冨長敦也、の彫刻を集めた展覧会。

冨長敦也「吹く」

安藤栄作「天と和解した人」(部分)


創作という営みが、そのまま自然との、自然物との交わりであるような三者の作品。
作品それぞれが自律していながら、作品たちが一つの空間を共にすることでしか醸しえないアウラが、静かに結晶していくのを感じられる。
ここにいる間、作品を評する言葉などはなにもでてこなかった。

諺ではない。象徴ともちがう。

ただ、なにかにいざなわれるように、そこに。そこから。


MU東心斎橋画廊 6/5~6/17 


"レッド・キューブ" 浜崎健立現代美術館のトイレにて



朝顔の
外に漏らすな
竿の露


このような五七五、もしくは五七五七七の定型に落とし込んだ注意書きをみると不意にテンションが上がる。洒落すぎず間抜けすぎない、ほどよいベタさも悪くない。
そうしょっちゅうお目にかかれるものではないが、別段珍しいものでもない。全国各地のトイレにひっそりと佇むこの手の歌や句を採訪してみたい、という妄想もふくらむ。
もう随分前のことなので今も貼ってあるのかどうか定かではないが、継体天皇の真陵と目されている今城塚古墳に埴輪を供給した工房跡、新池埴輪工場遺跡(高槻市/何某というマンションの敷地内に整備)のトイレでも美事な歌を見たことがある。その結句は「松茸の露」で閉じられていた。

タンクの角には聖デュシャンの「R.MUTT 1917」署名ステッカー。



◆浜崎健立現代美術館 http://www.kenhamazaki.jp/index.htm


2012年6月3日日曜日

上瀬留衣「提案/variant installation」  ~「漂」展2012より 於、ギャラリー流流(大阪・阿倍野)

以下の写真はギャラリーwks.で好評を博した上瀬留衣さんによるインスタレーションの変形版である。





wks.での二度の展示から、あるいはそれ以前の仕事から、持続され反復されることを通じて、さまざまな課題が「提案」として投げかけられている。
二度の展示は対極的な自明性の仮構を、感性のレベルにおいても宙吊りにする「提案」だったわけだが、今回は文字通り宙吊りにされた虚ろな胴体である。

とりわけ、象徴としての、隠喩としての、そして概念としての〈穴〉、〈裂け目〉、〈襞〉について、課題を頂戴することになった。


◆「漂」展2012 6/3-6/17  ギャラリー流流

●wks.での展覧会レヴューはこちら↓
第1週 http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/05/living-sculpture-gallery-wks.html
第2週 http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.jp/2012/05/installation-gallery-wks.html

中埜幹夫展 -Medium- 於、Oギャラリーeyes (大阪・西天満)

 キャンバスにアクリル絵の具で描画した上から、白のゲルインクボールペンで点描していく。現代の画材を使って普遍的なテーマを追求しているのだと中埜さんは云う。

既に過ぎ去ったものと、未だ来たらざるものとの、不在の間隙にしか現れることのない時空。
そのような一回性の瞬間がたえず繰り返されていくことの中に、生は存在する。
だが、人の時間意識は伸びたり縮んだりするもので、かかる内的時間意識それ自体が意識にのぼる瞬間がある。
絶対的あるいは相対的な尺度によって計測可能な時間としてのクロノスに対し、生きられた時間としてのカイロス、その記憶の蓄積こそが生のよろこびやくるしみ、ひいてはゆたかさをあらわすようなあり方、それが意識にのぼる瞬間が。

中埜さんが描く白い点は、雪が降り積もっていくように、あるいはそうして降り積もった雪が溶け、蒸発して雲となり、そしてまた雨や雪となって降り注ぐように、直線的な時間も円環的な時間も、ともに包摂する、生きられた時空の象徴として可視化されたのだろう。


Oギャラリーeyes 5/28-6/2


2012年6月2日土曜日

HENGE Exhibition -Fast Mercy-  於、乙画廊(大阪・西天満)

アクリルレジンで製作した可変型フィギュア。一つのモデルが変形するさまを、色違いのフィギュアを使って展示する。

この鶴は、
 
折りたたむとCDケースに収納できる。というか、CDケースから取り出して立体化する。

 圧巻はこの龍。
 レイのように変化。
龍の頭はここに!


