2013年9月23日月曜日

加世田悠佑"perceive" (KYOTO CURRENT 2013 より)


"強い主義が支配する現実。それのみをもって「最先端」や「時流」を定義することを安易に許してはならない"と主張するディレクター・小島健史(こじまけんと)さんにもっとも近しい立ち位置にいることを、制作行為と作品によって示してきた加世田悠佑(かせだゆうすけ)さん。ここには、加世田さんがbudの群の向こう側に見出したものが仄めかされているのだろうか("bud"については過去の記事を参照)

枠のような二つの鉄に画された空間に身をさらすなかで呼び起こされたのは、ジャン=リュック・ナンシーの以下の様な言葉であった。
個々のイメージは無限の意味の有限な型取りであり、無限の意味はこの型取りによってのみ、あるいはこの区別の描線によってのみ無限であることが示されるのである。諸芸術が多様性と歴史性をもち、そこにおいて様々なイメージが溢れかえっているという事態は、この尽きることのない区別に対応するものである。
(『イメージの奥底で』より。西山達也・大道寺玲央訳、2006年、以文社刊)


KYOTO CURRENT 2013 9/17~9/22

※KYOTO CURRENT 2013ディレクター・小島健史さんのステイトメント

2013年9月21日土曜日

ニュートラル・プロダクション(藪陽介・畠山雅弘)"raison d'être (レゾン・デートル)" 於、ギャラリーあしやシューレ(芦屋)

 透明なパイプの中、下から風が送られる度に吹き上げられては落下する白いビーズの粒。
その度ごとに、上からは碧く冷たい光が射し照らす。
その度ごとに、上へ、下へ、と翻弄される粒のひとつひとつが、何を連想させるかはもはや多言無用であろう。
人はしばしば、逆光によってしか浮かび上がりえぬ秩序、逆光という現象に気づかなければ認知すら難しい場所にいることがあるのだが、ふつうそれは何かしら実存をゆるがすほどの経験を通じて自覚するものである。
だが、美術がかくある存在の意義を知覚を通じて示唆することや、思索の入口へと導いてくれることもあるのだ。

そうして入口をくぐれば、「美術が・・・」という限定は仮枠としての用を終え、取り払われることだろう。

2枚の写真は中央に配された噴水状のインスタレーションを取り囲む四つの柱状オブジェのうちのひとつである。

ギャラリーあしやシューレ 9/18~10/6

2013年9月18日水曜日

わにぶちみき展「Touch」 於、ギャラリーCLASS (奈良)

わにぶちさんといえば、ゆたかな色彩で塗り重ねられた画面の中央部を帯状に残し、上下を白い絵の具で塗りつぶして水平な線を表すことで知られるが、それは内と外、自己と他者、など何かと何かを画する境界線であったり、何かと何かを対照する際の基準線であるような、コンセプチャルな作風である。白という色の特性にも象徴性がある。
今回の個展でお披露目された新しいシリーズでは、これまでの路線を踏襲しつつも、ある明白な進化が窺えた。
塗りつぶす白が境界近くでは透明度が高まり、結晶状の単位が顕現。それにより境界線であることの抽象性は縮減し、その反面、風景画のようにも見えるなど具象性が微かながら増長している。
また、境界線は縦であったり斜めであったり、水平から解放されたことで、静謐さのなかに動きが感じられる絵となった。
「(絵画の平面が)境界面になることで、線が水平である必要がなくなった」とはわにぶちさん自身の言葉。

その他には白い地に言葉(文字)を連ねて線を表す、コンクリートポエトリーを髣髴とさせるシリーズも異彩を放っている。

旧作では複数のタブローが組になることの効果が大きかったが、それはタブローのオブジェとしての性格を軽視しないという姿勢によるものだろう。その姿勢はそのままに、新作ではタブロー1点でも作家の世界観を存立させうる強度が備わっている。そうして、視覚が一つの画面に滞留する時間は大幅に、それもごく自然なものとして伸びてゆく。

ギャラリーCLASS 9/11~9/29 

「SHOHEI×2」 於、橘画廊(大阪・西本町)

 木の支持体に存在が内包する両義性を描く刀川昇平(たちかわしょうへい)さんと、出力した写真に手を加え印象を媒介する"絵"を描く吉野昇平(よしのしょうへい)さんの二人展。
刀川さんはシナベニヤの支持体に珪藻土とアクリル絵の具を混ぜて地塗りをし、その上に植物モチーフの形象を重ねてゆく。手前に浮き出すような葉っぱは植物を直接コピーしたものをシンナープリントで転写したものであるが、絞りを開放したF値の明るい大口径レンズで葉叢にピントを合わせた写真のようにもみえる。
葉、茎、種といった図像と、支持体とのアナロジー、そのイメージの重なりが想像への触媒になる。

吉野さんは理性を超えたところで直接意識に触れたモノや風景を撮影した、一見なんの変哲もない写真に、"意識に触れた"というその瞬間訪れたなにがしかの意味を探るかのように表面を引っ掻き"絵"に仕立ててゆく。
それにより、ピントの合っていない、画面深部にある被写体までもが浮き上がってくるのだ。これは"見る"ということにまつわる、さまざまな問題系に私たちを導いてくれるのだが、そのための操作は最小限にとどめられている。

絵のような写真―吉野―と、
写真のような絵―刀川―と、
二人が昇る平らな場所には、ある確かな開かれがあった。

橘画廊 9/16~9/21