絵画作品は全てアクリル画で、キャンバスの布目が強調される白くかすれたマチエールは一瞥すると擦ったようにも見えるが、描画の仕上げに白い絵の具をローラーで引くことによって得られた効果である。
布目の白いかすれは、絵画イメージが強力に押し迫らないよう配慮された演出であり、これにより鑑賞者の目を惹きつける引力が緩やかに生じる。
パステル色・蛍光色が一見して印象づける“女の子っぽさ”。そのキャッチーな印象にかかるバイアスについて、もとより作家は自覚的である。
もちろん、これらの作品によってアウラが満たされた空間の、“女の子っぽい”雰囲気の心地よさに浸るのも、楽しみ方の一つであるには違いない。なにしろ、ほんわかとした雰囲気はナカタニユミコ作品の大いなる魅力なのだから。
ところが作品たちが佇む空間に感覚をさらし、意識的に視線をキャンバスに落とせば、そんな皮相な印象ではけっして片付けられない深みに気づくことだろう。
古民家を移築再生させた会場の渋さも、その気づきのためにはプラスに作用しているようだ。
いつかどこかで見た記憶の残像が記号化された形象、それは一枚の絵の中でも反復され、異なる絵の中でもまた反復される。形象は記憶を呼び覚ますシンボルとして、意識の深層へと通じる扉を開く鍵となる。
記号化された形象、そのラインはシャープなものでありながら、穏やかで柔らかな印象を瞼に残す。とはいえ、一つ一つの細部を現象学的に記述し、説明など加えようものなら一気に興醒めしそうなくらい、醸し出されるアウラは繊細である。
そのような記号を集積することで構成された風景は、鑑賞者の意識の内奥において、イメージのナチュラルな変成を催すのだ。
鑑賞した人それぞれが、それぞれ固有な経験に裏付けられた異なる記憶を喚起する媒介として作品がそこに存在するのだとしたら、それは記憶共有のメディウムとしての芸術であるとはいえまいか。
だがここで注意が必要なのは、共有される記憶が、マスメディアによって流布される類のセンセーショナルな事件やナショナルな儀式、あるいはマスカルチャーといった人々の暮らしとは無縁な高みから降りかかってくるようなもの、または何かしら特定されたものではないということだ。いや、あるいは人々がマスな出来事に常日頃さらされているという程度(流行の風俗など)には重なることがあるかもしれない。
だがしかし、ここで共有されるのは、個人的でささやかなもの、それゆえに人それぞれが心の成長において意味をなした個々の出来事を想起する回路、それ自体なのである。
ところで元銀行強盗でありながら、獄中でジャック・デリダに弟子入りしたという特異な経歴を持つ哲学者ベルナール・スティグレール(仏ポンピドゥーセンター文化開発ディレクター)は、テクノロジーの進歩によって人々の知覚が変容をきたし、その結果、知的な生の成果(概念・思想・定理・知識)と感覚的な生の成果(芸術、熟練の手仕事)=〈象徴〉を産み出す力が貧困化した現代の有様を〈象徴の貧困〉という言葉で言い表した(メランベルジェ夫妻訳『象徴の貧困』2006,新評論)。この〈象徴の貧困〉はわれわれから〈自分を愛すること〉〈共にあること〉といった人間にとって大切な感覚を奪っていくものであるが、作品が記憶を共有するメディウムとして立ち上がるのなら、この感覚を回復するものという意味で芸術が本来もつ力を体現しているといえるのではないか。
作家は言う、
「人の郷愁を誘うことを制作のモチーフにしたかった」
「未来を共有することは難しいが、過去は共有することが出来る」
と。
作品を仲立ちに過去を共有すること、それは今現在、〈われわれ〉が〈共にあること〉への想像を促し、未来への希望をひらくことである。
雲形に水玉と星形を配した近作。これらの記号は作家の心象におけるミニマルなシンボルだろうか。
作家によるとこれは音をイメージしたものなのだと。
雲形が低音、水玉が中音、星形が高音?などと想像するのも楽しい。
会場にて公開制作中の屏風は2/4(土)に開催されるライブペインティングにて完成の予定。
ナカタニユミコ個展 「ファンタジック・センチメンタル」
2012年1月6日(金)~2月7日(火)、10:00-17:00
お茶どころ・ギャラリー はなや北川 (定休日:水・木)
http://www.geocities.jp/hanaya_yoshida/