フェティシスティックな欲望を掻き立てる「大人のおもちゃ」である。


乙画廊 6/1-6/9


★HENGEこと山路智生(やまじともお)さんは、娑婆の稼業としてカイロプラクティク院を営んでおられる。場所は宝塚市内(阪急今津線の小林と仁川の間)。
→機能回復院 http://www.kinou-kaifuku.com/index.html

2012年6月1日金曜日

立見祐一「恐ろしいほどの自由と歓喜」 ~「第七感展 2」より 於、ギャラリーはねうさぎ(京都・東山三条)



立見祐一(たちみ・ゆういち)さんは画材の選択、絵の具や墨の落とし方、流し方、など制御的操作のミニマムを追求することで、抽象表現によってしか指し示しえない無限を志向する。

立見さんといえば昨年冬のFactory Kyotoで、そのシュルレアリスム的具象画の衝迫力に瞠目したものであるが、それとはまったく異なる方法で並行制作していることに強く惹きつけられた。
二つの極を、あらゆる二分法を越えて、また弁証法的な止揚とは異なるやり方で。
その彼方にあるビジョンへの確かな信念が、それを可能にするのだろう。

今はもっぱら、色、温度、音、質感、動きといったものを把捉する感官を超越することに精力を注いでいるようだ。
もちろん、具象画制作の展開にも大いに期待したい。

2011.12、Factory Kyotoにて。


ギャラリーはねうさぎ 「第七感展 2」 5/29-6/3

國府理 展「水中エンジン」 於、アートスペース虹(京都・東山三条)



1㍍四方、のアクリル製水槽の中に沈められたエンジンは4ストローク・2気筒・550cc、名高いスバルの軽トラ「営農サンバー」から摘出したもの。
これを水中で運転すると泡がブクブクするわけだが、いかんせん水中である。しょっちゅうトラブルで停止する。そのたびに國府さんはせっせと手入れをし、そしてやっとまた動きだす・・・、といった調子。

一見するとその姿のベラボーさに驚きとおかしみを感じるものの、すぐさま別の異質な感情が、複数的に湧き起こる。
いつか見たSF漫画のシーンを思わせる既視感、心臓を思わせるフォルム、本来の目的から切り離され切り取られた姿の哀惜・・・
剥き出しのエンジンをみることで呼び覚まされる詩的感興の数々・・・。

國府理(こくふ・おさむ)さんの作品「水中エンジン」はエネルギー変換効率の悪さを可視化することで、現代の物質文明・経済・資本主義が不可視化してきたさまざまな問題を静かに問いかける。
そう、エンジン音やガソリン臭が刺激する嗅覚のざわめきとはうらはらに、静かに。

そこから、原発問題にまで私の話は饒舌にとりとめもなく・・・

すると、これを作るきっかけになったのは福島第一原発の過酷事故であると國府さんは言った。

作品に貫かれている強く明確なコンセプトは、会場で配布されるリーフレットにて表明されている。



アートスペース虹 5/22-6/3



【追記】
-------(國府理さんによるステイトメント)

「熱源」(ねつげん)とは、周囲に対し高い温度を持った地点、エネルギーの供給ポイン­トを指す。英語ではホットスポットと訳されることがある。そしてこの展示プランは、と­りもなおさず、先の地震における原子力発電所事故に着想を得たものである。
冷やし続けなければ暴走してしまうエネルギーの存在、そして最先端と言われた科学技術­で稼動させていたシステムを止めるものが唯一まったく私たちに身近な普通の水であると­いう事実、そして汚染された水を貯蔵するタンクが為すすべなく増えていく光景。それら­のすべてが、そこから作り出されていたエネルギーの上に暮らしている私たちの日常感覚­に与えた影響は計り知れない。そこに起こっている事象は社会的な意味においても「熱源­」であると言えるのかもしれないが、そこに立ち現れるのは悲しくも文字通りの温度差で­ある。そして事象の深刻さは対流を繰り返して拡散し平均化されていく。
私は以前に「拡散するということ」をテーマにCO2Cubeというバルーンに自身所有­の自動車の排気ガスを貯蔵する作品を展開したことがあったが、そのバルーンの膨らみ方­や一箇所に留めたそのガスの匂いは、拡散することによって認識を曖昧にさせて初めて成­立する営みがあることを実感させるものだった。そして今回の原子力発電所での事故につ­いて、あたかも人が、自動車の故障が起きて初めてボンネットフードを開けて、そのエン­ジンユニットの複雑さに気付くというような感覚を想像した。それは人間の臓器に対する­認識のように、容姿への関心とは裏腹な、その営みの重要性への認識の希薄さにも似てい­る。
私はこの展示において、科学的、工業的なシステムにとどまらず、さまざまな連関によっ­て凝集している核心と呼ぶべきものと、それを源とする拡散の様子を想像するための模式­を提示できないかと考えている。そしてまた、凝集と拡散を繰り返す自然界を見るときに­「源」という概念が果たして必要なのか、ということを考える契機にもなればと考えてい­る。